フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○信夫、走る

1923年 (大正12) 9月1日、首都圏を関東大震災が襲った。星製薬の五反田工場で地震に遭遇した森澤信夫は、星社長の安否が心配になり、オートバイで京橋の本社に向かった。星は7階の社長室にいるはずだった。

五反田を出ると、地面にはおおきな亀裂が走り、たくさんの家屋が倒壊して、ほうぼうで火災の炎が上がっていた。交通網も分断されてしまい、街には、うろたえた人々があふれている。そのあいだを縫って、信夫は京橋までオートバイを走らせた。

京橋交差点前に着いた。星製薬のビルはぶじだ。7階建ての本社ビルも、工場とおなじく清水建設が建てた堅牢な鉄筋コンクリートづくりの建物だった。

信夫が着くと、重役の安楽栄治がなかから飛び出してきた。

「星先生はぶじですか!?」

「ぶじだ。宮城前広場に避難しておられる」

宮城前広場 (現・皇居前広場) は星製薬から1.5kmぐらいで、それほど離れていない場所にあった。

関東大震災の際、星一が一時避難した皇居前広場。星製薬から徒歩15分ほどの場所 (2023年2月撮影)

「私はいま、重要書類を安全な場所に移すために、持ち出しているところだ。いいところに来た。森澤くん、きみも手伝ってくれ」

まだ時折、揺り返しがきた。信夫は脂汗を浮かべながら、安楽とともにビルの上階にあがり、書類を運びだした。なんとか仕事を終え、ひと息ついたところで、安楽が言った。

「きみ、めしはまだだろう」

「いえ、済ませました」

「よく食べたなあ! ならばいまは欲しくないかもしれないが、2階のカフェテリアにパンがたくさんあるから、それをできるだけたくさん持ってくるといい」

星製薬は本社ビルの2階に、アメリカ風のカフェテリアをひらいていた。一般客にも開放していたその店は、アイスクリームやコーヒーを出すハイカラな食堂として人気だった。信夫は安楽の提案どおりカフェテリアに行き、ポケットというポケットにパンを押しこんだ。押しつぶしながら詰めこむと、いくらでも入る。信夫は、尻のポケットまではちきれるほどに、パンを詰めこんだ。

さしあたっての仕事を終えると、信夫の頭に、ふと親戚の顔が浮かんだ。父のいとこにあたる森澤耕治というおじさんが、本所深川で警察署長をしている。風の噂では、そのあたりの被害がひどいという。おじ一家には上京してから一度も会っていないし、東京にいることを知らせてもいない。信夫はおじ一家の安否が急に心配になり、ふたたびオートバイを走らせた。しかし500mほど走ってすぐに我にかえった。

「おれは星先生の安否を確かめにきたんだった。すぐに工場に戻って、無事でおられることを皆に伝えなくては」

信夫はオートバイを五反田に向けなおし、走りはじめた。

○四つ辻に薬を置く

もしもこのとき、深川に行っていたら、どうなっていたか。信夫のおじのいたところは、関東大震災で最大の犠牲者を出した本所被服廠跡のそばである。万一、自身が炎に包まれなかったとしても、帰途の橋は焼け落ちていただろう。そうなれば信夫は、どこにも帰ることができず、どうなっていたかわからない。我にかえったことは幸いだった。

五反田の工場に戻ると、工員たちはあいかわらず恐怖の色を顔に浮かべながら、広場で騒いでいるばかりだった。信夫は工場長に、星社長や安楽重役のぶじを伝えたあと、「このままでは日が暮れる。明るいうちに、みなさんを帰したほうがよいのではないですか。帰宅方面別に隊を編成してはどうでしょう」と進言した。

「それもそうだ。いいところに気がついてくれた」

工場長はすぐさま信夫の提案通りに、工員を帰宅方面別に分けた。隊列では男性が先頭となり、女性がこれに続いて、皆、次々と広場を去っていった。

工場には、何人かの責任者が残ることになった。信夫も帰らなかった。彼は、代々木方面に帰る人に、自分のぶじを下宿先に伝えてくれるように頼み、居残りすることにした。「どうせ独り者の身だ。それより工場に残って、万一の事態に備えよう」。信夫はすこし考えて、工場の乗用車のなかで夜を明かした。建物のなかにいて、ふたたび地震が来ては危険だ。車のなかであれば、なにか起きたときにもすぐに飛び出せるからだ。

朝になると、皆、空腹をおぼえたのか、食べ物を手に入れるために大騒ぎになったが、信夫は違った。なにしろ彼のポケットには、ぎゅうぎゅうにパンが詰めこまれている。腹が減ったらパンをかじればよい。

地震から3日目に、星社長が工場に姿をあらわした。

「トラックを集められるだけ集めるんだ!」

トラックが集まると、星は続けた。

「倉庫にあるホシ胃腸薬や整腸剤などを積みこんで、東京中の四つ辻という四つ辻に置いてこい。こんな大災害のあとには、かならず疫病が流行する。わが社の薬を無料で配り、それを未然に防ぐのだ」

それを聞いた信夫は、全身がふるえるほどに感動した。こうして、東京中の四つ辻に、星製薬の薬が積み上げられた。

1915年(大正4)に発売された「ホシ胃腸薬」の赤い丸缶 (星製薬の広告より/筆者所蔵)

