日本代表と対戦!ウルグアイ代表の「伝説的アタッカー」TOP10

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24日に日本代表と対戦することになったウルグアイ代表チーム。1930年に創設されたFIFAワールドカップの初代王者であり、そして1924年に南米のチームとしてオリンピックを初制覇した古豪である。

非常に長いサッカーの伝統を持つ国であり、多くの名選手を生み出してきた。とくにアタッカーについては個性的かつ魅力的なスターがたくさん存在している。

今回はそんな「ウルグアイ代表の伝説的アタッカー」を10名ピックアップした。

10位:「エル・マンコ」エクトル・カストロ

生年月日:1904年11月29日

ウルグアイ代表選出:1926〜1935年

ウルグアイ代表での成績:25試合18ゴール

代表でのタイトル:1928年五輪優勝、1930年W杯優勝、1926年&1935年コパ・アメリカ優勝

1930年の第1回ワールドカップで初のゴールを決めた選手がエクトル・カストロだ。圧倒的な得点力を備えていたストライカーであったが、肉体的なハンディを抱えながらプレーしていた。13歳のときに電気のこぎりで右の前腕を切断しており、万全な腕が一本しかなかったのだ。

そのため片腕という意味の「エル・マンコ」あるいは「エル・ディビーノ・マンコ」という奇妙なあだ名で知られていた。1960年に心臓発作のため亡くなっている。

9位:「オウム」オスカル・ミゲス

生年月日:1927年11月5日

ウルグアイ代表選出:1950〜1958

ウルグアイ代表での成績:39試合27ゴール

代表でのタイトル:1950年W杯優勝、1956年コパ・アメリカ優勝

1940年代にリーグで台頭し、1948年に国内の得点王に。そしてウルグアイ代表に選ばれ1950年のワールドカップでは大会で5ゴールを奪取。1954年大会でも3ゴールを決めており、世界最高峰の舞台で圧倒的な得点力を見せた。

曲芸師のようなテクニックを持っていたが、2点リードした試合で嘲笑するようなドリブルをしたことで監督の怒りを買ったこともあるという。2006年に78歳で亡くなっている。

8位:「元祖狂人」アンヘル・ロマーノ

生年月日:1983年8月2日

ウルグアイ代表選出:1911〜1927年

ウルグアイ代表での成績:70試合28ゴール

代表でのタイトル:1924年五輪優勝、1916&1917&1920&1923&1924&1926年コパ・アメリカ優勝

ウルグアイが1930年の第1回ワールドカップを制覇する前、エースストライカーといえばアンヘル・ロマーノであった。1924年のフランス五輪を制覇したほか、コパ・アメリカで圧倒的な力を見せた。もともとは強烈なドリブル突破を武器とした左FWだったそうだが、冷静で計算高い選手だったという。愛称はアブレウらに受け継がれる「エル・ロコ(狂人)」。

1928年のオリンピックにも誘われたものの、ウルグアイの銀行の就職試験があったために辞退したという、プロサッカーが確立される前らしいエピソードを持っている。

7位:「マラカナンの英雄」アルシデス・ギジャ

生年月日:1926年11月22日

ウルグアイ代表選出:1950〜1952年

ウルグアイ代表での成績:12試合4ゴール

代表でのタイトル:1950年W杯優勝

「マラカナンの英雄」の愛称を持っているアルシデス・ギジャ。ウルグアイ代表ではわずか3年しか活動しておらず、その後イタリア代表に鞍替えしているという選手だが、この国のサッカーの歴史を変えた存在でもある。1950年のワールドカップにおいて、ブラジル代表を相手に決勝ゴールを決めた。これは大会の歴史上最大の番狂わせと言われる。

ブラジルの巨大スタジアムであるマラカナンに集まった観客は沈黙。後にギジャは「マラカナンを黙らせることができるのはフランク・シナトラとローマ教皇と私だけ」と冗談めかして話していたという。2015年に88歳で亡くなったのだが、1950年の優勝メンバーで最も長生きした人物だったとのこと。

