女子ボートレーサー

内山七海 インタビュー前編


ボートレーサーになるきっかけを語った内山七海 photo by 栗山秀作

【7回目の試験で養成所に合格】

 2023年10月半ば。ボートレース平和島で開催されたレースは2日目を迎えていた。

 10Rで6コースから0.7のタイミングでスタートした内山七海は、内側を走るスロー勢(1〜3コース)より少し遅れてターンマークへ向かう。ボートレース最大の見せ場である第一ターンマークでは、実力で勝る1号艇、3号艇がしっかりとターンを決めて、先頭を固める。最高峰のA1級選手らしい安定感。この時点で内山は5位。

 だが内山は、第二ターンマーク付近で一気にまくって3着につける。ボートレースは順位によってポイントが与えられ、その積み重ねでクラスが昇降する。B1級の内山は2位を狙える位置につけていたが、3周目の第一ターンマークで先頭艇の波に乗り上げてまさかの転覆。スタンドからはため息が漏れた。

「まくりにいったら波に乗っかりバランスを失いました。完全に実力不足です」

 勝率6.53、平和島有数のパワーを持つ16号機モーターを抽選で引き当てた内山は、開幕からノっていた。

 初日は5コースからまくり差しで1着、2日目も4コースから差しで1着と、最高のスタートを切ったことから、モーターとの相性がよかったことがわかる。初斡旋の平和島でダークホースになるかと思われた。

 だが、2日目の2走目でまさかの転覆。その後は精細を欠いた。

「モーターに水が入ってしまったのか、思ったような機力が出せなくなったような気がします。申し訳ないです」

 そう言ってインタビュー場を後にした彼女の背中は、やけに小さく見えた。

 女優のような端正な顔に、すらっと伸びた手足。164cmの長身は、男子選手と並んでも引けを取らない。

 現在27歳の内山の初レースは、2020年11月のボートレース若松だった。新人らしく最下位に終わったデビュー戦から、2年が経とうとしている。268走目で初勝利という数字は、同期の中でも下から数えたほうが早い。だが、2023年からじわじわと成績を上げて、ボートファンからも一目置かれるようになった。

 内山が最初に注目を集めたのは、ボートレーサーになる前だった。養成所の試験に弾かれ続けて、なんと7回目の試験でようやく合格。強き意志で門戸を叩き続けたことが、ボートレースファンの間でも話題になったからだ。

「1次試験は体力テストと筆記なんですが、ぜんぜん通らなくて......。学費(2017年以降は無償化)を貯めるためにアルバイトをしながら受験を繰り返しました」

 彼女が初めて試験を受けたのは19歳の頃だった。当時、大学生だった内山は、ボートレーサーの養成所に受かったら大学は辞めるつもりだったという。

【祖父もボートレーサー】

 なぜ、そこまでボートレースに心を惹かれたのか。

 初めてボートレースの存在を意識したのは高校3年生の春だった。兄が自宅の近くにボートレース場があることを食事の場で話し始めた。すると、母親の口から驚きの言葉が飛び出す。

「『うちのおじいちゃんはボートレーサーだよ』と言われたんです。びっくりしました。それまで一度も聞いたことがなかったから」

 内山が生まれる前に亡くなった祖父の橋本忠選手は、往年のボートレーサーだった。選手登録番号は671。2023年現在、最高齢のレーサーは1947年生まれの高塚清一。高塚の登録番号が2014だから、かなり前の話であることがわかる。

 どうやら祖父は、ボートレーサーであることを娘たちに隠していたらしい。「我が家は貧乏だから節約しなさい」と常に言い続け、そのくせ、自分だけはいい車を乗り回していた。

 ボートレーサーという職業の危険さ、収入の不安定さを知っていた祖父は、自分に万が一があったことを考え、贅沢させないようにしたのだろうか。

 その話を聞いた時、内山はさしてボートに興味を持たなかった。なぜなら、当時の彼女は教師に憧れていたからだ。

「勉強は全然できなかったけど、いつも先生が一生懸命教えてくれたんです。そういう大人になりたいと思って」

 幼き日の内山はとにかく活発な子供だった。友達と朝から晩まで外で遊び、一年中真っ黒に日焼けしていた。足も遅いし、跳躍力もない。運動能力は総じて高くないのだが、不思議と球技だけは得意だった。小さい頃から兄たちとキャッチボールをしていたからだと内山は懐かしそうに振り返るが、中学はソフトテニスに打ち込み、やがてスポーツ推薦で高校に進学する。

 初めてレースを見に行ったのは、教師になるため大学進学を視野に入れていた高校3年の夏だった。

 家族と一緒にボートレース場に入った途端、モーター音に圧倒された。レースはさらに刺激的だった。一斉にスタートしたボートがコーナーを旋回するたびに盛大な水飛沫(みずしぶき)をあげる。

「なんて面白くて、かっこいいんだろうと思ったんです」

 その日の夜、母親におねだりして、JLC(ボートレースを放送する専門チャンネル)につないでもらった。現在のようにレースがYouTubeで無料配信されていない時代だった。そこから時間があれば、自宅のリビングでレースを見るようになる。そんな内山のことを、家族はどんな目で見ていたのだろう。

【平山智加の走りに「体が震えた」】

毎日のようにレースを見ているうち、内山の中に、「なんでだろう」という疑問がどんどん湧いてきた。スタートが揃わないのはなぜ。1位とそれ以下の差が開いていくのはなぜ......。だが、家族はもちろん、友達でもボートレースに詳しい人はいない。レース場に足を運んで、隣にいた見ず知らずのおじさんに「なんであの人が最後に抜いたんですか」と聞いたこともあった。

「そのおじさんが本当に饒舌で、とにかく解説がうまかったことを覚えています(笑)。話を要約すると、『抜いた人のほうが、腕があった』ということでした」

今でも印象に残っているのは、2016年のSG第63回ボートレースダービーだ。

10月25日。薄曇りのボートレース福岡。選考期間の勝率が1位だった平山智加(香川)は、女子史上初、SGドリーム戦のメインレースで1号艇に乗ることが決まっていた。場内にはボートレース界最高峰の戦いを見に、多くの客が訪れていた。その中に内山の姿もあった。

「テレビじゃなくて、実際に平山さんが走るところを見たかったんです」

内山が見つめる先で、秒針が回り始めた。ダッシュ勢のモーターがうなりをあげる。スローから迷わず突っ込んだ平山は、コンマ03のトップスタートを決める。

レース後に「少しでも後手を踏んだら伸びられると思って、思い切ってよかったです」と振り返ったように、平山は誰よりも早いスタートを決めて、「逃げ」で見事に制した。

レース結果は1−3−5。29番人気で、払戻金は6400円。1号艇が圧倒的に有利とされるボートレースにおいて、この高配当はファンの期待をいい意味で裏切ったと言える。

会場にいた内山は、勝敗を見守ったファンの大きな歓声を耳にして、体が震えるのを感じた。名だたる男子レーサーを抑え、1位に輝いた平山の姿は輝いて見えた。内山がボートレーサーという職業を明確に意識し始めた日だった。

(中編:養成所の「劣等生」だった内山に、現役ボートレーサーが喝「そんな奴の舟券を誰が買うんだ」>>)

【プロフィール】
 
◆内山七海(うちやま・ななみ)

1996年12月12日、福岡県北九州市生まれ。B1級。祖父は元ボートレーサーの橋本忠。ボートレーサー養成所の試験に7回目で合格。福岡支部の127期として2020年11月にボートレース若松でデビューし、2021年12月に初勝利を飾った。