プリンスホテル最後の指揮官が語った、初の都市対抗優勝から衝撃の廃部までの顛末
消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜足立修(後編)
前編:「得体の知れないチームが社会人屈指の強豪になるまで」はこちら>>
都市の代表として最強のチームを編成する狙いで発足した、都市対抗の補強制度。その始まりは1950年、プロ野球が2リーグ制になった際、社会人野球から大量に選手が引き抜かれたため、同年の第21回大会から採用された。代表権を手にしたチームは、予選敗退チームから5人まで補強できる。
その補強制度があるために、プリンスホテル野球部の足立修は屈辱を味わわされた。都市対抗の予選までは三塁でレギュラーだったのが、本大会では打力で優る補強選手にポジションを奪われたのだ。それも87年、88年と2年連続で同じ選手だったから悔しさは倍加した。
チームの戦力的には、得点力向上を目指す補強策。だが、監督の石山建一の考えはそれだけではなかった。石山自身、足立は次期キャプテン、ゆくゆくは監督にしたい器と見込んでいた。そういう選手がまだ腕を上げていない時に大会に出て、活躍できなかった場合、指導者になった時に何を言われるか。各方面から批判されるのが目に見えていた。
ならば、今は我慢して使わないほうがいい。将来、誰もが認める監督になるために、力をつけてから本番に出したほうがいい──。後年、足立は石山の考えを伝え聞いて"和解"したが、そうとは知らない当時。足立が頭にきていると聞いて、石山も苦しんだという。では、89年から主将となった足立自身、どう不満を解消し、冷静さを取り戻したのか。
1989年に初めて都市対抗を制したプリンスホテル(写真/本人提供)
「石山さんは『こういうところが足りねえからおまえはダメなんだ』とか、『練習足りねえぞ』っていう言い方はしないんです。だから、自分の気持ちに火をつけられて、何か乗せられて、『よっしゃ、次は打ってやろう』と心に決めました。技術じゃ勝てなくても、練習量では絶対日本一になるぞと思って、誰にも負けないだけの個人練習はしたつもりです。
もちろん、石井浩郎(元近鉄ほか)はじめプロに行った連中もやっていましたけども、彼らがユニフォームを脱いで着替えるまでオレはグラウンドに残ろうと。だって、下手ですから。それに、みんな今まで以上に練習をしっかりやらなきゃいけない理由もあったんです」
前年、88年のドラフト。プリンスホテルから4番の中島輝士(日本ハム1位)、3番の小川博文(オリックス2位)、エース級の石井丈裕(西武1位)と、一挙に3名が指名されて入団。3名とも全日本メンバーとしてソウル五輪でも活躍した逸材だけに、チームは大幅な戦力ダウンを余儀なくされた。周りから「プリンス史上、最低のチーム」という声が聞こえてきていた。
「でも、最低なのは自分たちで自覚してましたから、キャンプではみんな悲壮感を持って、お互いがお互いに負けないように練習するだけでした。野手だったら素振りの回数を競い合うとか。もちろん数やればいいわけじゃないけど、自然とそうなっていましたね。別に監督、コーチから『おまえたちは弱いんだ』とか、発破をかけられたわけでもなく」
自発的な猛練習を経て足立は完全にレギュラーとなり、チームは春のスポニチ大会で優勝。周りの評価を一蹴する結果を自信にして夏の都市対抗に臨むと、予選では苦闘の末、第三代表での出場を決めた。時代が昭和から平成に変わった年、第60回の記念大会につき、開幕前夜には新高輪プリンスホテルで祝賀会が開催された。
都市対抗の予選が始まる前、石山はホテル職員に言われていた。「ウチで祝賀会をやる以上、もしも大会に出られなかったら、野球部全員で皿運びをしてもらいますよ」と。それが冗談に聞こえないほど戦力に不安はあったが、1回戦のJT戦に6対3で勝利。2回戦のトヨタ自動車戦は4対3と接戦を制した。
