奇跡の甲子園出場から5年〜下剋上球児のいま(前編)

 10月15日からTBS系日曜劇場の『下剋上球児』がスタートする。原案となった書籍『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)は、2018年夏の甲子園に初出場した白山高校の足跡を記したノンフィクション。TBSのドラマは同書からインスピレーションを受けて企画されたフィクションであり、書籍版とは一線を画したオリジナルストーリーになる。それでも、自分に自信を持てない高校生が少しずつ前を向き、大きな変革を起こすという根底にあるテーマは同じだ。

 書籍『下剋上球児』の著者である菊地高弘氏は、ドラマ化を機に2018年夏に輝いた "下剋上球児たち"に会いに行くことにした──。


白山高校の甲子園メンバー(写真左から)栗山翔伍さん、岩田剛知さん、石田健二郎さん

【同期の半分くらいは結婚】

 指定された野球場の駐車場にレンタカーを停め、外に出ると牛の匂いが漂ってきた。近くに牧場があるらしく、周囲は緑に囲まれている。こぢんまりとしたスタンドに入ると空には大きな入道雲が広がり、セミの鳴き声が聞こえてきた。

 グラウンドでは草野球の試合が行なわれていた。草野球と言っても20代前半の野球経験者も多いようで、レベルは高かった。

 身長160センチ台前半とおぼしき右打者が打席に入る。帽子からはパーマのかかった茶髪がのぞき、左耳の耳たぶは広々と拡張されてトンネル型のピアスが埋め込まれている。いかにもラフな若者という印象だが、ステイバックのフルスイングから強烈な打球をレフト線へと弾き返した。

「あれ、石田っす。あいつ草野球で覚醒して、ホームランバッターになったんですよ」

 そう声をかけてきたのは、栗山翔伍だった。5年前は白山高校の副主将を務め、1番・ショートの中心選手だった。栗山の言う「石田」とは、5年前の甲子園で8番・サードで先発出場した石田健二郎のこと。高校時代はつなぎ役で、長打を打つイメージなど微塵もなかった。

 あまりの変貌ぶりに驚き、試合後に声をかけると石田は不敵に笑ってこう語った。

「この球場(両翼95メートル)なら片手で放り込めますね。草野球は自由なんでいいけど、これを高校時代にやってたら僕なんてベンチ外です」

 石田は結婚して子どもが産まれたばかり。23歳になる世代だが、「同期の半分くらいは結婚して、子どももいますね」と教えてくれた。

 石田のチームと入れ替わるように、グラウンドに立ったのが栗山のチームだった。栗山は石田ほど容貌が変わっておらず、髪型は本人が「スパイキーヘアー」と呼ぶ黒髪の短髪。それでも襟足には大胆なV字の剃り込みが入っていた。

「甲子園で舌出して『ウェー』って顔したこと、今もめっちゃイジられますよ」

 栗山はそう言って笑った。5年前の甲子園では見事な美技を連発している。センターへと抜けそうな痛烈なゴロを好捕し、クルッと反転して一塁に送球。アウトを奪うと、栗山はペロッと舌をのぞかせた。

 まるでいたずらっ子のような仕草だったが、本人からすると「テンパっただけ」。なにしろ、三重大会では6試合で6失策を犯すなど、栗山のエラーはチーム内で「お約束」「平常運転」と言われるほど当たり前の光景だった。

「甲子園では正面に飛んでくれやんかった(くれなかった)んで。球際ばっかりだったのが逆によかったのかもしれないです。

 そして栗山の草野球のチームメイトには、岩田剛知(たけとも)もいる。5年前には背番号5をつけながら甲子園の先発マウンドに立つなど、投手兼三塁手として活躍した。岩田は髪にウェーブがかったツイストパーマをかけ、両耳にはピアスをつけている。

 高校時代からだいぶ垢ぬけたのではないかと尋ねると、岩田は「そうっすか?」と答えた。気だるそうな雰囲気は高校時代と変わらない。試合前から「もう肩痛くてムリっす」としきりに右肩を気にしている。

「白山なんて学校があることすら知らなかったっす。栗山なんか1年の頃はトガりまくっていて、近づいたらアカンくらい怖かったっす」

 そんな岩田の言葉を受け、栗山は苦笑しながらこう応じた。

「目つきも悪いし、トガり散らかしとったもんな。クラスでは無言でイキっとったし。(通学中に)岩田が俺の乗ってる車両に乗らんで、隣に逃げてたの知っとったで」


2018年夏の甲子園で先発マウンドを任された白山高校の岩田剛知(photo by Sankei Visual)

