「幻の戦闘機」世界のモノづくりを変える? フランス「ミラージュ4000」採用ゼロでも実利
独自の軍用機開発を続けるフランス。同国が生み出した傑作戦闘機「ミラージュ2000」の改良発展型として「ミラージュ4000」なる機体がありました。試作で終わった機体ながら、開発元ダッソーに貢献もしたとか。その一生を見てみます。
「ミラージュ」シリーズの好敵手、F-16戦闘機の誕生
フランスの航空機メーカー、ダッソーが自己資金で試作した戦闘機「ミラージュ4000」が1979年3月9日、初飛行しました。同機はフランス航空機産業の期待を一身に背負って離陸した意欲的な新鋭機でしたが、生産はわずか1機で終了しています。なぜ成功しなかったのか、その顛末を振り返ってみましょう。
ダッソーが自主開発した「ミラージュ4000」戦闘機(細谷泰正撮影)。
1960年代、ダッソーはジェット戦闘機「ミラージュIII」の輸出が好調でした。同機は11か国に採用され、トータルで1422機生産されるなど、戦後のフランス製ジェット戦闘機としては最高の販売機数を記録します。
その後生まれた派生型「ミラージュ5」も14か国に採用され582機を生産。フランスはこの2機種で海外市場の開拓に成功したといえるでしょう。そこで、自信を深めたダッソーが「ミラージュIII」の後継として開発したのが「ミラージュF1」でした。
「ミラージュF1」は1974年に初飛行に成功しますが、同年アメリカでも新技術をふんだんに盛り込んだF-16「ファイティング・ファルコン」が初飛行します。ほぼ同時期に開発された機体ながら、「ミラージュF1」は既存の技術でまとめた無難な設計であり、F-16と比べると新鮮味に欠けるものでした。
そういったなか、同年中にNATO(北大西洋条約機構)加盟国のオランダ、ベルギー、ノルウェー、デンマークの4か国がF-104「スターファイター」戦闘機の後継を共同で選定すると表明します。その候補には「ミラージュF1」、F-16、サーブ「ビゲン」など5機種が名を連ねていましたが、最終的に選定されたのは、アメリカ製のF-16でした。
F-14「トムキャット」&F-15「イーグル」の誕生が契機に
この発表は1975年6月7日のパリ航空ショーで行われました。ダッソーの最新自信作がアメリカ製戦闘機に完敗したと、おひざ元である母国の首都で公表されたのです。同社やフランスにとって大きなショックを与えたであろうことは容易に想像できます。
「ミラージュ4000」のベースとなった「ミラージュ2000」戦闘機(画像:アメリカ空軍)。
「ミラージュF1」は計画通り生産が進み、最終的には14か国に導入され740機が採用されるなど、決して失敗作などというようなものではありませんでした。しかし、フランスでは「ミラージュF1」の生産と並行して早々に次期戦闘機の開発計画が始動します。
それは後塵を拝したF-16を強く意識しており、F-16成功の要因だったフライ・バイ・ワイヤを機体制御に採用するとともに、空力デザインは経験豊富な無尾翼デルタ翼を基本としながらF-16にも採用されたブレンディット・ウイングボディとすることで、機体形状に磨きをかけたものに仕上がっていました。
こうして生まれたのが「ミラージュ2000」です。ちなみに、同機の「2000」とは2000年代までフランス空軍の主力戦闘機の座に留まることを目指したからだと言われています。
なお「ミラージュ2000」の開発が決定された1970年代中盤は第1次オイルショックを経験した直後で、アメリカでさえもF-14「トムキャット」やF-15「イーグル」といった大型戦闘機の取得コストや維持費用は大きな負担となっていました。そこでF-16に代表される軽量戦闘機と大型戦闘機を併用することで、費用対効果を高めるいわゆる「ハイロー・ミックス」の考え方が台頭していました。
ダッソーはこの考え方に着目し、大型戦闘機市場への参入を目論みます。「ミラージュ2000」よりも強力かつ高性能な大型戦闘機として、ダッソーはF-14やF-15に比肩する「ミラージュ4000」を計画したのです。
「ミラージュ4000」開発が「ラファール」誕生のベースに
「ミラージュ4000」は、「ミラージュ2000」の拡大発展型といえるもので、機体を大型化して、「ミラージュ2000」では1基搭載であったスネクマ製M53ターボファンエンジンを2基へと増やし、推力を大幅に向上させています。加えて機首のレドームも大型の高性能レーダーを収容できるサイズへと拡大、それによりレーダー誘導ミサイルをはじめとする豊富な兵装の携行も可能とする設計でした。
ただ、「ミラージュ2000」ではフランス空軍への採用が約束されていたのに対し、「ミラージュ4000」ではそのような後ろ盾がなかったため、ダッソーが自己資金で開発せざるを得ませんでした。
「ミラージュ4000」戦闘機の尾部。エンジン双発であることがわかる(細谷泰正撮影)。
開発自体は、「ミラージュ2000」という原型があったことから順調に進み、同機に遅れること約1年の1979年3月9日に初飛行しています。なお、初飛行で早くもマッハ1.2を達成して飛行性能の高さを実証しました。
とはいえ、やはり自国空軍が採用しないという点で「ミラージュ4000」戦闘機は海外への売り込みに苦戦。最終的に、どこからもお声がかからないまま姿を消していきました。しかし、ダッソーは「ミラージュ4000」の開発で得られた貴重な経験を無駄にはしませんでした。
カナード付きデルタ翼の飛行データは、その後開発された新戦闘機「ラファール」へと活かされています。加えてに、ダッソーは「ミラージュ2000」や同「4000」などを設計するために高度な三次元CADソフトウェアを開発、その後「CATIA」と命名され商品化されたこのソフトウェアは、世界中にある数多くの製造業種で使われる主要なCADソフトウェアへと昇華。これにより、それを扱う専門の子会社ダッソー・システムが生まれ、2万人もの雇用を創出しています。
こうして見返してみると、「ミラージュ4000」は航空機としての実績こそ残すことはできなかったものの、次世代戦闘機「ラファール」の誕生に貢献し、3次元CADの分野では現在においても世界の製造業に多大な影響を与えていると筆者は確信しています。
なお、ただ1機のみ製作された「ミラージュ4000」は、パリのル・ブールジェ空港にある航空宇宙博物館で、2023年現在も展示されています。