■『今こそ女子プロレス!』vol.12

辰巳リカ 前編

 プロレスファンには、その時々の気分で、その団体を観に行く理由があったりするものだ。激しい闘いを観たい時は、団体A。コミカルな試合を観たい時は、団体B。癒しを求めて、団体C。私の場合、"応援されたい"時、東京女子プロレスを観に行く。もちろん、プロレス会場に私を応援している人などいないのだが、それでも私は応援されに行く。

「リカ―!」

「リカ、頑張れ!」

「負けるな、リカ!」

 白いコスチュームに身を包んだ、"ホワイトドラゴン"こと、辰巳リカ。近年は相手選手の首を絞めたりするクレイジーファイトで人気を博している。私の本名も、リカ。辰巳に向けられた大歓声に胸を熱くしながら、私は心の中で「クレイジーなところも、ちょっと私に似ている......」と思った。

 
東京女子プロレス初のグランドスラムを達成した辰巳リカ

 元気に入場して、ファンに笑顔を振りまく辰巳リカ。得意のドラゴン殺法で相手選手を追い込む辰巳リカ。逆に追い込まれて苦しそうな辰巳リカ。覚醒して、相手選手をボコボコにするクレイジーな辰巳リカ。リカ、リカ、リカ。頑張れ、リカ!

 本名が同じだから、ずっと応援している。取材場所に現れた彼女にそう言うと、「嬉しい!」と喜んでくれた。その向日葵のような笑顔はあまりにも眩しくて、やっぱり私は辰巳リカが大好きだなと改めて思った。

 辰巳リカの名付け親は、サイバーファイトの高木三四郎社長だ。本名がリカと聞いて、「リカと言えば、おニャン子クラブの立見里歌(たつみ・りか)!」となったらしい。辰巳は改名してから、自然と藤波辰爾(ふじなみ・たつみ/元・辰巳)を意識するようになったという。

「『こうなりたい』という明確なプロレスラー像もなく、キャラクターもずっとフワフワしていたんですけど。辰巳リカになってから、藤波さんの試合とか昭和プロレスの映像を観るようになって、突き抜けたスター性をすごくリスペクトするようになったんです。同じ名前だし、せっかくなのでドラゴン殺法をやってみようと思ったんですよね」

 辰巳リカという名前じゃなければ、まったく違うレスラーになっていたかもしれない。私もまた、辰巳リカじゃなければ彼女を応援していなかったかもしれない。名前とは、至って不思議なものである。

【「自分には何もない」から抱いた夢】

 辰巳は1991年、長野県に生まれた。育った団地の裏はすぐ山で、男の子とよく蜂の巣をつつきに行った。やんちゃで、走り回ってはよく転び、膝小僧に傷がない時がなかったという。運動が得意で、運動会ではリレーの選手に選ばれた。

 家族構成を聞くと、少し困った顔をして「お父さんは2人いました」という。辰巳が小学校1年生の時に両親が離婚。6年生の時、母が再婚した。2人目の父は、母と喧嘩をすると手を上げることもあった。辰巳と2個下の弟には興味を示さず、仲よくなれなかったという。辰巳が中学3年生の時、両親は離婚した。

 ちょうどその頃、シンガーソングライターのYUIが主演する映画『タイヨウのうた』に感銘を受けた。色素性乾皮症を患い、夜しか活動できないミュージシャンの少女と、彼女に出会った少年の純愛を描いた物語だ。

「私はそれまで生きてきて、これといって好きなものもないし、自分には何もないと感じていたんです。でも、その映画に魅了されて、『私も歌いたいなぁ』と思った。ゆくゆくは上京して、歌う仕事がしたいという夢を持ちました」

 中学校3年間、バレー部に所属する一方で、バンド音楽に夢中になった。ある時、ギターとベースとドラムで構成された曲が猛烈に好きだと気づいたのだ。最初の目覚めは、BUMP OF CHICKEN。先輩が合唱で『天体観測』を歌っているのを見て、いいなと思った。RADWIMPSも好きになり、どんどん音楽にのめり込んでいく。

