「除夜の鐘がうるさい」人々が大晦日の風物詩を騒音だと思うようになったワケ - 御田寺圭
※この記事は2019年12月31日にBLOGOSで公開されたものです
「除夜の鐘が1年をしめくくる鐘声ではなくなった」
除夜の鐘の音が、この街で暮らした自分たちの1年をしめくくる鐘声ではなくなり、たんなる「迷惑な騒音」として認識されるようになった――そんなニュースが話題になっていた。
「“夜勤明けで眠れない”などの住民からの抗議で、今年の運動会では仙台市内に186ある小中学校のうち、約半数の90校で打ち上げを見送りました。確かに早朝から花火の音が響き渡れば迷惑だと思われるかもしれませんが、この合図は明治以来続く地域の伝統的な慣習です」
お隣の福島県でも、同様の事態が起きている。福島市では、昨年から住民の苦情が市役所に寄せられ、今年は二つの小学校で花火の打ち上げを見合わせた。
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週刊新潮『「運動会の花火」「除夜の鐘」に苦情多数で禁止拡大の不寛容』(2019年12月12日)より引用
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12150557/
「除夜の鐘への苦情」の発生要因について、人びとが「迷惑」への閾値を下げている(迷惑だと感じやすくなっている)ことが考えられる。しかしながら、それ以上に人びとが地域社会との相互依存的な関係を喪失していることを示唆しているだろう。
個人主義化が進み、そうした価値観を内面化した人びとが多く移り住んだ地域コミュニティにおいて、その住民たちは地域コミュニティに支払うようなコストも最小限度に抑えたいと考えるのが当然だからだ。
「自分たちにはなんのメリットもない『地域社会』であるにもかかわらず、自分たちにはデメリットを我慢するよう強要してくる」と、人びとが考えるようになったからこそ、除夜の鐘は「迷惑な騒音」となったのである。
社会の最小単位が「家族」から「個人」へと移行
そしてこの流れは止まることはないだろう。なぜなら、この社会における「社会的ユニット」の最小単位が、「家族」から「個人」へと移行する流れが、年々強まっているからだ。個人を守るのが家族、あるいは社会とされていた時代から、新自由主義的な時代の流れが強まり、つまりはかつてサッチャーが述べたように、家族は個人を包摂する概念ではなく「個人と並列する概念」としてみなされるようになっていった。社会は家族の世話をしなくなり、家族は個人の世話をしなくなった。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69207
かつては企業はさまざまな福利厚生で、社員やその家族の人生を背負い込んでいたが、いまはそうではない。新自由主義的な経済的合理性を重視すれば、家族の人生を含めて社員を包摂するなど、非合理の極みでしかないからだ。
2020年からは大企業に「同一労働同一賃金」(中小企業では2021年から)が義務付けられるが、非正社員が正社員のように「人生の面倒をみてもらえる」ようになるのではなく、正社員が非正規社員のように「新自由主義的な規範によって扱いを変えられる」ことが起こるだろう。これは私の憶測でそう言っているのではなく、すでにそうした端緒は見え始めている。
来年4月、賃金や手当、福利厚生すべてについて、正社員と非正規社員の格差を埋めようとする同一労働同一賃金関係2法が施行される。格差是正のため、企業は正社員側の家族手当や住宅手当の縮小を始めているが、正社員の気持ちは生活保障給の一部である手当削減に追いつかない。
日本経済新聞『正社員の手当が消える… 非正規との格差是正へ』(2019年11月23日)より引用
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52450760R21C19A1KNTP00/
この社会における「格差是正」とは、「みんなが平等な分配を与えられることによって、それなりに幸せに暮らせる」ことを目指すのではなく、「個人の能力で全員が平等に評価される社会」へと収斂していくことになる。
