オスカー6部門ノミネート「パラサイト 半地下の家族」が描いた切なくて痛い格差社会 - 松田健次
※この記事は2020年01月14日にBLOGOSで公開されたものです
ポン・ジュノ監督の新作「パラサイト 半地下の家族」が、13日に発表された第92回アカデミー賞のノミネーションで、韓国映画として初めての作品賞ノミネートをはじめ、計6部門ノミネートという快挙を達成した。
同作は、2019年のカンヌ映画祭で最高賞のパルムドールを審査員満場一致で受賞しており、鑑賞前には期待値ハードル青天井を抑えきれなかったが、前半早々にハードルは蹴り倒されて、世界標準なエンタメのツボにハマり、ラストまで高揚感の乱高下にしがみつきっ放しだった。
監督&出演者がネタバレ禁止を呼びかけ
この映画、本編前に監督&キャストがネタバレ禁止を呼びかけるショート映像があって、(という情報はすでに各所で明かされてるので、それを記すのはネタバレには当たらないだろうが)、もちろんここでも本編ネタバレ回避しつつ「パラサイト」ショックをとどめたい。
< 「パラサイト 半地下の家族」STORY 公式サイトより >
全員失業中。日の光も、電波も弱い“半地下住宅”で暮らす貧しいキム一家。大学受験に失敗し続けている長男ギウは、ある理由からエリート大学生の友達に家庭教師の仕事を紹介される。身分を偽り訪れた先は、IT企業を経営するパク社長一家が暮らす“高台の大豪邸”。
思いもよらぬ高給の“就職先”を見つけたギウは、続けて美術家庭教師として妹ギジョンを紹介する。徐々に“パラサイト”していくキム一家。しかし、彼らが辿り着く先には、誰にも想像し得ない衝撃の光景が待ち構えていた―――。
という導入部まではネタバレが公式オープンになっている。半地下に住む貧しい4人家族と、高台に住む富める4人家族。片やキム一家は(ソン・ガンホ演じる)父親が過去に度々事業で失敗、経済社会の枠組みから転げ落ち、ひと山いくらの内職にしがみつき非正規なアルバイトに就くことも困難な低所得一家。片やパク一家は父親が業績好調な新興IT企業の若き社長で、モダンなデザインの豪邸に住み、運転手付きのメルセデスを所有し、家事はすべて家政婦に一任という高所得一家である。
貧富の差が生むドラマは日本でも鉄板
シンプルに貧富で二分されたこの格差家族が交差する処から物語は動き出す。のだが、相反する階級の接触によって生まれるドラマは決して目新しいものではない。
例えば自分のような中年(53歳)であれば、まず、ものごころついてからはマーク・トウェインの「王子とこじき」あたりがボンヤリと横切ったあと、「巨人の星」(星飛雄馬と花形満・・・伴宙太も金持ちだった)の洗礼を受け、「あしたのジョー」(矢吹丈と白木葉子)とか、「タイガーマスク」(伊達直人とミスターX)とか、「愛と誠」(大賀誠と早乙女愛)とか、なんだかんだで梶原一騎からことあるごとに「貧富」の講義を受け続け、「貧富」という題材は物語におけるファンタジーという受け止め方が体に染みつく。
そして、バブル期とその終焉を経て、まだ不景気を実感できなかった平成初期には、当時12歳だった安達祐実主演のドラマ「家なき子」(1994年)があり、「同情するなら金をくれ!」は流行語となって、最終話の最高視聴率は37・2%を記録。「貧富」は国民的なエンタメの題材として、他人事として観賞できるファンタジーとして成立していた。
しかし90年代半ばを過ぎて、日本の不景気は実感のヴェールを脱ぎ始める。そして今に至る「失われた30年」。グローバルな新自由主義経済とやらに覆われて中間層はことごとく目減りに晒され、痩せ細って下層へと追いやられ、「格差社会」という言葉に括られていく。
「貧富」は多くの大衆にとって、ファンタジーではなくリアルな実感になっていった。ご存知のとおり日本だけでなく世界各地で。
そういう世界の趨勢を反映して、映画界も然り。(ゼロ年代にも社会の底辺や生きづらさを描く傑作は連綿とあった中で)この数年、「格差社会」を題材とした数々の作品が国際的な評価を獲得していることがエポックな潮流として挙げられるだろう。
2018年のカンヌ国際映画祭・パルムドールは是枝裕和監督「万引き家族」、2019年のヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞は「JOKER」。作品に込められた現代性が世界共有のものとして、強い共振をもたらしている証だ。
そして昨年は片山慎三監督「岬の兄妹」やジョーダン・ピール監督「アス」など、格差社会を捉えた傑作が続いている。
しかしこれらの作品に接する度に複雑な思いも伴う。普段目を逸らしていたあまり見たくない現実を正視する感じ。描かれる登場人物たちへの距離感が以前よりも縮まり、他人事と割り切れない感じ。リアルをドッと背負わされる感じ。蛸の足食いの如く自己浸食をしながら映画と対峙しなければならない感じ。
すごい映画を観たという充実と引き換えに、抱えることになるキッツい感じ・・・なんとも複雑な思いだ。
エンターテインメントにしてみせた監督の剛腕
そして「パラサイト」だ。驚いた。「格差社会」を真っ向から題材にして、キッツいのに、滅法面白いじゃないか。格差を上下しながらの先の見えない展開に、徹底的に眼が離せなくなる。厄介で繊細な同時代の問題を扱いながら、エンターテインメントに昇華してしまったポン・ジュノ監督の映画術、その剛腕に、今年最初の初唸りとなった。
「パラサイト」は「格差」を扱うが、富裕側と貧困側が対立するのではなく、表題である「パラサイト=寄生」が両者をつなぐ関係となる。自立の道が見えない貧困者が見出した生きる術、それが富裕者という宿主への寄生だった。
奪い取るのではない。共生の関係。その関係は俯瞰すれば特別なことではなく、人間社会に普遍的にあるものだ。雇用者と被雇用者の関係。ゆえに物語は決して突飛なものでなく、身近に起こりうる同時代の出来事として入り込んでくる。
また、富裕層=支配者=悪、貧困層=被支配者=善、のような型枠は無い。貧しいキム一家も富めるパク一家もどちらも同じ社会の人間として存在している。それゆえに、格差ある暮らしによって養われ身についた何かが他意なく浮かび上がり、見えなかった分断線が見える時、どうにもいたたまれない感情を突きつけられる。
「パラサイト」が描く「格差」は緻密な設計により、セリフにおいて、展開において、アングルにおいて、セットにおいて、随所で観る側に問いかけてくる。そのシンボルとなるのは「段差」だ。空間に施された様々な「段差」は、登場人物たちの「位置と価値」を階層化し、可視化する。
そして、物語は「段差」によって上へ下へ、垂直の軌跡を辿りながら、混迷を加速していくのだ。
ことに堪らなかったのは後半のある場面、「格差=上流と下流」というシビアな意味をあまりにもわかりやすい事象として見せつけられた処で、ああ、格差とは、かくも上下なのか、段差なのか、と撃ち抜かれた。
切なくて痛いけどたまらなく面白くて驚かされる、それが「パラサイト 半地下の家族」だった。
ポン・ジュノ監督いわく「道化師のいないコメディ」「悪役のいない悲劇」「止めることのできない猛烈な悲喜劇」。まさしくその通り。これは「格差社会」という同時代の問題を題材にして到達した、格差エンターテインメントの突端であり、傑作だった。