6位:「マタドール」エディンソン・カバーニ

生年月日:1987年2月14日

ウルグアイ代表選出:2008〜

ウルグアイ代表での成績:136試合58ゴール

代表でのタイトル:2011年コパ・アメリカ優勝

現在ウルグアイ代表の中で2番目にゴールが多い男エディンソン・カバーニ。守備能力の高さや献身性も特徴でありながら、ストライカーとして必要な得点力が全く落ちることがないという稀有な選手だ。

5位:ディエゴ・フォルラン

生年月日:1979年5月19日

ウルグアイ代表選出:2002〜2014年

ウルグアイ代表での成績:112試合36ゴール

代表でのタイトル:2011年コパ・アメリカ優勝

もちろん2010年ワールドカップの得点王、そして2011年コパ・アメリカの優勝者であるディエゴ・フォルランもこのメンバーに入ってくるはずだ。Jリーグのセレッソ大阪でもプレーしたため、日本のファンにも非常に馴染み深い。

4位:「魔術師」エクトル・スカローネ

生年月日:1898年11月26日

ウルグアイ代表選出:1917〜1930年

ウルグアイ代表での成績:52試合31ゴール

代表でのタイトル:1930年W杯優勝、1924&1928年五輪優勝、1917&1923&1924&1926年コパ・アメリカ優勝

81年間にわたってウルグアイ代表のトップスコアラーであり続けたエクトル・スカローネ。バルセロナやインテルでも活躍を見せた選手だが、そのキャリアのほとんどをナシオナル・モンテビデオに捧げた。170cmという身長で細身だったが、ボール扱いが凄まじかったため「魔術師」と呼ばれた。

引退後にはレアル・マドリーやミジョナリオスで監督を務めたものの、1967年に68歳で死去している。

3位:「マジシャン」フアン・アルベルト・スキアフィーノ

生年月日:1925年7月28日

ウルグアイ代表選出:1946〜1954年

ウルグアイ代表での成績:21試合8ゴール

代表でのタイトル:1950年W杯優勝

ACミランで6シーズンを過ごし、ウルグアイ代表以外にイタリア代表にも入ったレジェンド。1950年にはワールドカップ決勝で同点ゴールを決め、優勝に大きく貢献した。ストライカーからスイーパーまでこなし、高い技術的能力やパスセンス、リーダーシップを備えた選手であった。

IFFHSの世論調査では20世紀で17番目に偉大な選手として評価されており、ACミランの歴史上でも史上屈指の外国人選手と崇められている。2002年11月13日に77歳で死去。

2位:「王子様」エンツォ・フランチェスコリ

生年月日:1961年11月12 日

ウルグアイ代表選出:1982〜1997

ウルグアイ代表での成績:73試合17ゴール

あのジネディーヌ・ジダンが、息子に「エンツォ」の名をつけるほどに憧れたというウルグアイの「エル・プリンシペ(王子)」。技術的な才能に恵まれた攻撃的MFであり、豊かなスピードとチャンスメイクのセンス、一撃必殺のキック、アクロバティックなシュートが魅力であった。

「エル・フラコ(やせっぽち)」と言われた体躯で素晴らしいプレーを見せたことから、非常にカルト的な人気を博した選手でもある。2004年に「ペレが選んだ最も偉大なサッカー選手125名」でウルグアイ人として唯一選ばれている。

1位:「ピストレーロ」ルイス・スアレス

生年月日:1987年1月24日

ウルグアイ代表選出:2007年〜

ウルグアイ代表での成績:137試合68ゴール

もちろん1位はウルグアイ代表の最多得点記録を保持するルイス・スアレス。「エル・ピストレーロ(ガンマン)」の愛称を持つ彼はこの世代で最も優れたストライカーの一人であり、クラブと代表を合わせて500以上のゴールを決めてきた。

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また勝つためならば手段を選ばぬ狡猾さや挑発じみた振る舞いなどで唯一無二の存在感を示し、味方には愛され、敵には最も嫌われた。ワールドカップでの故意ハンド事件や噛みつき事件も含め、話題に事欠かないスターだった。