不倫はどんなきっかけで始まるのか。小説家・唯川恵さんの新著『男と女 恋愛の落とし前』(新潮新書)から、「PTA不倫」にはまった51歳女性のケースを紹介しよう――。
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■不自由なく暮らしていた専業主婦

彼女は入ってきたときから、少し挙動不審だった。

「すみません。興信所に見張られているかもしれないんです」

興信所? いきなり不穏な状況である。

愛美さん、51歳。既婚者で、中学校2年生のお嬢さんが1人いる。それにしても、興信所に見張られるとはいったい何事なのか。

「夫と、彼の奥さんにたぶん、まだ見張られているんです。W不倫がばれて……」

それはまた厄介なことに。

とても興味がそそられるけれど、まずは無難な話から始めよう。

お住まいはどちらに?

「東京隣県のいわゆる新興住宅地です。上野から特急で30分もかからず、行政が施策として子育てしやすい町と銘打って、若年層の夫婦をターゲットに街づくりをしたエリアです。子育ての環境も整っていると聞いたので、娘が小学校入学のタイミングで戸建てを購入しました。それは大正解だったと思っています。今は、あの頃の3倍くらいの価格になっていますから」

仕事は何をされているのだろう。

「以前はチェーンのエステティックサロンでエステティシャンをしていました。ただシフト制なので、夜遅くなることもしょっちゅうあって、時間の調整が大変でした。なかなか子供に恵まれなかったんですけど、ようやく娘が生まれて、それを機にしばらく子育てと主婦に専念することにしたんです」

■娘の中学入学を機にPTA活動に参加した

それはそれで一つの選択だと思う。ご主人のお仕事も聞かせてもらおう。

「整体師です。数年前に独立して、青山で整体サロンを経営しています」

青山で開業とは、なかなかやり手のようである。

「夫は専門学校の同期で、当時からまじめで優秀だったので、そこそこ有名な整体サロンに就職して、33歳の時に結婚しました。その後も着実に指名を増やして、満を持しての独立でした。意外と経営者としての才覚もあったみたいで、お店の経営は順調で、今では支店もあります。娘は素直ないい子に育ってくれて、小さい頃から習い事もたくさんしていたんですけど、今はピアノに絞って、プロのピアニストになるため音大を目指しています。小学校の頃まではお教室まで送り迎えもしていましたが、今は1人で行けるし、それなりに手が離れている状態です」

環境的にも経済的にも充足した生活である。

「ただ、子育て優先で決めた専業主婦だったんですけど、実際にやってみると、毎日掃除洗濯、三度の食事を作るという繰り返しに、虚しさというか、社会から取り残されてゆくような焦りを感じるようになりました。働くことも考えたんですが、夫や娘の希望もあって留まりました。代わりと言っては何ですが、娘の中学入学を機に、人との交流を持ちたいと思ってPTAに参加することにしたんです」

面倒がる人も多いと聞くが、やってみてどうだったのだろう。

「かなり活発で、とてもやりがいを感じました。数年前に新設された中学校は小学校と隣り合わせで、しかもモデル校になっているので、持ち上がりとは言えお勉強もとてもレベルが高いんです。学校運営に保護者が積極的にかかわるので、PTAも充実していました」

■出会いはPTA主催の歓迎会、娘のクラスメイトの父親だった

なるほど。相手とはもしかして、そこで?

「はい……」

また身近なところで。すでに修羅場の予感大である。

「PTAの会議や行事には、夫婦揃って参加する人も多いんですが、私の夫は土日も仕事なので、私はいつも1人で参加していました」

相手との出会いのきっかけを教えてもらおう。

「娘が中学校に入学してから、PTA主催の歓迎会のような催しがあったんです。いつものように夫は不参加で娘と2人、出席しました。その時、同じクラスの女の子のお父さんが1人で参加していて、珍しいなぁって思ったんです。小学校の時から知ってるんですけど、いつも共働きの奥さんと一緒だったから。それで『奥さん、今日はどうなさったんですか』と聞いたら、実は奥さんが会社で大出世して、それを機にご主人は激務だった証券会社を退職して、自宅でデイトレーダーをしながら家事全般を担当することになった、というんです。びっくりしました」

