※この記事は2018年06月01日にBLOGOSで公開されたものです

芸能プロダクションと演者(歌手、俳優、タレント)との間のトラブルが後を絶たない。しかも、ここに来てクローズアップされているのは「芸名」の問題である。

広瀬香美が突然の独立宣言

新事務所設立と、その新事務所への移籍を自身のフェイスブックで発表(5月28日)した歌手・広瀬香美(52)に対して、それまで所属し、マネージメントをしていた「オフィスサーティー」が、公式サイトを更新(5月31日)し「広瀬香美」の〝芸名使用禁止〟を宣告した。

「弊社に許可を得ることがなく、新事務所への移籍を発表した」と、広瀬の一方的な〝独立行動〟は許せないと不快感を示した。その上で、「広瀬香美」と言う芸名(本名は石井麻美)についても「弊社の代表取締役である平野ヨーイチが命名したもので、その芸名の使用権限は、弊社及び代表取締役の平野に帰属する」としている。

しかも「事務所退所の場合は芸名を使用しない約束を文書で交わしている」とし、今後、芸名を使用した活動を続けるなら損害賠償を含め法的手段も考えているとした。これは穏やかではない。が、その一方で「芸名を使用させないと言っているわけではなく、話し合いたい」と、どこか譲歩した見解も出している。やはり、オフィスサーティーにしても本音は大騒ぎにはしたくはないだろうし、出来れば「穏便に済ましたい」と思っているに違いない。

芸名の覚書は1993年に交わされたそうで、権利は平野氏にあることを確認している。当然だろうが「契約書は広瀬さんもお持ちだと思う」と代理人弁護士。

この問題、結局は話し合いの席を設けて、お互いにウィンウィンの関係で解決するのが一番だが、正直言ってスンナリとはいかないだろう。広瀬の出方によっては問題が長期戦になることも十分に考えられる。

広瀬は「ロマンスの神様」の大ヒットで知名度をあげた。が、自らの作品以外にも川中美幸や郷ひろみ、篠原涼子、少年隊、広末涼子、上戸彩、安達祐実ら多数アーティストにも曲を提供している。それだけではない。自身の才能を、さらに前面に出して「広瀬香美音楽学校」を開校したり、「広瀬香美合唱団」なども設立している。

まさに音楽を中心に幅広い活動を続けているわけだが、私生活はと言うと99年に俳優の大沢たかお(50)と電撃結婚したが、06年に協議離婚、その2年後の08年にはIT系の企業に勤務する1歳年上の米国人と再婚している。私生活は充実しているようだが、それが、ここに来て「移籍」「独立」。一気に勝負をかけた感じだ。そういえば、今年初めに、やはり事務所からの完全独立宣言をした小泉今日子も52歳だった。

ある放送関係者によると、広瀬の運営する音楽学校や合唱団は、彼女の知名度の高さもあって「順風満帆」だと言う。

それにしても彼女に場合、アーティスト、作家という部分以外でも「広瀬香美」と言う名称を積極的に使っていながら、これまで、事務所と契約や条件等についての話し合いは、どの程度だったのか?

もちろん、それなりにして来たとは思うが、いきなり新会社を設立して「独立」という今回の彼女の行動には、潔さより、違和感の方が大きい。

「なぜなんだろう…」といった疑問さえ感じる。あるいは「もう話し合っても無理」とか「新事務所の事を知られたら妨害される」といった、広瀬にとってネガティブな状況でもあったのだろうか?

状況を見る限り、今回の「移籍・独立」は、念入りに準備して来たもので、明らかに〝強行〟だったのだろう。もちろん、こんなことを広瀬が1人でできるはずもないのだが…。どちらにしても、ここまで来たら、もはや話し合っても簡単にはいかないだろう。

過去に芸能界を揺るがした「芸名トラブル」

そういえば、この広瀬の「移籍・独立」問題とソックリな事件があった。これは、本名どころか「芸名」を巡って裁判に発展、ついには「2人の同名俳優が出現」するという前代未聞の〝珍事〟になった。しかも、この芸名を巡るトラブルは当時、NHKまでもが午後6時と7時のニュースで報道するほどとなり、2年越しの社会的問題となったのだ。

