※この記事は2019年12月26日にBLOGOSで公開されたものです

人気サッカー選手の発言に激しく反発

突然の炎上……サッカーの英プレミアリーグの強豪チーム、アーセナルに所属するメスト・エジル選手の発言に、中国が激しく反発した事件が注目を集めている。

共同通信社

エジル選手は13日、SNSで新疆ウイグル自治区について「コーランが燃やされた。モスクも閉鎖された。イスラム学校も禁止された。イスラム学者が次々と殺されている」などの文面を投稿し、中国政府による新疆ウイグル自治区統治政策を批判した。

新疆ウイグル自治区では2016年頃からきわめて強圧的な治安対策が実施された。各国メディアの報道によると、独立派やイスラム原理主義の可能性があると見なされた人々は予備的に拘束され、再教育キャンプと呼ばれる収容所に軟禁されているという。その数は100万人を超えるとも伝えられる。またイスラム原理主義の浸透を抑止するために、一部モスクの閉鎖などの強硬手段が用いられているという。エジル選手の書き込みはこうした中国政府の弾圧を批判したものとみられる。

中国側の反応は苛烈だった。中国中央電視台(CCTV)は16日に予定されていたアーセナル戦の放送中止を決めた。中継を予定していた動画配信サイトも同様に放送中止を発表している。

そればかりか、サッカーゲーム「ウイニングイレブン」の中国語版を配信しているネットイースは18日に声明を発表。同社が配信している「ウイニングイレブン」シリーズのスマートフォンゲームからエジル選手を削除すると発表した。エジル選手は世界的なスター選手で、ゲーム内でも高い能力を誇るキャラクターだった。高額課金で強化していた中国人ゲーマーも少なくなかったはずだが、一瞬で消失してしまったようだ。

「中国人民の感情を傷つけた」という決まり文句

類似の“炎上”騒動は10月にも起きたばかりだ。米プロバスケットボールリーグ(NBA)のヒューストン・ロケッツのダリル・モリーGM(ゼネラルマネージャー)が香港デモへの支持を呼びかける投稿をツイッターで発表したところ、NBA中継の一時中止や多くの中国企業がスポンサーをやめると表明するなど大きな騒ぎとなった。

AP

エジル選手はスタープレイヤーでSNSの影響力も大きいとはいえ、一個人にすぎない。ダリル・モリーGMも同様だ。その発言にこれほど強い反発が起きるのはいったいなぜだろうか?

鍵を握るのは「中国人民の感情を傷つけた」という言葉にある。エジル選手の問題を受け、中国サッカー協会の関係者はメディアの取材に答え、「中国人民の感情を傷つけた」と批判している。またネットイースの声明では「中国サッカーファンの感情を傷つけた」とやはり類似の文言がある。

「中国人民の感情を傷つけた」は、中国で多用される決まり文句だ。海外から批判された時に登場する言葉である。怒っているのは中国政府ではなく、一般の中国国民だ。政府間の対立ならば冷静に交渉することはできるかもしれないが、国民が“自主的”にボイコットなどの抗議活動をはじめても中国政府はとめることはできないという脅しである。

写真AC

香港大学中国メディアプロジェクトのDavid Bandurski氏は2016年に「中国人民の感情を傷つけた」という決まり文句が人民日報誌面を飾った回数を統計的に分析した記事を発表している。1959年から2015年にかけて143回登場した。対象国として最多は日本で51回。2位が米国の35回だという。

「中国人民の感情を傷つける」典型的な事例として、「ダライ・ラマ効果」がある。2010年にドイツ人研究者が発表した論文「Paying a Visit: The Dalai Lama Effect on International Trade」で使われた言葉だが、ダライ・ラマ14世と首脳が会見した国は、その後に対中輸出が2年間にわたり平均8.1%減少することを論証している。

愛国心以上の比重を占める恐れ

近年では特定の国ではなく、特定の企業や団体がターゲットにされることも多い。独メディア「ドイチェ・ヴェレ」は10月10日、「近年、“中国人民の感情を傷つけた“国際ブランド」と題した記事を発表している。掲載されているのは以下の事例だ。

前述のNBA、香港デモ参加者が活用する地図アプリを配信していたアップル、従業員が香港デモ支持を表明した香港キャセイパシフィック航空、ファーウェイの孟晩舟CFOを拘束したカナダの代表的アパレルブランド「カナダグース」、中国の反政府活動家である劉暁波氏が2010年にノーベル平和賞を受賞したことによるノルウェー産サーモン、THAAD(終末高高度防衛)ミサイル配備による韓国ロッテ百貨店系列のスーパー、台湾の蔡英文総統が2018年米国で立ち寄った台湾系喫茶店チェーン「85度C」。

この事例を眺めているだけでも、中国人民の感情がいかにたやすく傷つけられるかはおわかりいただけるのではないだろうか。しかもたんに怒っただけではすまない。劉暁波氏のノーベル平和賞受賞後、中国国内でのノルウェー産サーモンの販売額は激減した。消費者のボイコットがあっただけではなく、通関当局が検査を遅らせることで、鮮度が落ちて売り物にならなくなったという話もある。THAAD配備後にはロッテ百貨店系列のスーパーには消防検査など地元当局が頻繁に検査を繰り返し軽微な違反を指摘し、実質的に操業できない状況に追い込んだというケースもあった。

通関当局や地方政府まで動いているとなると、人民の名を借りて中国政府が対策を支持しているかに思えるが、実はそうではない。そこに働いている力学は忖度と黙認であり、恐れである。忖度とはなにか。この場合では中国にとっての敵が何かを理解し、命じられる前に自らできる行動で貢献しようという動きを指す。中央政府はそれをやりすぎだと考えれば抑止することができれば、止めるほどではない、あるいは都合がいいと考えれば黙認するわけだ。

Pixabay

政府部局や企業が忖度するのはなにも強い愛国心に駆られたわけではない。そういう人々もいないわけではないが、愛国心以上の比重を占めるのは恐れである。中国の敵に対してなんらかのアクションを起こさなければ、今度は逆に自分たちが愛国的行動に参加しない漢奸(売国奴)と批判され、外国政府や企業と同様にバッシングの対象とされる可能性があるのだから。

「人民の感情」を鍵として敵をたたいていく。「人民戦争」モデルとも呼ばれるこの構造は中国で長らく保持されてきた。中国経済は大きく成長し、大都市部では先進国以上に近代的な街並みとなった。社会制度や法律の整備も進み、コンテンツ産業などの発展も著しい。モダンな国家へと大きく前進しているわけだが、「人民の感情が傷つけた」との号令がかかると、古くさい姿が甦ってくる。これは外国の政府や企業にとって厄介なだけではなく、漢奸呼ばわりを避けるために身を投じる中国の企業や一般市民にとっても面倒な話となっている。

プロフィール

高口康太
ジャーナリスト、翻訳家。1976年生まれ。千葉大学人文社会科学研究科(博士課程)単位取得退学。中国の政治、社会、文化など幅広い分野で取材を続けている。独自の切り口から中国・新興国を論じるニュースサイト「KINBRICKS NOW」を運営。著書に『幸福な監視国家・中国』(梶谷懐氏との共著、NHK新書)、『現代中国経営者列伝』(星海社新書)など。