「中国人差別発言」の火消しに追われた東京大学が掲げる「差別のない社会」の矛盾 - 御田寺圭
※この記事は2020年01月20日にBLOGOSで公開されたものです
中国人に対する差別発言や陰謀説など「可燃性の高い」発言を連発したことで、2019年11月ごろに大きな非難を招いた東京大学大学院特任准教授である大澤昇平氏のことを覚えている人は少なくないだろう。大澤氏は本件により、2020年1月15日付でとうとう東京大学を懲戒解雇されることになってしまった。
人の噂も七十五日という。この一件が風化してしまう前に、本件が世に問いかけた「矛盾」について書き残しておきたい。
東京大学憲章では、「東京大学は、構成員の多様性が本質的に重要な意味をもつことを認識し、すべての構成員が国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別されることのないことを保障し、広く大学の活動に参画する機会をもつことができるように努める」と言明しております。
-----
東京大学大学院情報学環・学際情報学府『学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する見解』(2019年11月24日)より引用 http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/news/2019112411004
たしかに、大澤氏の一連の不規則発言はまさしく「差別」ととらえられるものであるし、社会的にけっして褒められたものでもないだろう。しかしながら、そもそも本人は「(AIの進歩によって)なぜ差別してはならないのかを再考しなければならない時代が来る」という主旨の発言もしているので、一連の発言について「失言をしてしまった」とか「差別ととられたくない」といった反省的なニュアンスはとくになかったのかもしれない。
東京大学はその声明文のなかで「国籍はもとより、あらゆる形態の差別や不寛容を許さず、すべての人に開かれた組織であることを保障いたします。」と書いている。これについて、多くの人からは、大澤氏の言動には断固として批判してほしかったとしながらも、納得の声が上がっている。
東大が掲げる「差別のない社会」の内実
まったく嫌味でもなく煽りでもなく、しかしつねづね考えることがある。「あらゆる形態の差別や不寛容を許さず、すべての人に開かされた組織」であるならば、なぜ東京大学は知的障害者が入学できないのだろうか――と。
あるいは「知的障害」だけではなくて「学習障害」「読み書き障害」など学力の低下に結びつきやすい障害を抱える人、もっといえば「なんらかの障害や診断名がついているわけではないが、生まれついて机上学習が苦手な人」が、なぜ入学できないのだろうか。
東京大学が文章で掲げる「差別のない社会」の内実とは、社会の成員が「国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別されることのないこと」である。ここに「能力」の二文字はない。
繰り返し嫌味ではなく素直に疑問であることを強調しておくのだが、「すべての人に開かれた組織であること」と「(学力的な)能力に劣っている人を受け入れないこと」とは、両立する論理なのだろうか。
もちろん、こうしたセクションにおいて「これは差別ではなく区別」とか「教育機関である以上、学力による選別には合理性がある」などといった種々のエクスキューズが繰り返し用いられていることは了解している。だが、建前がどのようなものであれ、そうした方便を用いるだけで、背反する論理の同居を正当化できてしまえるのだろうか。「くだらない屁理屈だ」と思う方は、ここで読むのをやめてもかまわない。この後もそうした「屁理屈」に終始していくつもりだからだ。
最後に残る「やってもよい差別」
もちろん東京大学に限ったことではない。他の大学でもそうだし、あるいは企業でも同じことがいえるだろう。総合職の雇用が女性にも開かれる時代になったが、だからといってすべての人に差別がないわけではない。入社試験なり面接なりで能力が厳しく見定められる。コミュニケーション能力や事務処理能力に劣る人は採用されない。
「あらゆる差別のないことを目指す社会」においても、結局のところ無能には容赦のない差別が待っている。もっとも、これらもまた「差別」ではなく「経済活動の自由」とか「機会の平等」という別の名称があたえられるのだが。かりに将来的に、すべての人間の人権感覚があまねく完璧にアップデートされ「あらゆる差別のない社会」が実現したとしても、その社会には「(学習能力・事務処理能力など)能力による序列化」だけは歴然として残ることになるのではないだろうか。
