年金月5万円」という生活になって「最高の今」を過ごせるように。「今がいちばん」と言い切れるその理由とは(写真:マガジンハウス提供)

シングルマザーでありフリーランスとして働いてきた紫苑さんの年金は月に5万円。お金があってもなくても、お金に左右される人生に心からの安心はなかったと語る紫苑さんですが、「年金月5万円」という生活になってやっと心の平穏を得られ、「最高の今」を過ごせるようになりました。

「今がいちばん」と言い切れるその理由とは何か? 豪奢でも清貧でもない自分を本当に幸せにしてくれる、紫苑さん的「お金との付き合い方」には、先行き不透明な世の中、不安にかられることなく、毎日を楽しく過ごすヒントが詰まっています。

(『72歳ひとり暮らし、「年金月5万」が教えてくれたお金との向き合いかた40』から一部を抜粋・再構成して紹介します)

私は10年以上前から着物ブログをやっていました。ブログは、自分のやりたいことや思いをアップするのに、とてもいいツールです。着物がまったく着られなかった私が、さっと着られるようになったのは、着物好きの人たちのブログのお陰です。

ブログを始めたのは、着物仲間が欲しかったからです。着物に目覚めたものの、周りには着ている人はいません。ほかの人の着物の合わせ方も見たかったし、知り合いができると着物の話で盛り上がれるかも! という気持ちがありました。ネットが不得意の私でもすぐにアップでき、着物の知識がなくとも、少なくともだれかには見てもらえる。これは大きな喜びでした。

始めた頃は友人1人。少し時間が経っても、アクセス3か4という状態でしたが、それでも4人の人に見てもらえるのは大きな収穫です。リアルでは着物友だちもいないので、4人、5人と少しずつ増えていくのはうれしく、ブログを続ける励みになりました。

5万円生活をブログで紹介

その着物ブログも、5、6年続け、一通り着付けができるようになると更新が滞り、しばらく放置していました。しかし2020年、新型コロナをきっかけに5万円年金と向き合うことになった私は、新たな試みとして、その5万円の生活をアップすることにしました。

私は1つのことにハマるとそれに夢中になる傾向があります。

着物関係の本に代わって、手にするのは、これまであまり興味のなかった料理本。美味しそうだなと思うレシピの材料を安い食材に変え、載っている手順よりも簡単にできる方法を試す日々の始まりです。その試行錯誤もブログにアップしたりと、着物の代わりに節約が新しい娯楽となったのです。

ブログで節約生活を公開したところで、年金の金額は変わりません。高いもの、ほとんどのものは買えない。この「買えない」は心にわだかまりを作り、余計に「欲しい」を刺激します。人は天邪鬼(あまのじゃく)なところがあり、「買えない」となると「買いたい、欲しい」という気持ちが強くなるようです。買えない自分はかわいそうと惨めさにつながっていくこともあります。

そこで私は「買えない」を「買わない」にマインドチェンジしたのです。「買えない」の「え」を「わ」に変えることにより、お金がないから「買えない」ではなく、自分の意志で「買わない」、と気持ちを切り変えました。

すると不思議なことに、欲求不満や惨めさより、自分の気持ちを自分でコントロールしているとの充足感に満たされていったのです。

自分の考え方1つで、同じ生活が楽しくもつらくもなる。言葉を変えることによって、考え方も自然と変わるのだと実感しました。

以前は「本当に5万円で暮らしているんですか?」と聞かれると恥ずかしい気持ちもあったのですが、最近は「そんなに生活にお金はかかりませんよね?」と返すようになりました。「買わない」と決めることで、「生きるのにそれほどお金はかからない」と考えられるようになったのです。


百円均一で購入した木材で作ったパッチワーク扉(写真:マガジンハウス提供)

「分相応」より「福分」

子どもとの関係がいい方向に変わると同時に、「自分らしい節約」とはどんなものなのか、とより深く考えるようになりました。

お金はなくても残りの時間を慎ましく過ごす「清貧」という暮らしもあります。憧れはしますが、自分とはあまりに遠い生活です。お金はないなりに、美味しいものは食べたいし、おしゃれもしたい。毎日の生活も楽しみたい。あくまで「貪欲」な私はそう考えます。

自分にふさわしいという意味では、「分相応」という言葉があります。その人の地位や能力にふさわしい、という意味ですが、これって少し寂しいような気がします。それは私の「分」=収入があまりに低いせいかもしれません。

そんなときに、幸田文(こうだあや)の言葉を思い出しました。幸田文は、明治に活躍した文豪幸田露伴(こうだろはん)の娘で、その文章は多くの人の心を捉えました。彼女は、「分相応」という言葉を「福分」と言っています。

昭和の名俳優として知られる沢村貞子(さわむらさだこ)との着物対談では、

「私(沢村)、高いものは着ないんです。なんとか安くあげようと苦心するんです」という沢村の言葉に、

「いいものがわからないわけではないのね。いいものを身に着けようとは思わない。それがあなたの福分なのね」(『幸田文対話』岩波現代文庫)と返しています。

初めて耳にする言葉でしたが、いい言葉だなと感じました。「福分」とは仏教の言葉で、「仏教、善行、修行の結果が現世で利益の形になったもの」だそうです。または単に「よき運、よき天運」ともあります。

私は、それを「値段も種類も着方も自分に合っていることがいちばんその人を幸せにする」と解釈しました。「修行・善行」と言うにはおこがましいけれど、それを「工夫」「始末=ものを使い切る」と言い換えてしまいましょうか。「工夫、始末の結果が現世で利益の形になった」と。

福分を超えた人との付き合い方


着るものだけではなく、それは衣食住全般、また人付き合いにも同じことが言えます。自分の「福分」を超えた人とはもう無理に付き合わない。それがその人を幸せにするのだと思います。

若いときには、無理も背伸びも成長の過程ですから、ある程度は必要なことだと思います。でも、それが自分を悲しい気持ちにさせる、自分を惨めに感じさせるものなら「福分」に戻る。そのような心がけでいると、心も楽に生きれるような気がします。

残り少ない時間ですから、もう背伸びも無理もしないで、のびのびと暮らしたい。そう思ったとき、おのずと無理な人付き合いも遠のきました。

節約生活をするまで、すっかり忘れていた「福分」という言葉。それを実行したとき、「今がいちばん幸せ」であると感じたわけがわかりました。そして、それは私にさまざまな「よき運、よき天運」をもたらしてくれたのです。


余った布をつなぎ合わせて作ったパッチワークのカーテン(写真:マガジンハウス提供)

(紫苑 : フリーランサー)