「戦力は本当になかったです。打線は大砲がいなくて、なんとかつなぐ攻撃で。ピッチャーもエースがいないから継投、継投で。だからもともとプリンスって、個人技が光るスマートなイメージがありましたけど、その時は泥臭い野球でしたね。たとえば、1アウト、ランナー二塁だったら当然、右バッターは逆方向、左バッターは引っ張る。1点をとり、1点を守る野球ですよ」(石山)
【一世一代のトリックプレー】準々決勝の河合楽器戦は1対0。4回二死からの連打でとった1点を、3投手で守り切った。つづく準決勝の松下電器戦。2対2で延長戦に入ると、プリンスは13回、一死満塁から瀬戸山満年(中京大中京高)のスクイズで決勝点をもぎとり、決勝進出を果たす。「スクイズなんてまさに泥臭い」と言う足立は、この試合で奇抜なトリックプレーを敢行している。
プリンス1点リードで迎えた6回、二死二塁。投手・橋本武広(東京農大/元ダイエーほか)は二塁ベースカバーに入った遊撃・高桑徹(補強=東京ガス)に偽投。高桑はジャンプし、二塁手の足立が右中間方向にボールを追いかけるように走る。一度は帰塁した二塁走者が牽制悪送球と思い込み、三塁に行きかけた時、高桑が橋本からボールを受けてタッチアウトとなった。
「ピッチャーが振り向きざまに牽制球を投げると、二塁ランナーはピッチャーに背中を向けて足から帰塁します。投げる瞬間は見ていないから成立するピックオフプレー。これは練習を重ねていましたが、やはり、そこまでやったから決勝まで行けて、勝てたと思います。投打の中軸がいなくて、戦力が十分ではなかったわけですから、石山さんの采配もすばらしかったですね」
決勝は大昭和製紙北海道戦。プリンスは15安打の猛攻を見せて8対3と快勝し、創部11年目で初の優勝を果たした。大会最優秀選手賞にあたる橋戸賞はベテラン捕手の瀬戸山が受賞。大会通算19打数10安打の打棒に加え、金属バットの時代に東京ドーム5試合で被本塁打ゼロと、投手陣をしっかり引っ張った。足立自身、17打数7安打と気を吐き、チーム初の黒獅子旗を手にした主将となった。
「その年、プロ野球では巨人が優勝して、祝賀会には元首相の中曽根康弘さんが出席されたと。プリンスの祝賀会には当時の首相である海部俊樹さんがいらっしゃったんです。社会人が現首相で、プロが元首相かって(笑)。それがいいのかどうかは別として、普通では考えられないスケールの大きさで。東京プリンスホテルの鳳凰の間で、気持ちのいいものでした」
【母校の監督に就任し3度の甲子園出場】大会後、足立は初めて全日本に選ばれ、アジア選手権大会に出場。翌年も全日本入りして国際大会でプレーした。プロからの誘いもあったなか、野球で海を渡り、世界の選手と戦うことに魅力を感じ、社会人で生きる道を選択。石山の突然の辞任によって94年限りで現役を引退、翌年から監督に就任すると、96年、97年にチームを都市対抗に導く。だが、長くは続かなかった。
2000年4月、プリンスホテル野球部の廃部が発表された。<西武グループの西武ライオンズとプリンスホテルを一本化し、ライオンズを支援して野球界に貢献していきたい>というのが理由だった。ほかの企業チームと同様、バブル崩壊から始まった長期不況の影響もあったが、もうひとつ、五輪野球競技のプロ選手解禁が野球部存続の意味を薄れさせていた。
「廃部だなんて、まさか......と思いました。最後、私が幕を閉じさせてもらったんですけれど、なにかパッと咲いて、すごくでっかく咲いただけに寂しかったですね。ただ、私自身、普通は経験できないような環境で野球をできて、よかったと思っています。後々の人生に生きましたから」