すべての人が差別に苦しまなくなったとしても、能力だけは「してもよい差別」「せざるをえない差別」としての暗黙の合意が敷かれ、存続させることに人びとが合意する。なぜなら私たちの社会は「能力の序列化」を前提にした設計で成り立っているからだ。私たちは「能力の序列化」によって生じる社会システムの便益の享受者でもあれば、同時に被害者でもある。私たちは差別者でもあり、同時に被差別者でもある。
――大澤氏の差別的な発言に憤り、批判する人のなかにも、勢い余って彼の「非正規」的な肩書について嘲笑する人もいた。それはまさに「やってはいけない差別」と「やってもよい差別」の差を象徴しているようにも見える。
「あらゆる差別が解消され、すべての人に開かれた社会」にとって、なぜ「能力による序列化(能力差別)」が残されるのか。たとえばこの部分をなくしてしまうと、この社会を運営するのになくてはならない「だれもやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事」にだれも就かなくなってしまうからだ。
「身の丈にあったキャリア」という美名に隠された仕事
多くの人が嫌がるさまざまな理由や要件のともなう役割や仕事を引き受けさせるには「能力による序列化」が不可欠だ。能力の低い者はポジションを選ぶ権限や選択肢が少なくなり「適材適所」「身の丈にあったキャリア」などといった美名に糊塗された「だれもやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事」が提案される。
かりに「差別の撤廃」を「能力」にまで波及させて「無能にも開かれた社会」を作ってしまうと、だれも「いやな仕事」をやりたがらなくなり(半強制的にやらせるための口実がなくなってしまい)、多くの人がやりたがらない「いやな仕事」が存在せざるをえない現在の人間社会は、決定的な機能不全を起こしてしまう。
頭の良さや事務処理能力、コミュニケーション能力によって大学入学や企業入社の可否が決められることは「適材適所」ということばもあるように、一定の合理性があると考える向きもあるだろう。だが、その序列化構造は、一見してもっともらしいが、インテリに有利な「インテリの道徳」であるともいえる。頭の良さで序列化して、それを差別だといわれないでもっとも得をするのは、頭の良い人になるのは当然だからだ。
余談だが、インターネットではたくさんの聡明な人びとがいる。彼らはしばしば「アンチ体育」的な立場をとる。体育が他の科目と並んで内申点に影響することを理不尽であるなどと激しく批判する。学生の本分は勉強なのだから、勉学の結果で評価すべきだ――と。私も体育は得意ではなかったので、思わず納得してしまいそうになるが、運動が得意で勉強が苦手な人にとってみれば、勉学の成績で序列化されることが当然視されているようなシステムの方が理不尽で不条理きわまりないものだ。
大勢のインテリが幅を利かせるインターネット・メディアでこんなことを書いても反発を招くだけかもしれないが、「差別ともとれる序列化構造だが、しかし一定の合理性がある(から差別ではない)」というとき、それは絶対的なただしさゆえに正当化されているわけではなく、あくまで「私たちにとって有利・便利な序列化だから差別ではない」と主張しているにすぎないものだ。
子どもの教育に熱を上げる親たちは気づいている
あらゆる差別を許さない道徳的な人でも、しばしば自分の子どもには「能力差別競争」の勝者になってもらいたいと願う。教育投資を惜しまない。塾に通わせるし、習い事にも行かせる。公立中学ではなく私立中学を選好する。「差別のないことを目指す社会」で最後の最後まで残される差別が「能力による差別」であることに、彼・彼女たちは鋭敏に気づいているからだろう。
東京大学は大澤氏の「不規則発言」に動揺して、今回の声明文をかなり急ごしらえで作ったことだろう。いかにもテンプレ的な文面であることから「日本型謝罪(責任逃れと不快にさせたことにのみ謝罪することを揶揄した名称)」と批判されてはいるが、しかし内容的にはとくに瑕疵はない。事実を列挙しているにすぎないからだ。
だがそうした「事実の列挙」のなかにこそ、全社会的に目指されている「差別のない社会」からはじき出されて差別されてしまう人たちの存在が示唆されるのは、なんとも皮肉である。「差別のない社会が実現し、そして最後に残されるもの」について思いを馳せる人はほとんどおらず、むしろ「元特任非正規教授(笑)」「元最年少准教授(非正規w)」などといって嘲(あざわら)うばかりだ。