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最近はそういう夫婦の在り方も珍しくない。特に在宅勤務が普及したせいもあり、働き方はこれからもっと変わってゆくだろう。

ただ、夫婦が顔を突き合わせる時間が長くなれば揉め事も多くなる。これは自然の摂理である。

「その時彼から、いざ家のことをしようと思っても地元のことをあまり知らないので、スーパーの安売り情報や子どもの習い事、PTAの人間関係とか色々教えてくださいと言われて、ラインを交換したんです」

■ママ友にはない安心感があった

彼も自分で決めたこととはいえ、いきなり家事全般を受け持つのはやはり戸惑いもあって当然だ。もしかしたら、家事なんて誰でも出来る、と甘く考えていたところもあったのかもしれない。この時代になっても、家事の分担に対して理解度の低い夫はまだ多い。

IDを教えることに躊躇はなかったのだろうか。

「少しはありましたけど、内容も大したことじゃないし、身元もはっきりしているし、感じのいい人だったし」

それは彼に好印象を持ったと理解していい?

「そうですね。夫は職業柄、体育会系なんですが、彼はあまり男男してなくて、態度も穏やかだし、話し方も丁寧で、年も同じだったから、何となく安心感がありました。その時は異性の友人が出来たという感じでした。ママ友もいないわけじゃないですけど、やはり女同士だと気を遣うし、ライバル心もあったりするでしょう。そういう意味で、彼には心のうちを素直に話せてホッとできたんです」

そんな彼に、男として惹かれてゆくことを、どの辺りで意識したのだろう。

「やはりラインです。最初は情報を教えてあげるだけだったんですが、ひと月ほどたった頃には毎日のように交換するようになって、そういうことじゃない話もするようになっていました。それでだんだん仲が深まっていったっていうか」

■LINEにのめり込み、化粧やファッションに変化が

そういうことじゃない話とは?

「たとえば、こんな毎日でいいのかな、とか、心が満たされなくて寂しくなる時があるとか、世間話の延長みたいなものです」

いや、かなり踏み込んだ話に思えるが。

ラインを交わすことで、あなたはどう変わった?

「自分を気にするようになりました。それまでお化粧なんてあまり気にしなくて、パウダーはたいてリップクリームを塗るぐらいだったのが、ちゃんとファンデーションを付けて口紅も塗るようになりました。新しい服を買ってみたり、今まで気にも留めなかったランジェリーショップが目に入ったり」

そんな自分をどう思った?

「その時はまだふたりで会ったこともなかったし、ただ、ちょっと気持ちが華やいでるなっていう感じです。夫は仕事がある日は帰りが遅くて、会話らしい会話もなくなっていたし、次第に、娘のことや家のこと、ちょっとした相談を夫ではなく、彼にするようになっていました。彼になら何でも素直に話せるんです。でも、恋愛とかじゃないからって、いつも自分に言い聞かせていました。だから彼にも、いい友達でいてくれてありがとうって、いつも言ってたんです」

友達、とわざわざ言葉にすること自体、すでに気持ちが揺れている証拠である。同時に、たとえささいな話だったとしても、ふたりはすでに秘密を共有した仲となっている。それはひとつめのハードルを越えているということでもある。

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■夫と娘の帰省中に、ファミレスで初デート

彼女は意識していなかったかもしれないが、その時、岐路に立っていたはずだ。

友人のままでいられるか、男と女の仲に足を踏み入れるか。

引き返すタイミングがあるとしたら、その時だったはずである。それに気が付かないはずがないのに、彼女は走り出す感情を止められなかった。関係が進展するきっかけは何だったのだろう。

「夏休みです。夫と娘が夫の実家に帰省した時です。私も一緒に帰るはずだったのですが、どうしても外せないPTAの会合があって、ふたりに先に行ってもらったんです。そうしたら彼も奥さんと娘さんが奥さんのご実家に帰省したとかで、会合の帰り、何となく夕ご飯でも一緒に食べようかってことになったんです」

それが初めてのデートというわけだ。

「デートと言うか、ファミレスですから」

とにかく、初めてふたりで会った。

「はい」

楽しかった?