その事件とは、当時21歳だった俳優・加勢大周の独立だった。

91年4月4日付で所属事務所「インターフェイスプロジェクト」に「契約解除通知書」を提出、同年6月1日付で新たに母親を代表とする個人事務所「フラッププロモーション」を設立したことが発端だった。

この加勢の行動にインターフェイスの竹内健普社長が猛反発。「一方的な独立は許さない」と東京地裁にテレビ、映画への出演禁止と「加勢大周」の芸名の使用差し止め、さらに5億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。

もちろん5億円の損害賠償なんてのは破格だったが、それより当時の芸能界で、出演禁止と芸名使用の差し止めを裁判所に求めるなんて聞いたこともなかった。

加勢の本名は川本伸博だった。都立玉川高校に在学中(3年)スカウトされ、89年12月に「ファミリーマート」のCMで芸能界デビューした。彼の名前を全国区にしたのは90年9月に公開された映画「稲村ジェーン」で主役に抜擢されたこと。この映画は、サザンオールスターズの桑田佳祐が初監督したもので当時、配収20億円をあげた。

「加勢大周」という名前は、インターフェイスの竹内社長がリスペクトする江戸幕末の幕臣・勝海舟にちなみ「勝海舟のようにスケールの大きな人間になるように」という願いを込めて命名したものだっただけに、独立することは感情的にも許せなかったにかもしれない。

「とにかくインターフェイス側は専属契約で合意していたにもかかわらずCMの仕事をすっぽかした上、新たに個人事務所を設立し、そこと専属契約を結んだことに激怒したのです」(プロダクション関係者)という。

もっとも、「事態を憂慮した大手プロが間に入って解決するはずだった。当初はインターフェイス側も金銭的和解という条件を呑むはずだった。ところが加勢の親族や元マネジャーまでが不穏な動きを見せたために、二転、三転、まとまる話もまとまらなくなった」(事情通)。

このことから訴訟では「和解どころか全歩み寄ることもなかった」。

92年3月30日、東京地裁は「加勢大周」の芸名での出演禁止を命じる判決を出した。

しかし加勢側は判決後も芸名を変える考えのないことを強調、東京高裁に控訴した。しかも、その高裁は地裁の判決を破棄し「芸名の使用と活動の自由を保証」する逆転判決を下してしまった。

この判決に気が収まらないのはインターフェイスである。裁判から1週間後に加勢に対抗する新しい俳優「新加勢大周」のお披露目会見を開いたのだ。

2人の「加勢大周」登場すると言う、漫画のような出来事に業界は唖然呆然となった。しかも、新加勢大周はワイドショーに生出演し、鍛えぬいた上半身を披露したり、体力検査までして加勢大周と比較していた。それどころか、この出来事をNHKまでが取り上げたものだから、さらに大騒動になってしまった。

さすがに、このドタバタ劇には「共倒れになる」との批判が相次ぎ、最終的にインターフェイスが折れた形で「新加勢大周」は「坂本一生」に改名された。

こういった事態に当時、日本俳優連合で専務理事を務めていた二谷英明さん(故人)は「こんなことは二度と繰り返したくはない。将来ある若い青年の才能を摘み取ってしまう」と異例の見解まで出す事態となった。しかし、この言葉は肝に銘じておくべきだろう。

能年玲奈は本名の使用を妨害された

芸能人の「芸名」を巡る所属事務所のトラブルといったら、最近では本名の「能年玲奈」を使用できず「のん」として新出発したケースがある。彼女の場合、本名を使わせなくすると言うのは、どう見ても横暴だ。裁判以前の問題である。

宗教問題でトラブルになった清水富美加とは決着して、能年とは決着しないのは、やはり条件で折り合いがつかないのだろう。しかし、もはや、こういったトラブルは時代にもそぐわない問題になりつつある。と言うより、長引けば長引くほど、芸能プロダクションにとってもイメージを下げかねない。リスクマネジメントとしてもよろしくない。

とはいっても、心情的に「売れたら独立」というのも…日本人的な感情からしたら「恩知らず」とも言われかねないだろう。

「立つ鳥跡を濁さず」ではないが、やはり最低限の敬意は払うべきであろう。そういった意味でも、広瀬の場合は「ロマンスの神様」も微笑んでくれないと思うのだが…。