はやせさんはなぜ、オカルトに魅入られたのか。そしてどのようにしてオカルトで飯を食うことができるようになったのか(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第114回。

オカルトで飯を食えるようになるまで

はやせやすひろさん(35)は、放送作家仲間の岸本誠さんと怪奇ユニット「都市ボーイズ」を結成している。彼らが運営する、都市伝説やオカルトを扱うYouTubeチャンネル「都市ボーイズ」はチャンネル登録者数32万人を超えている。また、活動は放送作家の範疇におさまらず、ポッドキャスト配信、オカルト番組に出演、と多岐にわたっている。


また呪物コレクターとしても知られ、オカルトコレクター田中俊行さんと開催した『祝祭の呪物展』は東京、大阪で2年連続開催。のべ1万人以上が訪れる大人気イベントになった。

2023年11月の上梓した初めての著書『闇に染まりし、闇を祓う』(サンマーク出版)は、はやせさんの「怪異ハンター」「オカルト専門探偵」の一面をフィーチャーした作品になっている。

個人としても、都市ボーイズとしても人気、注目が集まっているはやせやすひろさん。

はやせさんはなぜ、オカルトに魅入られたのか? そしてどのようにしてオカルトで飯を食うことができるようになったのか? サンマーク出版の会議室でお話を伺った。


『祝祭の呪物展』の様子。東京、大阪で2年連続開催、のべ1万人以上が訪れる大人気イベントになっている(筆者撮影)

はやせさんは、岡山県の津山市で生まれた。小学校は1学年が1クラス30人で、6年生まで同じ顔ぶれだった。

オカルトは、人と仲良くなるツールでもあった

「小学生の頃は体も小さいし、人と会話するのも苦手で、友達がなかなかできませんでした。唯一同級生と話せたのが、地元の山などの怪異についてだったんです」


(はやせさん提供)

津山市は「ごんご祭」というカッパのお祭りがあり、カッパに扮装して大きな通りでカッパの踊りを皆で踊る。はやせさんも小さい頃から参加していた。

その他にも、祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事「鳴釜神事」や、鬼神に扮して踊る「うらじゃ」など、の祭りもあった。津山から鳥取は近く、『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげるの出身地であり、その影響も強い。

はやせさんのお父さんも地元の怪異が好きで、はやせさんをドライブに連れて行っては

「あの山にはこんな謂れがあって……」

と妖怪譚、神話、都市伝説などを教えてくれた。

「ちなみに祖母は夏の暑い日に池の中で河童と遭遇したそうです。泳いでいたら足を引っ張られたと。潜って見たら小さかったので、腹パンして水から引き上げてボコボコにしたって言ってました。強い人だったんですよ(笑)。

そんなふうに怪異に恵まれている環境でしたね。父から聞いた話を同級生に話すと、聞いてくれるんですよ。その時だけは人気者になれました。だから僕にとってはオカルトは、人と仲良くなるツールでもありました」

中学は町の学校に通った。そこでもあまり友達は増えなかった。

「バラエティ番組を見たりラジオを聞いているうちに“放送作家”という職業があるのを知り、憧れました。もちろん『芸能人と会えるから』くらいのミーハーな気持ちでしたし、放送作家についてもよくわかってなかった。でも、中学生を卒業したら東京に出ようと決めました」

はやせさんは中学卒業と同時に、東京に出ようと思っていたが、母親に

「高校だけは卒業してくれ」

と懇願され、高校に進学した。

「いわゆるヤンキー高校でしたね。工業系の高校で女子はクラスに4〜5人しかいませんでした。数少ない女子に話しかけると『お前何話しとんねん!』って、ヤンキーに怒られるんですよ。小中時代、そもそも女性と話してこなかったし、ますます女性が苦手になりました。高校を卒業した18歳の5月に上京することにしました」

駅まで送ってもらうために母親の車に乗り込むと、父親がツカツカと歩いてきた。

「行くんかお前? わしゃ行けんかったのにな」

と言うと、はやせさんの鼻柱を拳で殴った。そして家の中に戻っていった。

「僕は長男なので跡をついでくれると思っていたのに、裏切られたというのももちろんあります。それに父も若い頃海外留学して絵を学びたいっていう夢があったのを諦めた経験があるので、田舎を捨てて東京に出ていく僕が羨ましかったというのもあったと思います。

父はずっと力仕事をしてた人なんで、殴られた鼻がいつまでも痛かったですね」


上京までを振り返るはやせさん(筆者撮影)

学生生活をはじめてまもなく「もう来なくていいよ」

東京に出てきたはやせさんは、プロダクション人力舎が開校しているスクールJCAに入学した。東京発のお笑い専門学校だ。

「お笑い芸人を目指している先輩がスクールJCAに入学したので、僕も追いかけて入りました。ただ、先輩は芸人志望だったんですけど、僕は作家を目指してました。学校には作家のコースはなかったので、仮にコンビを組まさせてもらって漫才やコント作る勉強をしたりしてました」

そんな学生生活をはじめてまもなく、講師の一人と言い合いになってしまった。

「たまたまライブの順位が良かった時があり、調子に乗ってました。先生に胸ぐらをつかまれて『お前声ちっちゃいぞ』って怒られたんですけど、カチンと来て『いや、でもおもろいもん作って順位良かったんやから、別に声ちっちゃかったって良いやろ!!』って言い返してしまったんです。そしたら『お前もう来なくていいよ』って言われました」