 高校では軽音楽同好会に所属し、ギターを担当。ガールズバンドを組み、THE BLUE HEARTSのコピーをした。高校の近くにライブハウスがあり、定期的に出演。大学生たちと対バンするようになり、彼らの演奏をきっかけに銀杏BOYZやマキシマムザホルモンにハマった。

 まずはギターを練習するためにギターを担当したが、やはり歌が歌いたくなり、外部の掲示板でボーカル募集を探して応募。社会人の男性とバンドを組み、アニソンのカバーをやった。スタジオ代や機材を買うお金を貯めるため、アルバイトもたくさんやった。ファミレスのウエイトレス、スーパーのレジ打ち、巫女さん......。

「高校には馴染めなくて。友達はいるんですけど、バンドの子のほうが仲がよくて、年上の人たちといるほうが楽しかったですね」

 高校卒業後、音楽の道に進みたかったが、まずはお金を貯めようと地元のケーキ屋に就職。工房でチーズケーキを作る仕事をした。

「接客はちょっと嫌になってしまって、人と直接会わない裏方の仕事をしたいと思ったんです。中二病的なのもあって、『人間なんて......』という感じだったのかな。思春期は自分の好きな人としか関わりたくなかった」

 就職してからもスリーピースバンドを組み、3年間、趣味で音楽を続けた。バンドのメンバーにメジャー思考はなく、「このままずっと地元にいて終わるのかな」と思っていた矢先、エンターテイメントグループ『DPG』のメンバーオーディションを偶然見つける。募集要項にはこう書かれていた。「世間とプロレスする」――。

【プロレスは、ロックでエモーショナル】

「世間とプロレスする」。その意味はよくわからなかった。プロレスに対して、怖いイメージもあった。しかし当時、ももいろクローバーZがプロレスの演出を取り入れたライブやイベントなどをやっていたこともあり、そこまで抵抗はなかったという。

「バンド活動は好きだったけど、練習が嫌いで全然うまくならなくて。バンドでやっていくのは無理かなと思っていたんです。でも、得体の知れないグループで、歌ったり踊ったりするのはできるのかなぁと思って、当時は21、22歳くらいで年齢制限ギリギリだったし、ラストチャンスのつもりで挑戦しました」

 YUIの曲を弾き語りして、オーディションに合格。サブカル系の雑誌が好きだった辰巳は、きゃりーぱみゅぱみゅのような読者モデル路線でいきたかったが、用意された衣装はプロレスラーのコスチューム。覆面を被せられ、名前は「ケンドー・リリコ」になった。思い描いていたものとは違ったが、上京することも決めていたため後戻りはできなかった。

 2013年4月に上京し、DPGで活動する傍ら、秋葉原ディアステージで「ディアガール」として働き始めた。ディアステージは、アイドルやアニソン歌手を目指す女性たちが働くライブスペース兼バー。でんぱ組.incが活動拠点にしていたことでも知られている。辰巳の同期には、妄想キャリブレーションや、バンドじゃないもん!MAXX NAKAYOSHIがいた。

「オタク文化がすごく好きで、ひとつのものにのめり込む熱量がある人たちにリスペクトがあるので、ディアステはめちゃくちゃ楽しかったです。私自身も働き始めて、でんぱさんに推しができました。ねむきゅん(夢眠ねむ)さんと、りさちー(相沢梨紗)さん。憧れの人と一緒に働けて、一緒に美味しい物を食べたり、ライブも観られたり、天国のような場所でした」

 一方で、DPGは"ブラック"なグループだった。

「MV(ミュージックビデオ)を撮ったり、レコーディングをしたり、フェスでいろんな人たちと対バンしたり。いろんな経験をさせていただいたし、ライブをやること自体は楽しかったんですけど、ただ運営に問題があった。お給料ももらえませんでしたね」

 同時に、プロレスとの関わりを深めていく。最初に観戦したのは、DDT新木場大会。もともとプロレスには怖いイメージを持っていたが、試合当日は不思議と怖さを感じなかった。

