フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○3万以上の特約店をもつ大製薬会社

「東洋一」とうたわれる星製薬の社長・星一の歓迎会が大阪で行なわれ、その講演を聴くことができるという。近所の大川薬店の主人から招待状を受け取った信夫は、「こんな偉いひとに会えるチャンスはめったにないぞ」と喜んで参加することにした。困ったのは服装だ。歓迎会というからには、あんまり粗末な格好をして出席するわけにもいかない。「着るものをなんとかしなくては」。信夫は、人から洋服を借りて行くことにした。

星製薬の社長・星一(ほし・はじめ/1873-1951) (沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000) p.23より

星一は1873年 (明治6) 12月25日、福島県菊多郡江栗村 (現・いわき市) で星喜三太・トメ夫妻の長男として生まれた。父・喜三太は村会議員や村長などをつとめたひとだった。星一は12歳で平の授業生養成所を出ると、一度は小学校の教師として就職するが、「新しい文明についてたくさん知りたい」「学問を身につけたうえで商売をし、おおきな仕事をしたい」という志を抱いて上京。東京商業学校で学んだのち20歳で渡米して、自ら学費を稼ぎながらコロンビア大学で統計学や経済学をまなんだ。

在学中から『日米週報』という石版刷りの小規模な日本語新聞を発行し、1901年(明治34)にコロンビア大学を卒業すると、『日米週報』を続けるかたわら、日本のことをあまり知らないアメリカ人に向けて、商業や経済に重点をおいた記事を掲載する英文雑誌『ジャパン・アンド・アメリカ』の刊行をはじめる。1905年 (明治38)、31歳のときに同誌を廃刊して日本に戻り、どのような分野に将来性があるか自分なりに研究・調査したうえで、製薬事業を起こした。

星一が1906年 (明治39) 、32歳で設立した星製薬は、アメリカで普及していた湿布薬「イヒチオール」の国産化に成功したことをきっかけに、「ホシ胃腸薬」などの家庭薬をつぎつぎにつくり、販売した。星は新聞におおきな商品広告を盛んに出し、1村に1軒ずつ特約販売店をおくというアメリカ仕込みの販売方法をおこなった。モルヒネやキニーネといった真性アルカロイドなど、当時、国内生産が不可能だった医薬品の量産化に成功して勢いを増し、最盛期には全国で3万以上の特約店をもつまでの規模になった。

森澤信夫が星一の講演を聞きに行った1922年 (大正11) は、そうして星製薬が「製薬会社としては東洋一の規模」とまでいわれるようになった時期だ。星はこの年の夏にドイツ政府から招待され [注1]、星製薬の重役でアメリカ時代からの旧友である安楽栄治ら4人の社員とともにドイツにわたり、フランス、イギリス、アメリカなどをまわって帰国した。

外遊中に見聞したことを、星は社員たちや、全国の特約店に講演してまわった。信夫が聴きに行った講演は、まさにこのときのものだった。招待状が届いたということは、信夫が親しくしていた大川薬店は星製薬の特約店のひとつだったのかもしれない。

星製薬の特約店が店頭に掲げたホーロー看板 (筆者所蔵)

○21歳の信夫、48歳の大社長に面会する

講演会は、大阪・中之島の中央公会堂 (現・大阪市中央公会堂) でおこなわれた。赤レンガのうつくしい中央公会堂は、大正時代のネオ・ルネッサンス様式を基調とした壮麗かつ優雅な建物で、2002年 (平成14) には国の重要文化財にも指定されている。借りものの洋服に身を包んだ田舎育ちの信夫は、まずその壮大さに目を見張った。「さすがは東洋一の規模を誇る製薬会社! りっぱなものだ……」

星は先の外遊で、ニューヨークのロックフェラー医学研究所に在籍していた友人の野口英世とともに、発明王エジソンに面会していた。77歳の発明王はあらたな分野への挑戦を早口で語り、自分のおおきな写真にサインをして、別れぎわに星と野口に渡してくれた。そこにはエジソンの名のほかに〈成功しない人があるとすれば、それは努力と思考をおこたるからである〉と書かれており、星はおおいに感激した。