返事に少し時間がかかった。

「はい……。正直に言います、ものすごく楽しかったです。それまではラインだけだったから、実際に話したらどうかなって思ったんですけど、なんてことない話が本当に楽しくて、居心地が良くて、そのうちだんだん離れがたくなって」

■「正直になりたかったんですそれで……関係を持ちました」

雰囲気に呑まれているような気もしないでもないが、恋のはじまりというのは得てしてそういうものである。

「彼もそうだったみたいで、ファミレスを出てから、行くあてもないまま歩き続けたんです。色んな話をしながら、明け方近くまでずっと。いい年をして恥ずかしいんですけど」

行く当てもないまま歩き続ける、その行為はたぶん、大人のふたりを少年少女に還らせたに違いない。歩くというのは、心の垣根を取り払うのにもっとも効果を発揮する行為である。

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「その時思ったんです、私、彼のことが好きだって。もちろん口に出しはしませんでしたけど。そうしたら、彼の方から『好きだ』と言ってくれたんです。ラインを始めて、気が付いたら返事が待ち遠しくてならなくて、でもいけないことだからって自制してたけれど、もう抑えられないって……」

その時、どんな気持ちだった?

「嬉しくて嬉しくて、胸がいっぱいになりました」

普通の恋愛であれば最高の瞬間である。

が、既婚者のふたりとしては最悪のとば口に立ったといえる。

神様は時々、ご褒美に見せかけて、こうして罠を仕掛けるのだ。

「わかっています。でも、あの時の私は自分に嘘をつきたくなかった、正直になりたかったんですそれで……関係を持ちました」

彼女が言う「自分に正直になる」は、他人からすれば単に「感情に流された」としか映らないのだが、今はそこを指摘するのはやめておこう。

■不倫は「自分には関係ないこと」と思っていた

互いの家庭のことは話し合った?

「それも彼に言われました。あなたのことは好きだけれど、僕には子供もいるし、離婚することはできないって。それは私も同じです。彼のことは好きだけれど、今、家庭を壊すことはできません。けれどこの気持ちも大切にしたい。だからずっと先でもいいから、いつか一緒になれる時がくるまで、とにかく誰にも気付かれないよう、細心の注意を払って付き合っていこうってことになりました」

あなたは不倫についてどう考えていたのだろう。

「自分には関係ないことと思っていました。もう50になろうとしている私がまさかって。こんなに強い気持ちで誰かを好きになることにも驚いたし、こんな私でもまだ女でいられるんだってことにもびっくりしました。それに、たぶんこれが人生の最後の恋になるんだろうな、と思うといっそう気持ちが昂りました。私は不倫というより恋愛と思っていました。いわゆる遊びの浮気とは違って、彼とは身体の関係だけじゃなくて、心もちゃんと繋がっていましたから」

それは言葉のマジックである。同時に、先にも出た不倫脳の勃発である。どんな美しい言葉に変換しようと不倫は不倫以外の何者でもない。それをさも純愛のようにすり替えることで、罪の意識から逃れようとしているに過ぎない。みんな思うのだ。自分たちは違うのだと。その辺りに転がっている不倫ではなく、特別な関係なのだと。

■性行為で、失ったものを取り戻したような気分になった

ただ、彼女の気持ちを全否定できない私もいる。誰かを好きになる。恋してしまう、それはどうにも抗えない心の在り方である。早い話、恋愛ほど、人に情熱をもたらす感情はないのだから。