「ホシ胃腸薬」の広告。『ホシ家庭新聞』1925(大正14)1月1日付に掲載 (筆者所蔵)

信夫の担当は、深川方面だった。行ってみると橋が焼け落ちていたので、ガス管の上を四つ這いになって渡り、「チャーコール」という薬を置いてきた。チャーコールは、消化・整腸の薬である。罹災者たちは、涙を流してこの薬を受けとった。

「ホシチャーコール錠」の広告。『ホシ家庭新聞』1925 (大正14) 1月1日付に掲載 (筆者所蔵)

深川方面は、手のつけられない惨状だった。信夫の脳裏には、ふたたびおじ一家のことが浮かんだ。この状況ではきっと、おじ一家は絶望的だろう。信夫は暗くしずんだ気持ちで帰途についた。

○箱根を越えて

工場に戻ると、星は信夫に次の仕事を命じた。「どうやら、箱根の向こうは大丈夫だったらしい。行って、はがきをできるだけたくさん買ってきてくれ」。信夫はオートバイで走った。箱根を越えてはがきを買い、東京に取って返した。

すると星は、そのはがきを京橋の本社前の焼け跡に並べ、「はがきを出したい方は、どなたでもご自由にお書きください。私どもが、必ず責任をもって投函いたします」と立て札をたてた。

東京のあらゆる通信網が寸断されている。皆、郷里の家族に便りを出したくても出せずにいたときだった。大勢のひとが、喜んではがきを書いた。信夫は、たまったはがきをオートバイに積みこんでは箱根を越え、これを投函すると、新しいはがきを買って戻ってきた。これを何度も繰り返したのだ。

「偉いひとの真価は、非常事態でこそ発揮されるのだ。おれもすこしでも、星先生の域に近づけるよう努力しよう」

信夫は心に刻んだ。

やがて、絶望的だとおもっていた本所のおじ一家のぶじがわかった。どこで聞きつけたのか、代々木にある信夫の下宿を訪ねてきたのだ。一家がころがりこんできたので、信夫は下宿を明け渡して、自分は古巣の星製薬商業学校の職員室に泊まりこむことにした。

1935年 (昭和10) の絵葉書「飛行機より見たる星製薬株式会社工場と星製薬商業学校」(筆者所蔵)。右手前が工場、左奥に見えるドーム型天井のある建物が星製薬商業学校 (現・星薬科大学)。このはがきは星製薬本社から特約店に向けて出されたもので、宛名面には星一の直筆サインが入れられている (本連載第12回参照)

これに困ったのは、工場長の星三郎だ。すぐに五反田駅の近くに萬屋 (よろずや) という乾物屋を下宿として見つけ、そこに信夫を移らせた。萬屋の主人の名は三田万吉といった。信夫の部屋には、机がひとつと、道具箱がひとつあるきりだった。

関東大震災では約10万人が亡くなり、全潰全焼流出家屋は29万以上にものぼった。[注1] 地震そのものに加え、火災によるおおきな被害が出た。水道管が破裂して消火活動が進まず、風が強かったこともあり、3日間にわたり炎が東京をおおった。東京に本社を置く会社の多くはおおきな被害をこうむった。

しかし星製薬の被害は最小限に食い止められた。京橋の本社、五反田の工場ともに、清水建設による入念な建築だったため、地震による損壊などの被害がまったくなかった。京橋のビルは、上階にすこし火が入ったものの、いくらかの書類が焼けた程度でおさまった。

特約店制度 (チェーンストア方式) をとっていたことも奏効した。他の会社の多くは、銀行の本店が焼けたことにより金融が停止状態に陥ったが、星製薬では、代金回収に支障をきたすことがなかった。このため、他の産業が復興に苦しむさなかも星製薬ではほぼ平常どおりに営業を続け、その年 (1923) の下半期の営業成績は、上半期を上回りさえしたのだった。 [注2]

震災後の自宅の再建を終えた石井茂吉が星製薬に入社したのは、そんななか、地震からひと月少し経ったころのことだ。石井茂吉36歳、森澤信夫22歳のときだった。[注3]

(つづく)

[注1] 内閣府ウェブサイト「報告書(1923 関東大震災)」内「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月 1923 関東大震災」 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923kantodaishinsai/index.html より(2023年2月23日参照)

[注2] 星新一『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967) pp.148-149

[注3] 今回の本稿は、馬渡力 編『写真植字機五十年』(モリサワ、1974)、産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』(産業研究所、1968)を基礎資料とし、星製薬の様子は星新一『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967)から内容を補った

【おもな参考文献】

馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.185-245

星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967

【資料協力】

株式会社写研、株式会社モリサワ

※特記のない写真は筆者撮影

雪朱里 ゆきあかり 著述業。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。2011年より『デザインのひきだし』 (グラフィック社) レギュラー編集者もつとめる。 著書に『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』 (三省堂) 、『活字地金彫刻師・清水金之助 かつて活字は人の手によって彫られていた』 (Kindleほか電子版、ボイジャー・プレス) 、『時代をひらく書体をつくる。――書体設計士・橋本和夫に聞く 活字・写植・デジタルフォントデザインの舞台裏』、『印刷・紙づくりを支えてきた34人の名工の肖像』、『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』 (以上グラフィック社) 、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』 (誠文堂新光社) ほか。編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』 (小塚昌彦著、グラフィック社) など多数。 この著者の記事一覧はこちら