【やらされた感しかない】

 白山高校は三重県津市白山町に校舎がある。最寄り駅の家城(いえき)駅からはJR名松線が出ているのだが、列車は2時間に1本しかこない。地域住民からは「名松線の車内で白山の生徒が我が物顔で座り込んでいる」と煙たがられることもしょっちゅうだった。

 地元の中学校では「勉強しやんと白山に行くハメになるぞ」と言われるほど、定員割れが当たり前の公立高校。進学する生徒の多くが第一志望校の受験に失敗しており、栗山は津商業、岩田は菰野や海星を不合格になって白山へと進学している。

 野球部は2007年から10年連続で夏の三重大会初戦敗退という弱小校だった。栗山たちの学年は1年夏に初戦敗退、2年夏に3回戦に進出。そして3年夏に甲子園出場という信じられないジャンプアップを遂げた。

 白山高校はなぜ、甲子園に出られたのか。指導者から選手、地域住民に至るまで、誰に尋ねても芯を食った回答は返ってこない。それほど白山の快進撃は神がかっていた。

 栗山はポツリとこう漏らした。

「やっぱり東先生はすごいっす。あんなに怒ってばっかでも、一人ひとりのことをよくわかっとったんやろな」

 東拓司監督は甲子園出場時に40歳。ホームベースが土中に埋まるほど荒廃していた野球部を一から立て直し、5年で甲子園出場へと導いた。現在は公立校ながら大半の生徒が寮生活を送る昴学園で指揮を執っている。

 岩田は高校時代の練習について、「やらされた感しかない」と語っている。

「とにかく言われたことをやっていた感じで......。甲子園なんて行けると思ったこともないし、なんで甲子園に行けたかなんて深く考えてもわかんないですから。でも、たとえやらされた練習でも、やり続けるのが大事なんかな、とは思います」

 栗山も岩田も高校卒業後にそれぞれ大学、社会人軟式で野球を続けたが、長続きはしなかった。それは2人に限らず、大学4年秋の最後まで選手としてプレーしたのは、高校時代にエース番号をつけた山本朔矢(さくや/現・三京アムコ)くらいだ。

【甲子園での思い出は鬼ごっこ】

 栗山は甲子園から帰ったあとも頻繁に後輩たちの練習に顔を出し、大学野球に向けて準備していた。それだけに、ドロップアウトしたのは意外だった。栗山はサバサバとした口調で「大学は思ったところと違ったっすね」と振り返った。

 高校時代は試合でいくらエラーしようと、「打って取り返せばいい」とポジティブに切り替えられた。だが、大学ではひとつでもエラーをすれば、よってたかってけなされる。栗山は「高校時代の気分では通用しないんやな」と悟った。

 1年春のリーグ戦から出場機会を得ていたが、学業不振もたたって秋には中退。現在は岩田や2番・センターだった市川京太郎と同じチームで草野球を楽しんでいる。

 栗山に「甲子園で一番の思い出は何か?」と聞いてみた。てっきり大歓声を浴びた遊撃守備を挙げるかと思ったら、意外な答えが返ってきた。

「鬼ごっこっすね。ホテルの駐車場で、みんなで汗だくになって遊んだんです。白山の試合は開幕から1週間くらいあとで、とにかくヒマなんですよ。鬼ごっこを終えたらエレベーターに乗って部屋に戻るんですけど、(同宿の)花咲徳栄の生徒が乗ってきて。彼らはバットを持って素振りをしてるのに、こっちは真剣に鬼ごっこをしていて。かなり気まずかったですね」

 一方で、岩田は高校時代の自分を振り返ってこう語っている。

「もっと東先生の期待に応えたかったです」

 甲子園にも出られたのに? そう問い返すと、岩田は控えめに笑ってこう答えるのだった。

「みんなに言われるんですよ。東先生がよく『岩田は抑えてほしいところで抑えてくれやん(くれない)。とことん期待を裏切る』って言ってたって。僕もあんなにチャンスをもらったのに、全然恩返しできてないって思うんで」

 当時の白山高校で「甲子園」をリアルに思い描いていた部員はひとりもいなかったはずだ。甲子園に出た経験は、自己肯定感の低かった彼らにどんな変化をもたらしたのか。

 栗山は岩田の「やらされた感しかない」という言葉を受けて、こう語っている。

「やらされとっても、続けることが大事やな。ずっと同じことをやり続けたら、どっかで変わるタイミングがある。そこは勉強になったし、自信になったよな」

 栗山たちと会った野球場を離れ、私は次なる"下剋上球児"の待つ場所へと移動した。だが、その人物が本当に待ち合わせ場所に来てくれるのか不安だった。なにしろ、当時「最大の問題児」と呼ばれていた伊藤尚が相手だったからだ。

(つづく)