そのやり取りの一部始終を見ていた放送作家がいた。吉本興業に出入りをしている人で、

「君、裏方になりたいの? だったら紹介してあげるよ」

と制作会社へ人材を派遣する会社を紹介してくれた。

「それでスクールJCAを辞めました。暑い季節だったのを覚えてますから、入学して3〜4カ月で辞めてますね(笑)。

それで制作会社に入って、特番を任されました。グルメ番組やクイズ番組、ドライブ番組などを担当して、リサーチしたり資料を作ったりする日々でした」

ある日、社長に、

「レギュラー番組だけどやってみる? ただしすごくキツい現場だけど」

と言われた。それまでは特番しか受け持ったことがなく、初のレギュラー番組だった。

「その番組は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』でした。大好きな番組だったんで、よろしくお願いします!と言いました。ただ現場は、想像以上に厳しかったです」

はじめてのレギュラー仕事は嬉しかったが、それにしても「仕事が厳しい」のレベルをはるかに越えていた。

ただ『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』は毎週、ドラマを撮る回、クイズを撮る回、ゲームをする回など、さまざまな企画をやるので、総合的な力がついていくのもわかった。

「『笑ってはいけない』シリーズの時は、レギュラー番組を撮りながら、裏で特番も撮影するので結構厳しかったですね。

実際ミスも多くて……。スタジオで致命的なミスを2回犯したことがあるんですけど、それぞれ松本さんと浜田さんが助け舟を出してくれて事なきを得ました。ありがたかったです。

そんな厳しい現場でしたけど、打ち合わせは楽しかったです。ミーハーなので芸能人の話は単純に面白いですし、心霊の話とかも出るんですよ。

『どこそこの編集所に幽霊が出るらしいぞ』とか。そういう話聞くとワクワクしました。あと当時パソコン持ってなかったので、日テレのパソコンでオカルトなことを検索しまくっていました。後で無断使用がバレて使えなくなりましたけど。家に帰れない時も多く、そんな時は本を持ち込んで朝まで読んでましたね。夜な夜な、山口敏太郎先生の本を読んでた記憶があります」

ガキ使の先輩スタッフからは、

「3カ月でぶっ壊してやる!」

と宣言されていたが、なんとか3カ月は持ちこたえた。その時点でやっと、他のスタッフたちと連絡先を交換してもらえた。

目が覚めると東京駅に立っていた

「水曜日に収録があって、木曜日に回復、それでまた水曜日まで頑張る」というルーチンで毎日を過ごしていたが、ある木曜日、まったく回復していないのに気がついた。

「収録終わっても全然回復しないんですよ。メンタルがずっとキツイままなんです」

数日後、日テレで眠りにつき、目が覚めると東京駅に立っていた。はやせさんは岡山行きの切符を買おうとしていた。


(はやせさん提供)

「お金持ってないから、切符を買えてはおらずビービーと警告音が鳴っていました。その音を聞いてハッと正気に戻りました。携帯電話を見ると『お前どこ行ってんだ!!』と連絡がいっぱい来てました。無意識のうちに東京駅に来てるということで、さすがに『これはまずいかもしれない……』って思いました」

その時、たまたま知り合いから、ある雑誌の心霊特集の回を手伝ってくれないか?と頼まれた。

「単発の仕事なんですけど、『ヘッドハンティングされました』ってかっこつけて、下手なウソを言って、ガキ使の現場を離れました。結局1年ちょっとしかもたなかったですね。21〜22歳の頃です」

22歳の時、19歳で出会った2つ下の女性とお付き合いをすることになった。高校の時から、女性関係全般が苦手なはやせさんだったが、なぜかその女性とは話すことができた。

「ガキ使」で経験値は上がったとはいえ、結局、放送作家にもなれず、テレビ局にも入れなかった。

養成所のクラスに、キラリと輝く人がいた

そんな折、「ワタナベエンターテインメント」のタレント養成所「ワタナベコメディスクール」に「作家企画専攻」コースがあると耳に入ってきた。

「それで改めて入学しました。そこで、また悪いところが出て『俺はすでに1年間、ガキ使の現場で働いたけど、こいつらはまだずぶの素人だな』って舐めた感じで入っちゃいました。でも実際には、1年を通して僕の成績はドベでしたね」

クラスの中にキラリと輝く人がいた。後に、都市ボーイズでコンビを組む岸本誠さんだった。当時、はやせさんは23歳で、岸本さんは27歳だった。


(はやせさん提供)

「誰から見ても彼がトップでしたね。例えば宿題が出ても、岸本さんは完璧にこなしていました。僕はひねてるから、変にいじくり回して出したりするんですよ。性格は対照的でしたけど、何故か仲良くなりました。岸本さんがクラス内にグループを作っていて、その中に僕も呼ばれました」

1年が経ち、学校の卒業課題が出された。「自分の見たい番組をプレゼンする」という内容だった。

基本的には「スティーブ・ジョブズがiPhoneを紹介する」時のようなスタイルでプレゼンする人が多かったのだが、はやせさんは一人だけコント形式で紹介した。あまり評価されず落ちてしまった。

岸本さんはいつも通り完璧にこなして、トップで合格した。

「『これが人生の分かれ目で、もう二度と会わなくなるんだろうな』

と思っていたら、岸本さんが話しかけてきました」

「審査員全然見る目ないね。お前のプレゼンが一番面白いのにね」

と岸本さんは言った。

後編に続きます)


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(村田 らむ : ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター)