冷戦のさなかにソ連のパイロットが秘密兵器たる最新戦闘機で飛来……歴史に刻まれる「ベレンコ中尉亡命事件」は文字通り一大事でした。ソ連にとってはとんでもない痛手ではあったものの、怪我の功名的な影響もありました。

脅威たる秘密兵器の化けの皮がはがれたとき

 いつの時代どの国でも、新兵器の情報は厳重な秘密とされます。特に20世紀、「鉄のカーテン」に覆われていると揶揄された旧ソ連中心の東側陣営とアメリカ中心の西側陣営は、互いに新兵器の秘密を探ろうとするスパイ合戦を繰り広げ、スパイ小説や映画もたくさん作られました。

 そのような情報合戦の最中に、「棚からぼた餅」のような事件が日本で起こりました。1976(昭和51)年9月6日に発生した「ベレンコ中尉亡命事件」です。ソ連防空軍(当時)のベレンコ中尉がMiG-25戦闘機を操縦して日本の防空網を潜り抜け、函館空港に強行着陸したのです。


ベレンコ中尉が亡命に使ったのと同型のMiG-25P。R-40空対空ミサイル4発を搭載した防空戦闘型。

 MiG-25は、1967(昭和42)年7月9日時点で西側陣営にその存在を確認されていましたが、秘密のベールに包まれて情報はほとんどなく、MiG-23戦闘機と混同されることもあるほどでした。「最高速度はマッハ3級で航続距離も長い高性能機」と推測されており、アメリカ議会が緊急の公聴会を開くほどの脅威と認識されていたのです。そして、これに対抗できるという新型戦闘機F-15「イーグル」の開発が急がれました。

 そのような秘密の塊が、アメリカの同盟国である日本に転がり込んできたのです。もちろん、これをめぐる東西の激しい外交、工作合戦が繰り広げられました。当事者となった日本の狼狽や露呈した防衛体制の不備ぶりは、いくつも紹介されているところです。

 こうして秘密兵器であった戦闘機は、日本人のあいだではすっかり有名になってしまい、ソ連の戦闘機といえばMiG-25と連想されるほどにその名前は知られるようになります。

丸裸にされたMiG-25 開き直ったソ連は…?

 ソ連は強硬にベレンコ中尉とMiG-25の即時返還を要求しますが、亡命機に関する国際慣例に従い、このMiG-25は徹底的に分解、調査されます。ベレンコ中尉はMiG-25の取り扱いマニュアルも携行しており、こうしてMiG-25の実体は白日のもとに晒されました。そしてその調査の結果、謎の高性能機から一転、ただ速いだけで技術的には時代遅れな航空機と評価されます。秘密のベールというよりもむしろ、化けの皮がはがれた、といったところでしょうか。

 ソ連でも対応にてんやわんやでした。レーダーなど電子機器の性能がバレてしまったため、すっかり新しく設計しなおさなければならなくなったのです。これが次のMiG-31につながっていくことになります。


露空軍時代のMiG-25。ソ空軍と防空軍は別組織で1998年に露空軍に吸収された(画像:Alex Beltyukov - RuSpotters Team、CC BY-SA 3.0 GFDL 1.2、via Wikimedia Commons)。

 しかしMiG-25の秘密が暴かれてしまったことは、ソ連にとって損ばかりでもなかったようです。国家機密として鉄のカーテンの中に隠しておく必要がなくなり、輸出ができるようになったのです。

 最高速度マッハ3という機体は代えがたく、MiG-25の購入希望国は多かったのですが、機密の壁がその販路拡大の障害となっていました。ところが、秘密兵器から一転して有名になったことから、宣伝にも堂々と使えるようになり、ソ連の航空技術と「MiGブランド」を世界市場へ広めることにひと役買うようになります。

 西側でMiG-25は「時代遅れ」などといわれたものの、実際には29個の世界記録を樹立するほどの性能を誇っており、その中でも1977(昭和52)年8月21日に樹立された「ジェットエンジンによる最高飛行高度3万7650m」という記録は、2022年現在も破られていません。

 亡命事件を契機に、さらに購入希望国が増えたともいわれ、こうしてソビエト連邦構成国以外にブルガリア、アルジェリア、イラク、シリア、リビア、インドがMiG-25を購入しました。生産機数は1190機になります。

ところ変われば評価も変わる…その後のMiG-25

 中東の国々においてMiG-25は、「その高速性能の割には高級複雑すぎず、先端技術を持たない空軍でも運用できる堅実な設計」と評価されてきました。その高速性能を生かして空対空ミサイルを発射し一撃離脱する制空戦闘や、高高度高速偵察機として使われ、アメリカやイスラエルと対峙していた当時のイラク、シリア、リビアでは大いに活用されています。


2003年のイラク戦争でアメリカ軍が鹵獲し、アメリカ空軍博物館に保管されているイラク空軍のMiG-25(画像:アメリカ空軍博物館)。

 1991(平成3)年の湾岸戦争では、多国籍軍の攻勢開始初日の1月17日に、イラク空軍のMiG-25がミサイルでアメリカ海軍のF/A-18戦闘攻撃機を撃墜しています。さらに1月30日にも、MiG-25がR-40ミサイルでアメリカ空軍のF-15Cを攻撃、損傷を受けた当該機はそののちサウジアラビアに墜落した、と当時のイラクは主張しています。このF-15Cについてアメリカは未帰還のみを確認しており、イラクの主張が事実なら、対イラク戦争におけるF-15の空戦による唯一の被撃墜となります。

 2022年現在、MiG-25は多くが退役し、現役はシリアで2機程度が残っているだけのようです。一方、亡命事件による秘密暴露を受けてレーダーや電子機器を設計しなおしたMiG-31は、現在もロシア航空宇宙軍で現役にあり、防空戦力を担っています。防空戦闘機ですが、長射程空対空ミサイルを搭載してウクライナ戦線にも投入されているようです。


1985年、地中海へ展開中のアメリカ空母「コーラルシー」に接近したリビア空軍のMiG-25。インターセプトしたアメリカ海軍艦載機から撮影された(画像:アメリカ海軍)。

 もうひとつ、亡命事件の影響で良かったことがあります。それはソ連軍パイロットの待遇改善の契機になったことです。

 ニューヨーク・タイムズは1976(昭和51)年9月を「全国亡命月間」と呼んだほど、ソ連軍パイロットの航空機による亡命事件が相次いだ月でした。ベレンコ中尉の事件から17日後の9月23日には、予備中尉バレンティン・ゾシモフがAn-2小型輸送機でイランに脱出しています。

 ソ連は原因究明と対策にてんやわんやでしたが、ベレンコ中尉は亡命理由のひとつに軍内での待遇の悪さを挙げていたといい、ソ連政府の調査委員会はベレンコ中尉の所属した基地を訪れてソ連軍内のブラック職場環境を認め、改善の必要性を指摘しています。

 秘密兵器がバレたのは軍にとっては痛みですが、現場のパイロットたちがこの事件の顛末を密かに喜んでいたかはわかりません。