「個人の能力で全員が平等に評価される社会」において、能力の高い個人はその分だけ自分の利益を最大化できる。社会からの包摂やサポートは失われるが、しかし社会にこれまで要求されていた「包摂・サポート利用料」は支払わなくてよくなる。しかし、社会から包摂や支援を受けてなんとか生きてきた人にとっては、実質的には「平等」は失われることになる。
「除夜の鐘」が鳴る時期にもなれば、寺社仏閣に集まって地域の人びとと連帯を確認しあい、それぞれが助け合って生きていたころは、「社会的包摂・社会的サポート」が期待出来ていた。だからこそ、真夜中に鐘が鳴ったり、騒がしい正月であったりすることも、人びとはそれなりに我慢し甘受できた。
だが、「個人の能力で全員が平等に評価される社会」になっていけば、もはや地域社会は仲間でもなければ味方でもない。むしろどちらかといえば「敵」「競争相手」になってしまう。自分のことを助けてくれない人間のために鳴らされる鐘の音など、だれが歓迎するだろうか?厳粛な鐘声に対して向けられる「迷惑だ」という声は、令和の日本社会が「頼れるものは自分だけである(という点においては平等な)社会」へと変わりつつあることをはっきりと示している。
社会は「分断」されているのではなく「細断」されている
「だれもが個人として生きていくことが当然となった社会」においては、家族はもはや自分を守ってくれるような、たいていの人が属することのできる社会的ユニットではなく、「高い能力を持つ個人が、自分の能力の高さをシグナリングするもの」として認識されつつある。
子どものための予算を割けとか、子どもを育てやすい社会にしろなどというのは、いまはかろうじて「政治的ただしさ」の後ろ盾によって踏みとどまっているものの、そう遠くないうちに「私たち『個人として能力の高い人間のみが形成可能なユニット』に、より快適な社会生活を提供しろ」と申し立てているのと同義であるとみなされるようになるだろう。
このままのペースで生涯未婚率が上昇を続ければ、将来的には結婚している人の方がむしろ少数派にすらなってしまうという観測もある。「困っても社会に助けを求めるな。個人でなんとかしろ」というメッセージを内面化した人びとにとって、子どもがいるから助けてほしいとか、そんな例外申請は認められなくなる。
「既婚者の言い分は、独身者が自由な生活を謳歌するのは自由だけど、彼らの老後を支えるのが自分たちの子ども世代というのが許せないということ」
独身者を快く思わない人がどれだけいようとも、社会の「ソロ化」は加速する一方だ。総人口に対する独身者率は、1980年の34%から2015年には41%まで上昇。40年には47%、つまり人口の約半分に達する見込みだ。日本社会で進んでいるのは高齢化ばかりではない。
プレジデントオンライン『2040年、日本に押し寄せる「半数が単身」の衝撃』(2019年12月15日)より引用
https://president.jp/articles/-/30672
子どもは、「社会に対して寛容を求めるファクター」としての機能はもたなくなり、「自分で好きに子どもをつくったんでしょ?それで困ったとしても自業自得でしょ」という、個人主義的な自己責任論を向けられるような要因にすらなってしまうだろう。いや、もうすでになりつつあるか。
「家族」や「子ども」に対しても冷淡な社会のことを、メディアなどではおそらく「社会が分断されている」とか「不寛容社会」などと今後しばらくは強調されるかもしれない。だが、除夜の鐘にさえ反発するような「自衛の時代」において、社会は分断されているのではなく、じつは細断されているのである。
社会が「ある陣営 vs. 別の陣営」などといった構造に分断されているのではなく、可能な限り小さな単位へと社会の成員を再構築する営みがいままさに起こっているのだ。私たちは社会を分断したのではなくて、全員が個人戦に参加させられる新たなルール、すなわち「有能な個人」にとってもっとも有利になるようなシステムへと作り変えている最中なのだ。
ここで皮肉だったのは「有能でない個人」も、あたかも自分が有能である側に位置しているかのようにふるまい「こんな時代遅れの足かせさえなければ自分はもっと暮らしやすいのに」と、社会の再構築を支持してしまったことだ。もっとも、そのように錯覚させることが、社会の再構築を望んだ「有能な個人」たちの思惑どおりだったのかもしれないが。
今年もまもなく除夜の鐘が鳴る。それはひと年の終わりと始まり、そして「自衛の時代」の到来を告げる鐘声となる。