しかし、その恋愛が知れてしまった時、ふたりの問題だけでは済まなくなる。自分が傷つくのは自業自得だが、傷つけてしまう人がいる。その現実から目を逸らしてはいけない。

セックスのことも聞かせて。

「信じられないくらいよかったです。夫とはずっとなかったし、私自身したいともあまり思っていませんでした。このまま枯れてゆくことにも、それほど抵抗はなかったんです。けれども彼とそうなって、セックスってこんなに気持ちよいものだったんだと驚きました。失ったものを取り戻したような気分でした」

もし、セックスがよくなかったら、気持ちは冷めたのだろうか。

「そんなことはありません。上手いとか下手とかじゃないんです。相性っていうか、好きな人とするセックスはやはり最高なんだと思います」

■週1、2回の密会、2駅離れたホテルで待ち合わせた

どれくらいのペースで会うように?

「週に1、2回です。バレないように昼間、2駅離れたホテルで待ち合わせていました」

そうなって、あなたはどう変わったのだろう。

「毎日がこれまでとは違ってキラキラするようになりました。それまでの苛々や変な焦りも消えたし、夫にも前より優しくできたし、娘にも鷹揚に接しられたし、家事も楽しくやれて、家庭の幸せが実感できるようになりました。この状態が永遠に続きますようにって祈ってました」

うまくいっていたんだ。

「はい、1年くらいは順調に」

ということは、何があった?

「彼の奥さんが気づいたんです。どうやら以前から彼の行動を怪しんでいて、興信所に尾行を依頼していたようです。全く気付きませんでした。ホテルに入るところも全部撮られていました」

それを知った時はどう思った?

「彼から連絡を受けたんですけど、目の前が真っ暗になりました。本当に真っ暗になるんですね……。離婚とか、慰謝料とかが頭の中をぐるぐる回って、急に現実が押し寄せて来たっていうか、身体が震えました」

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■「キラキラした毎日」は終わりを迎えた

いつかそんな日が来ることを、覚悟していなかったのだろうか。

「最初の頃は注意していましたけど、まさかバレてしまうなんて考えてもいませんでしたから、気が緩んでいたのもあったと思います」

慣れというのは怖い。これぐらいは大丈夫、が、どんどん大胆になっていく。言い方は悪いが、モラルと警戒心は比例して低くなっていくようである。

その時、したことは?

「まずラインと写真の削除です」

証拠隠滅に走ったわけだ。

「ふたりで話し合ってそうしました」

あなたの夫にも知られたの?

「はい。彼の奥さんは、夫にも連絡を入れていたんです」

つまり彼の妻は、波風立たせず穏便に済まそうという気はさらさらなく、本気で戦おうと決めたわけだ。

知った夫の反応はどうだった?

「激怒されると思ったんですが、淡々としていました。夫も薄々気づいていたようです。やっぱりなって言われました。妙に機嫌がよくなったし、お洒落になったし、俺や娘にも愛想がいいし、何かあるんだろうなって思ってたけど、そういうことだったのかって」

あなたはどう対応したの?

「必死に誤解だって言いました。性格の悪いママ友に悪い噂を流されていて、あちらの奥さんがそれを信じてるだけだって。そしたら、証拠の写真やらスマホのデータを突き付けられました。すでにあちらの奥さんから渡されてたんです。浮気も許せないけど、嘘をついて取り繕おうとしたことはもっと許せないって言われました」

■夫から向けられた視線

逃げ道はなくなった。

「その時の、夫の私に向けた冷ややかな目、突き放すというか、軽蔑というか、忘れられません。もう、言い訳出来ないことがわかったので、ひたすら謝罪しました。一時の気の迷いで今はとても後悔しているって、いちばん大事なのはあなたと娘で、どんな償いもするから許してくださいと、とにかく言葉を尽くして謝りました」

いわゆる浮気のテンプレ言い訳を並べたわけだ。

「でも、本当にそうなんです。家庭を壊す気はまったくなかったですから。そしたら今度はラインの履歴を出されて」

それもすでに握られていた。どんなラインを交わしていたのだろう。

「夫の愚痴です。もう心は離れてるとか、男として見られないとか、そういうことです。でも、それは本気じゃないっていうか、つい調子に乗って心にもないことを書いてしまっただけなんです。そういうことってあるでしょう?」

同意を求められても困る。

「でも夫はとても自尊心を傷つけられたみたいです」

書かれた方としたら当然の反応である。立場を入れ替えてみればわかるはず。自分のことを、夫がそんなふうに浮気相手に言っていたら、あなたは許せる?

