駒野友一が現役時代を振り返る
「忘れられない5試合」(後編)

◆「忘れられない5試合」前編>>初めて招集された夜の衝撃「みんなベッドなのに、僕は畳で...」

 日本代表では年代別のアンダーカテゴリーから左右のサイドバックで重宝された駒野友一。A代表には2005年に初めて召集されたのち、2014年まで呼ばれ続けた。

 ジーコに始まり、イビチャ・オシム、岡田武史、アルベルト・ザッケローニ......。さまざまな代表監督がサイドバックのポジションを駒野に託し、そして何度も救われた。

 日本代表での日々を、駒野氏は「いろんな出来事があった」と振り返る。その数多ある思い出のなかから、特に印象の残ったエピソードを語ってもらった。

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PKを外した駒野友一を慰める松井大輔

── 前編では「忘れられない5試合」のうち、3つを話してもらいました。アテネ五輪でのイタリア戦、東アジア選手権の中国戦、ドイツワールドカップのオーストラリア戦......どれも内容の濃い話ばかりでした。それでは、4つ目の忘れられない試合を教えてください。

「イビチャ・オシムさんの時のオーストリア遠征です。オーストリアにはPKで勝って、スイスには逆転勝ち。試合というよりも、その遠征が印象に残っています」

── オーストリア戦とスイス戦、両方ですか?

「どちらかの試合を選ぶとすれば、スイス戦ですかね。前半のうちに先制されながら、後半に入って逆転して、終盤に追いつかれながらも、最後に勝ちきることができた。

 ヨーロッパのチーム相手にもあれだけの試合ができたのは、自信になりました。オシムさんのサッカーというものをしっかりと示すことができたと思っています」

......【日本vsスイス「4-3」/2007年9月11日/3大陸トーナメント】

── オシム監督のサッカーは楽しかったですか?

「そうですね。やっぱり面白いですし、自分に合っているサッカーでしたね。ボールを追い越すプレーだったり、味方を助けるための走りだったり、そういう部分を求められたので、自分に合っていたと思います」

── オシム監督の教えで覚えていることはありますか?

「オシムさんは直接、選手のことを褒めないですけど、いいプレーをすれば、ベンチの前でコーチ陣に対して『今のはよかった』という感じで表現しているんですよ。それがオシムさんなりの褒め方だったと思うし、オシムさんの本に僕のことが書いてあったのもうれしかったですね。

 期間は短かったですけど、一緒にできたことは本当によかった。あのまま続けていたらどんなチームになっていたのかなと、今でも思います」

── では、最後の5試合目を教えてください。

「2013年の東アジアカップです。試合というよりも、この大会でキャプテンを任されて、初優勝したので印象に残っています。

 僕自身、しばらく代表に呼ばれなくなっていたんですが、国内組で臨むこの大会で久しぶりに選ばれました。たしか、通訳から電話がかかってきて、キャプテンをやってほしいと言われました。

 キャプテンも光栄ですけど、翌年のワールドカップに向けて、もう一度メンバーに食い込んでいくためにはこの大会が大事だなと思っていたので、印象に残るプレーをしないといけないなと考えていました。ただ、アピールも大事ですけど、若い選手も多かったので、考えることはすごくありましたね」

......【日本vs中国「3-3」/2013年7月21日/東アジアカップ】
......【日本vsオーストラリア「3-2」/2013年7月25日/東アジアカップ】
......【日本vs韓国「2-1」/2013年7月28日/東アジアカップ】

── キャプテンとして、どのような立ち振る舞いを見せたのでしょうか。

「代表でキャプテンをやるのは初めての経験でした。若い選手と言ってもJリーグでバリバリ出ている選手たちなので、まとめるというよりも、自然にやらせるほうがいいのかなと。

