女子ボートレーサー

内山七海 インタビュー中編

(前編:高3のときに初めて知った「祖父がボートレーサーだった」で運命が動き出した>>)


ボートレース養成所時代を振り返った内山七海 photo by 栗山秀作

【「人生で一番ハマったのはボートレース」】

 昔から球技が得意で、高校もテニス推薦で進学した内山。だが、小さい頃からスポーツにはほとんど興味を示さなかった。野球を見ないのは、ルールがわからないから。サッカーもいきなり笛が鳴るし細かいルールがわからないから見ないという。「相撲は?」と聞くと「それはさすがにわかります」と笑った。

 末っ子だからか、昔から物事に対する執着心が薄く、興味がないことにはまったく関心を示さない。趣味と言える趣味もない。だが、ボートのことを考えている時は心が躍った。

「これまでの人生で一番ハマったのは、それこそボートレースかもしれません」

 ボートレースに心惹かれていたものの、レーサーになることが現実的に思えず、まずは教職を取るために西南学院大学へ進学する。

 大学では新しいスポーツを始めようと思った。過去のスポーツに執着しないのはなんとも内山らしい。

 入学式で最初に声をかけられたのがラクロス部だった。背が高く手足が長い内山は目立っていたのだろう。上級生も、そんな内山にアスリートとしての可能性を感じたのかもしれない。声をかけられた先輩にそのままついていくと、部活を優先するための履修まで組んでくれたという。

 なぜ誘われるままに入ったのか。内山が興味を持ったのが、大学ラクロス部の成績だった。

「私が入学する前年度は全国ベスト4。九州じゃなくて全国です。みんな未経験なのに、そこまでいけることが驚きだったんです」

 九州を飛び出して全国で戦う。もちろん競技の裾野が狭いという理由はあるだろうが、それにしても日本一になれる環境は魅力だった。「これから、ラクロス漬けの4年間が待っている」。そう思っていたことだろう。

 だが、内山の期待とは裏腹に、もも裏の筋肉の肉離れクセがつき、試合ではほとんど活躍できなかった。同時にキャンパスライフにも限界を感じた。

「大学に入れば視野が広がると思っていたんです。教職もラクロスもそうですし、人生の選択肢を増やしたら、ボートレーサー以外の夢が見つかると思っていました」

 しかし、ボートレースへの想いはますます濃くなるばかりだった。

【3年も続いた養成所試験】

 最初に養成所に願書を送ったのは大学2年の冬。内山は19歳になっていた。未成年は親の承諾がいる。母親に相談するとあっさりとOKしてくれた。学費はレーサーになったら返すつもりだった。

「お金で苦労させてきたので、早く楽をさせてあげたかったんです」

 レーサーの平均年収は1800万円(2023年7月現在)。母子家庭で育った内山にとって、高い年収は大きな魅力だった。「稼ぎたいからボートレーサーになった」。ボートレーサーを目指した理由のひとつを、彼女はそう振り返る。

 ちなみに内山家は4人兄妹で、彼女の上に3人の兄がいる。彼らも異を唱えることはなかった。末っ子の挑戦に対して「どうせ無理だと思っていたんでしょうね」と内山は笑う。

 そして迎えた入所試験。緊張せずにできたという内山だが、余裕とは裏腹に、まさかの不合格。知らせを受けた内山は静かに涙を流した。

 ボートレーサー養成所の試験は主に3段階で絞られていく。1次試験は高校入試程度の学力試験、そして柔軟性、筋力、瞬発力の体力試験。2次試験はさらに細分化された体力や適性試験。筋力や、心肺機能、柔軟性、反射神経などが試される。最後の3次試験では 面接と身体検査が待っている。だが、内山は1次試験で門前払いされた。

 ちなみに、内山が最初に受験した第121期は、1220名の応募に対して入学34名(男子27名・女子7名)。実に倍率35倍の狭き門であった。

 もう一度挑戦したい。そのタイミングで、ボートレーサー養成学校の無償化も決まった。そのニュースは再挑戦する内山を後押ししてくれた。

「アルバイトしてお金を貯めるつもりだったので、学費タダは大きかったです」

 運動能力の低さを自覚していた内山は、ジムに通って体を鍛えるようになった。そして臨んだ6度目の試験も不合格。フリーター同然の暮らしをしながらボートレーサーを夢見る日々は、実に3年も続いた。

 そして、ついに願いが届いた。学科、体力すべて準備万端で臨んだ7回目で、ようやく1次試験に合格し、そのまま無事に3次試験も通過。狭き門をなんとか突破して、ようやく夢の舞台への足掛かりを掴むことができた。

【養成所でぶち当たった大きな壁】

 養成所生活は軍隊に例えられるほど過酷である。だが、「訓練はきついものだと思っていた」という内山にとって、規則正しい生活も、外に出られない不自由もまったく気にならなかった。ようやく夢の舞台に手がかかった期待が、それを上回ったからだ。レースを毎日見ていた高校3年生の時に、ボートレース場に行って見知らぬおじさんに教えてもらったようなことが、いくらでも学べることも楽しかった。

 養成所の1日は長い。6時に起床したら朝8時から昼食を挟んで夕方まで訓練。夜は座学に自習と勉強漬けの毎日を送ることになる。

 初期はひたすら旋回の練習をする。7度目の挑戦で入所した"劣等生"は、練習でも遅れをとるようになっていた。練習がうまくいかない日は、就寝前の自由時間になると公衆電話に向かった。

「養成所では毎日3分だけ電話できるんです。かける相手は3人しかいませんでしたけど」

 母親、親友、そして兄。外の世界への未練を断ち切るために、電話番号を3つしか持参しなかったからだ。そこにも内山の覚悟が伺える。

 電話口で母親に愚痴をこぼすと、いつも母親は励ましてくれた。「あなたは頑張ってる」。体力で劣る女性が男性と対等に戦うボートレースという戦場に、自ら飛び込んだ自慢の娘を、母親はいつもやさしい言葉で応援してくれた。

 半年が経って実戦形式になると、さらに大きな壁にぶつかった。

「最初の半年は、操縦は基礎の基礎だから、教習所にいるようなもの。でも、後半になるとレース形式で、他の人と競わされ、勝ち負けで評価されるようになるんです」

 負けたくないという気持ちが自然と生まれる。それまで仲良く学んでいた同期たちが、突然ライバルになったような感覚だった。スタート練習、複数旋回、模擬レースなど実践的な練習が続くと、あまりの難しさにめまいがした。

 旋回はボートレース最大の見せ場である。そして、経験と技術の差が最も如実に現れる。
最初はひとりのターンを学び、やがて複数で旋回する実戦形式の訓練になる。隊形やパターンを変化させ、難易度はどんどん上がっていく。内山は上手にターンをする同期を見て焦っていた。

 その日は、現役の選手と一緒に複数旋回の練習をする予定が組まれていた。自分の技術の低さが情けなく、恥ずかしく思っていた内山は、練習前に「自分は下手くそなんで」と言い訳じみた挨拶をした。

 すると、先輩は真顔でこう言った。

「お前はこれからプロになるんだろう。ファンの期待を背負って、舟券を買ってもらうんだろう。自分のことを下手って認めたら、そんな奴の舟券を誰が買うんだ」

 その言葉が大きな励みになったと振り返る内山だが、ボートレースの本当の難しさに直面するのは、デビューしてからだった。

(後編:目標のA1級へ日々成長中「1号艇のプレッシャーに負けそうになることもある」>>)