廃部後は本社の人事部に配属され、面接・採用に始まり、最後はリストラ担当までした足立だったが、2011年8月、母校の松商学園高に請われて監督に就任。22年の8月まで務め、15年の春、17年、21年の夏に甲子園出場を果たした。15年のセンバツ大会出場決定直後、足立のもとに、プリンスホテル取締役で応援部の元主将だった先輩から連絡があった。
「松商がプリンスの応援歌を譲り受けて、チアガールの振り付けも教えてもらったんです。実際、甲子園のスタンドで披露されたんですが、試合後、アマチュア担当の記者の方が『あれ、プリンスの応援歌ですよね?』と。その時点で廃部から15年も経っていたのに......。『ああ、それだけの存在だったんだなあ、プリンスホテルというのは』って、あらためて、感慨深かったです」
母校を離れたあとも、足立は求められた場所で高校生の指導を続けている。とくに選手との接し方を大事にしながら、いつかまた勝負の世界に、という熱い思いは消えていない。
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プロ以上のアマチームをつくる。そのためには、ちまちました野球ではなく、ダイナミックでスピーディーなベースボールをやる──。プリンスホテル野球部結成に向けて、のちに監督になる石山建一が掲げた目標と理想。はたして、どこまで達成され、実現したのか。チームを都市対抗初優勝に導いた石山に聞く。
「プリンスの場合、選手がよくなるとみんなプロに持っていかれたわけです。だからチームとしての完成期はなかったし、その意味ではプロ以上にできなかったかもしれません。ただ、個々によってはそれだけの力をつけていったから、プロで活躍できる選手も多かったんだと思います」
とはいえ、当然ながら、プリンスホテル=プロ養成所ではない。あくまでも社会人野球のチームであり、最終的には社会人の強豪、名門となった。
だが、一期生のインパクトはあまりにも強烈だった。1978年、ドラフト指名候補を含む大学野球のスターが続々と入社し、それが後々までつづくプリンスのイメージを決定づけた。言わば、プロ野球界を刺激するアマチームだった。もっとも、それだけの逸材が揃いながら「練習は厳しくなかった」という元選手の証言もあったが、それはなぜだったのか。
「一期生に高校生が多かったからです。それも、こちらでリストアップしたのとは違う選手ばかり。本来、そういう高校生は採用しないはずだったのが、外部のチーム関係者と本社との間にある思惑があって、補充のような形で入れていたんです。
ただそうでなくとも、東西のいろんな大学リーグから選手を集めましたから、それぞれにやってきた練習の質と量が違う。すべて早稲田式で統一できないことから、高校生もついてこられる練習内容にしたのです。それでもプロに行く連中は個々にみっちりやるだろうからと」
チーム結成の78年まで、石山は母校・早稲田大の監督。ゆえにプリンスの運営に集中できず、気づけば高校生の採用が決まっていた。まして、チーム始動まで自身は表に出なかったため、「石山さんはあとで雇われて入ってきた人」と見なす社員、選手が大半。早大の先輩で社長の堤義明から、直々に「チームをつくれ」と命じられたことを知る人間は皆無に等しかった。
「実際には、堤さんと私の考えでチームをつくっていきました。もともとオリンピックに力を注いでいた堤さんは、プリンス単独チームでの出場が最高の理想だったんです。一方で私には、プリンスがもしもうまく完成したら、そのままプロにしちゃっていいんじゃないか、チームごとプロに転向しちゃっていいんじゃないか、という夢がありました」
折しも、プリンス結成から45年が経った2023年。プロ野球の発展と野球振興を目的とする、二軍の新規参入球団が決まった。当時と今と、同じ野球でもあらゆる面で違いがあるのは承知のうえだが、筆者としては、石山の夢のつづき、という気がしてならない。新球団には願わくば、プリンス一期生に匹敵するインパクトを球界全体に与えてもらいたい。
連載終了
(=敬称略)