 この大会で日本は優勝したことがなかったので、キャプテンになったからには『優勝のために何ができるか』ということを、ずっと考えていました」

── 韓国に勝利し、悲願の優勝を成し遂げました。キャプテンとしてカップを掲げた瞬間はいかがでしたか。

「あれは、気持ちよかったです(笑)」

── この大会のメンバーから8人が翌年のブラジルワールドカップのメンバーに選出されました。しかし、駒野さんは選ばれませんでした。

「少なからず期待はありましたけど、自分の名前が呼ばれなかったのは......悔しかったですね。ワールドカップの出場が決まるまではコンスタントに試合に出ていたので『なんでだろうな』という想いはありました」

── これで5つの試合について、話を聞かせていただきました。

「もうひとつ......あるんですよね」

── もうひとつ?

「あれですよ」

── ......あれ、ですか。

「南アフリカワールドカップのパラグアイ戦です」

......【日本vsパラグアイ「0-0」「3 PK 5」/2010年6月29日/南アフリカW杯】

── やはり、あのPK失敗はキャリアのなかで忘れられない出来事となっているわけですね。あの瞬間をあらためて振り返ってください。

「外した瞬間はもちろん、やってしまったという感情でしたけど、自分は3番手だったので、あそこで終わったわけではなくて、残りのキッカーに託すしかなかったですね。

 でも、結果的に相手も含め、外したのは僕ひとりでした。その責任はすごく感じました」

── 試合後、松井大輔選手(グルノーブル/当時)の寄り添う姿が印象的でした。

「その時は顔を上げることができず、誰が横にいてくれたのか、わからなかったんですよ。あとから映像を見たら、松井がずっとそばにいてくれたんだなって。今となっては、お前のせいだと言われますけど(笑)」

── 大舞台での失敗は、その後のサッカー選手としてのキャリアだけではなく、人生にも大きな影響を与えたと思います。あるいは今後の指導者としてのキャリアにおいても、役立つものがあるのでは?

「あの大会後もJリーグでプレーし続けることになりましたが、自分のプレーが悪ければ今まで以上に批判されると思っていましたし、あの失敗があったからこそ、もっと成長しなければいけないとも思っていました。見ている方にプレーで納得してもらわなければいけないという想いで、自分にプレッシャーをかけてプレーしていました。

 今、コーチとして子どもたちに対して言っているのは、失敗したあとに下を向くのではなくて、常に前を向いていてほしい......ということ。失敗したことで臆してしまうのではなく、失敗しても積極的にプレーしてほしい。失敗こそが成長につながっていくわけですから」

── 個人的にはもうひとつ、FC今治での引退セレモニーが印象的でした。あのような手紙(※)を読める、いいお子さんを育てられたなと。

※=2022年ホーム最終戦となったAC長野パルセイロ戦後の引退セレモニーで、家族を代表して長男がサプライズで手紙を朗読した。

「僕ではないんです。ジュビロを離れてからは5〜6年単身だったので、僕自身はそんなに息子と接していたわけではないんですよ。奥さんがしっかりと育ててくれました」

── あのセレモニーの動画はかなりバズりました。

「そうなんですよ。でも、息子の手紙のことはよく言われるんですけど、あの場で話した自分のコメントには一切触れられないという(笑)。もう、子どもの脇役ですよ。僕らしいと言えば、僕らしいですけど(笑)」

(つづく)

◆駒野友一が語る「忘れられない5人」>>「驚きの連続」「僕はバチバチでした」「なんだ、この選手は!」


【profile】
駒野友一(こまの・ゆういち)
1981年7月25日生まれ、和歌山県海南市出身。中学3年時に広島に転校し、サンフレッチェ広島ユースから2000年にトップチームへ昇格。プロ2年目からサイドバックで活躍したのち、2008年にジュビロ磐田へ移籍。その後、FC東京→アビスパ福岡→FC今治でプレーし、2022年に現役を引退する。2004年アテネ五輪、2006年&2010年ワールドカップに出場。日本代表・通算78試合1得点。ポジション=DF。身長173cm、体重70kg。