「入場曲とか、音楽との親和性もあったり、紙テープが綺麗に舞ったり。選手のコスチュームもカラフルで、アイドル性も感じました。『キラキラしてるなぁ』とも感じたし、熱いし、ロックだなぁとも。技とかは全然知らなかったんですけど、自分をさらけ出して闘っている姿がエモーショナルだなと感じて、プロレスに惹かれていきました」

【高木三四郎を呼び止めて「プロレスをやらせてください」】

 DPGの活動を始めてから、「自分は何者でもない」と感じていた。得意なこともないし、優れているものもない。プロレスに惹かれる中で、「プロレスを自分の武器にできたら」と思うようになった。

 DDTビアガーデンプロレスでチラシ配りをした帰り際、同じくDPGのメンバーだった坂崎ユカ(当時はユカ・サカザキ)と一緒に高木三四郎社長を呼び止め、2人で「プロレスをやらせてください」と直談判。とんとん拍子に話が進み、辰巳と坂崎は東京女子プロレスの練習生になった。

 子供の頃から身体を動かすことが好きだった辰巳は、マット運動もそれほど困ることなくこなした。もちろん痛みはあり、練習はハードで苦しかったが、やると決めたからには全力でデビューを目指した。しかし当初は、女子プロレスの世界に対してネガティブなイメージを持っていたという。

「上下関係がとにかく厳しそうだと思っていて、(坂崎)ユカちゃんと怯えながら『挨拶と掃除だけはちゃんとしよう』という話をしてましたね。先輩の山下(実優)とか(中島)翔子とか、最初は怖かったけど、一緒に練習していく中で、信頼関係ができたらどんどん仲良くなりました」

 2013年12月1日、東京女子プロレスが旗揚げ戦を行なった。当時は1日3試合で、試合の間に外部のアイドルのライブを挟むという形式だった。「自分も一応アイドルだったから抵抗がなかったというのもあります。東京女子プロレスというのもよかった」と辰巳は話す。

 2014年1月28日、渋谷エンタメステージにて、「ケンドー・リリコ」名義でデビュー。中島翔子を相手に、マットプロレスを行なった。キャパシティ50人程度の会場だったが、「お客さんに見てもらえてありがたいな」と思ったという。

 しかし同年5月、試合中に腕を負傷。左橈尺骨骨幹部骨折と診断され、長期欠場に入る。デビュー5戦目の怪我で混乱したが、プロレスをやめようとは思わなかった。中途半端になるのだけは絶対に嫌だった。セコンドや物販の仕事をしつつ、『夏の魔物』(DPGから改名)のグループ活動にも力を入れた。しかし、やはりどうしても運営と折が合わず、心が折れ、翌年6月に脱退する。

「プロレス一本でいくと決めて、不安もありましたが、大社長(高木三四郎社長)が『守るから、大丈夫』と言ってくれて。大社長という名前の通り、心がビッグなお方です」

 そんな高木社長に「辰巳リカ」と命名され、同時に藤波辰爾を意識し始める。ドラゴン殺法を研究し、2015年7月18日、復帰戦で"ホワイトドラゴン"辰巳リカが誕生した。

(後編:「後輩への嫉妬心」で東京女子プロレス初の三冠を達成「未詩とは魂の闘い。体は限界でも心は折れなかった」>>)

【プロフィール】

●辰巳リカ(たつみ・りか)

1991年9月27日、長野県生まれ。2013年、エンターテイメントグループ『DPG』の初期メンバーとして活動する中、プロレスと出会う。2014年1月28日、渋谷エンタメステージにて、対中島翔子戦でデビュー。2019年11月3日、渡辺未詩とのタッグ「白昼夢」として、沙希様&操のNEO美威獅鬼軍を下し、「TOKYOプリンセスタッグ王座」を戴冠。2021年1月4日、坂崎ユカを下し、「プリンセス・オブ・プリンセス王座」を戴冠。2023年3月18日、有明コロシアム大会において、渡辺未詩を下し、「インターナショナル・プリンセス王座」を戴冠。東京女子プロレス初となる"グランドスラム"を達成した。163cm。Twitter:@doratles