「そうですよね……」

■男女の関係は、ふたりの意志で始まり、片方の意志だけで終わる

その後の展開を教えてもらおう。

「夫があちらと4人で話し合いをしたいと言い出しました。それで彼に相談したのですが、彼はもう精神的に参ってしまっていて、とてもじゃないけれどもそんな場には出向けないし、もう別れるって。驚きました。あんなに好きだ、愛しているって言っていたのに」

男は逃げたんだ。

「はい……」

男女の関係は、始まりはふたりの意志が必要だが、終わりは片方の意志だけで決まる。それまでどんなに愛し合っていようと、どちらかの心が変われば終わりなのである。

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恋愛が理不尽なものだということぐらい、大人の彼女が知らないはずはないのに、恋愛はここまで人を幼稚にしてしまうのか。

「愕然としました。私がこんなに辛い思いをしているのになんでって。優しい人だと思っていたのですが、ただメンタルの弱い人だったんだって、その時わかりました」

それは彼が豹変(ひょうへん)したというより、元々、彼女が自分の見たいようにしか彼を見ていなかったとも言える。彼女が「心から私を愛してくれている」と思っているのも、実は「心から私を愛してくれているはず」なのである。

■「彼は私を選んでくれると思っていました」

「結局、彼は出てこなくて、3人での話し合いになりました」

彼の妻は何て?

「とにかく別れて欲しいということでした。二度と2人で会わないと念書も書いて欲しいと。それなら慰謝料は請求しない。ただ怪しいと思ったらまた興信所で調べるし、もし会ったとわかれば莫大(ばくだい)な慰謝料を請求するって」

ということは、あちらは再構築を選択した。

「そのようです。それもショックでした」

とはいえ、あなたも夫に取り繕ったということは、再構築を望んだんでしょう?

「そうですけど、最後のところで彼は私を選んでくれると思っていました。いつかは一緒になろうって約束していたし、それなのに、どうしてって」

まるで被害者のように聞こえるが、彼女は加害者側であることを忘れてはいけない。

彼の妻も、その結論に至るまで悩み抜いたに違いない。そして再構築をするにしても、これからずっと夫に対する蟠(わだかま)りと向き合っていかなければならない。

■崩壊した夫婦関係、形だけの家庭

あなたの夫はどんな結論を出したのだろう。

「夫は、あちらの奥さんが私に慰謝料を請求しないのなら、自分もそちらの夫に請求しないと言いました。絶対に会わせないよう、こちらでも見張るって。それからしばらくして彼らは引っ越していきました」

彼との関係は終わったわけだ。

「はい……」

今、夫とどのような状態に?

「離婚はしていませんが、再構築にも程遠くて。私はすごく反省したし、必死になって日常を取り戻そうとしているのですが、夫はたぶん、私に復讐(ふくしゅう)するつもりでいるんです。これから娘の受験もあるし、家事にしても夫だけでは手が回らない、だからそれまでは形だけ家庭を保とうと考えているんだと思います。今は私を家に置くけれど、娘が無事に入学したら、別れるつもりなんです」

先の見えない状況だ。

しかし、そこまで夫を変貌させたのは彼女自身である。

「娘も何となく気づいたみたいで、最近は笑顔がなくなって、言葉がなくなって、時々、私を知らない人みたいな目で見るようになっています。針のむしろとはこのことをいうというくらいに息苦しい毎日です。PTAをやめても、スマホにはGPSが付けられているし、外出する時は前もって夫に時間や場所を報告することになっています。今日は友達と会うってことで出て来たんですが、きっと興信所をつけていると思います。家の中にも盗聴器が設置されているかもしれない。彼の奥さんもまだ私のことを見張っているかもしれない」

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■今はただの家政婦、自分の意見ひとつ口にできない奴隷

相当追い詰められている様子である。

これから先はどうするつもり?