講演会で、星はこの写真を部屋の壁にかかげ、発明王の冒険心について、集まった者たちに熱く語った。

「努力と思考以外に、成功は得られないのだ。近い将来におおきな不景気が襲ったとき、それを突破する方法もまた、努力と思考以外にはない……」

自分たち本社は、いずれ画期的なあたらしい分野への事業計画を発表する。そのときにはぜひ協力してもらいたい。星は熱弁をふるった。[注2]

講演を聴き終えた信夫の胸は、熱くふるえた。そのまま帰る気にはなれなかった。

「せっかくの機会だ。星社長にじかにお目にかかり、あいさつをしていこう」

信夫は星に面会を申し出た。信夫の「偉いひとに会う」社交の趣味が頭をもたげたのである。

そしてこの東京の大製薬会社の社長は、一介のうどん屋である21歳の青年からの面会の申し出に、こころよく応じた。控室に座っていた星の前で、信夫は直立し、敬礼した。さきほどまでなんのためらいもなかったのに、星を前にすると急に緊張した。なにをしゃべったらよいかと戸惑う信夫に、星は親切に声をかけた。

「きみはいま、なにをしているのだね?」

「製麺業をいとなむ叔母の商売を手伝って、うどん玉の配達をしています。幸い自転車に乗れるものですから……」

辛うじて覚えているやりとりはそれぐらいで、ほかになにを話したか記憶にないほどに、信夫は緊張していた。星はしかし、そんな信夫にいくつかの質問を投げかけてくれた。信夫にとって、長いような、短いような時間だった。

星は最後に、「きみ、一度東京のうちの会社に遊びにきてみないか」と言った。

「はい。ただ、私は金をもっていません」

すると星はほほえみ、かたわらに立っていた営業部長の大塚浩一 [注3]に「このひとに東京までの旅費を渡しておくように」と言い渡した。信夫にとって、狐につままれたような出来事だった。

(つづく)

[注1] ドイツ政府が星一を招待したのは、第一次大戦終結後に科学技術の先進国ドイツの窮状を知り、ドイツの学界に寄付をしたことへの感謝から。ドイツに到着すると国賓待遇という破格の歓迎で、学者たちからの感謝の会や、大統領主催の夕食会に招かれ、ベルリン大学の歓迎会では名誉学位を贈られたという。(星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978 p.137/初出は文藝春秋、1967)

[注2] 星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978 pp.144-146/初出は文藝春秋、1967

[注3] 大塚浩一も星とともに外遊をした1人で、当時の実業界の知識人だった。のちに資生堂の重役になったという。(馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.82 )

【おもな参考文献】

馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000

産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.185-245

「写植に生きる 森沢信夫」『男の軌跡 第五集』日刊工業新聞編集局 編、にっかん書房 発行、1987 pp.169-204

星新一『明治・父・アメリカ』新潮文庫、1978/初出は筑摩書房、1975/電子版は新潮社、2011(25刷改版、2007が底本)

星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967

大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949

【資料協力】

株式会社モリサワ

※特記のない写真は筆者撮影

雪朱里 ゆきあかり 著述業。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。2011年より『デザインのひきだし』 (グラフィック社) レギュラー編集者もつとめる。 著書に『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』 (三省堂) 、『活字地金彫刻師・清水金之助 かつて活字は人の手によって彫られていた』 (Kindleほか電子版、ボイジャー・プレス) 、『時代をひらく書体をつくる。――書体設計士・橋本和夫に聞く 活字・写植・デジタルフォントデザインの舞台裏』、『印刷・紙づくりを支えてきた34人の名工の肖像』、『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』 (以上グラフィック社) 、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』 (誠文堂新光社) ほか。編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』 (小塚昌彦著、グラフィック社) など多数。 この著者の記事一覧はこちら