「彼にも去られてしまったし、何とかこの状況を乗り越えて、家庭が元に戻れるよう頑張らなくちゃって気持ちでいます。でも、そうなれる自信はまったくありません。娘が高校に入学したら離婚される可能性は大きいです。慰謝料も請求されるかもしれないし、そのためにも仕事に復帰しようと考えているんですけど、働きに出ると夫はますます疑うでしょう。とにかく今は家のことを完璧にして、いい妻、いい母親でいることに必死です。今の私はただの家政婦、もっと言えば、自分の意見ひとつ口にできない奴隷のようなものです」

最後に聞かせて欲しい。

こうなった今、それでも彼と恋愛してよかったと思う?

「それは……」

と言ったきり、彼女は口を噤んだ。それが彼女の答えなのだろう。

■バレないと思っているのは本人だけ

少しだけ救われたい、誰かに認めて欲しい、きらきらしたい。

ささやかな想いから彼女は彼と恋愛関係に陥った。

唯川恵『男と女 恋愛の落とし前』(新潮新書)

今更それをとやかく言っても仕方ない。惹かれる気持ちを止められなかったのも、理解できないわけじゃない。けれども代償は大きかった。そして、彼女も彼も、それを受け入れるだけの覚悟がないまま、関係を続けてしまった。

秘密はバレる。いつかバレる。バレないと思っているのは本人だけである。

彼女は、たとえバレたとしても彼は命懸けで自分を守ってくれる、と信じていたようだが、それも期待とは違っていた。

不倫が明るみに出た時、男の方が腰砕けとなるケースは多い。何だかんだ言っても、社会的な信用を失いたくないというのが本音なのだ。

夫の不倫で再構築する夫婦は70パーセント、妻の不倫だと30パーセントというデータを見た。その数字からも、基本的に男は家庭に戻りたい生き物のようである。そういう意味で、彼女の夫もそうであってくれればいいのだが……。

■当事者は「不倫ではなく恋愛」と言うけれど…

さて、不倫はした方がいれば、された方もいる。

した方の彼女の言い分は十分聞かされたので、された方で、かつ再構築を選択した何人かの妻たちの、その後の心情も書いておこう。

「表面上は平静を装っているけれど、夫からどんな優しい言葉を掛けられても、もう決して信じられない」
「テレビを見て笑っている夫を見るだけで、たまらなく腹が立ってしまう」
「あれから夫のタオルで床を拭いている、夫の下着は雑巾と一緒に洗っている」
「夫が、病気とか定年退職とか、いちばん大変な時に捨ててやろうと思っている」

聞いて震え上がる夫もいるだろう。

再構築を選んだことと、許されたことは、決して同じではないのだ。

不倫の最中、当事者たちは言う。

不倫だなんて呼ばないで欲しい、自分たちは俗っぽい不倫とは違う、あくまで恋愛なんだから。

しかしそんな不倫こそが、実はもっとも典型的な不倫だということを、肝に銘じておこう。

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唯川 恵(ゆいかわ・けい)
小説家
1955(昭和30)年、金沢市生れ。銀行勤務などを経て、1984年「海色の午後」でコバルト・ノベル大賞を受賞。恋愛小説やエッセイで、多くの読者の共感を集めている。2002(平成14)年、『肩ごしの恋人』で直木賞、2008年、『愛に似たもの』で柴田錬三郎賞を受賞。著書は『ベター・ハーフ』『燃えつきるまで』『100万回の言い訳』『とける、とろける』『天に堕ちる』『セシルのもくろみ』『雨心中』『テティスの逆鱗』『手のひらの砂漠』『逢魔』『啼かない鳥は空に溺れる』など多数。
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(小説家 唯川 恵)