※この記事は2018年05月17日にBLOGOSで公開されたものです

西城秀樹さん 63歳の若さで死去

衝撃的なニュースが芸能界を駆けめぐった。歌手の西城秀樹さんが16日午後11時53分に、急性心不全のため亡くなった。まだ63歳だった。

15年前の2003年に脳梗塞を発症、その後も11年にも再び起こし右半身麻痺の後遺症があった。ここ数年はリハビリに頑張っていたというが、体調は思わしくなく、4月25日に横浜市内の自宅で倒れ、意識不明のまま病院に救急搬送されたそうだが、そのまま帰らぬ人となった。

西城さんは、高校時代に広島市内のジャズ喫茶でバンド演奏していた時にスカウトされたのが芸能界入りのキッカケ。「家族の反対を押し切って上京した」。

デビューは1972年3月。RCA(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)から「恋する季節」でデビューした。

当時の芸能誌「平凡」や「明星」などの人気投票で常にトップを争っていた郷ひろみ、野口五郎と共に〝新御三家〟と呼ばれた。とにかく、3人の中でもアクティブなアーティストだった。

デビューして2年後の74年に発売した「傷だらけのローラ」は、長髪をなびかせながら熱唱するスタイルが当時の女性の間で大きな話題となった。

その後も「薔薇の鎖」や「炎」「勇気あれば」などヒットを飛ばし、79年に出した「YOUNG MAN」は、自らも考案に携わったという両手を使った〝Y・M・C・A〟の4文字を作る振り付けが大流行となり、150万枚を売り上げる大ヒットとなった。同曲は、80年のセンバツ高校野球大会の入場行進曲にも起用され、最近では、替え歌でCM曲としても使われているほどだ。

歌手以外でも、74年にTBS系の人気ドラマだった「寺内貫太郎一家」や映画「愛と誠」に出演してファン層を広げた。さらにハウス食品「ハウスバーモントカレー」は73年から12年間もCMキャラクターを務めた。

まさに70年から80年代を駆け抜けてきたと言っても過言ではない。輝かしい時代を作ってきたヒーローの1人であろう。

記憶に残る十朱幸代との熱愛騒動

私ごとになるが、西城さんの歌の中で十八番は何と言っても「傷だらけのローラ」だ。カラオケでは必ず歌っている。が、「西城秀樹」として私が最も印象に残っているのは、やはり女優・十朱幸代との〝熱愛〟騒動だった。

この騒動、89年9月に写真週刊誌がスッパ抜いたことで大ニュースとなった。

今では珍しくはないが、当時は年齢がひと回り以上違うと、それだけでも大騒ぎだったように思う。そんな時代の懐かしい出来事だ。

89年1月――昭和天皇崩御の朝、スポーツ紙の1面を飾ったのは、何と小柳ルミ子と大澄賢也の13歳の年齢差〝電撃入籍〟だった。もっとも、これは余りのタイミングの悪さで話題となったが、その「ルミ子・賢也」の話題も冷めやらぬ初夏に発覚したのが十朱(当時46歳)と西城さん(当時34歳)の熱愛だった。

当初は「13歳もの年の差が大きなハンディ」と言われたが、親密の度合いは深まるばかりで、90年3月には米ロサンゼルスに10日間の極秘旅行したことまで発覚、芸能関係者には「これで結婚は決定的」とまで言われていた。

キッカケは、NHK総合テレビのドラマ「夜の長い叫び」(89年)での共演だった。NHKのドラマ初出演で緊張していた西城さんを大先輩の十朱が何かと面倒を見たという。

役柄はCM会社の部長のキャリアウーマンを十朱が演じ、その部長に憧れを抱く部下が西城さんの役どころだった。つまり、ドラマの役柄が、そのまま現実になってしまった格好だった。

最初の頃は西城さんより「十朱の方が熱心だった」そうだが、次第に西城さんの方が燃え上がったという。ドラマ終了後の6月、神戸のオリエンタル劇場で行われた西城さんの舞台「坂本竜馬」を観に十朱は何度も足を運んだ。それが1回だったら、なるほど…で終わるが、2度、3度も行ったら、これは普通じゃない。しかも、2人が神戸の新オリエンタルホテルで朝、珈琲を飲んでいるところまで目撃されていた。

そういった熱愛報道に、十朱は「悩みがあっても彼には素直に打ち明けられる」と言い、西城さんも「真面目に付き合っています」と、大人の関係を認めていた。さらに、十朱は「フィーリングが合うんですよ。話していても楽しい」とノロケていた。

いずれにしても、13歳も年下の西城さんを燃え上がらせた十朱は〝魔性の女〟と呼ばれるようになっていた。とにかく堂々としており、西城さん自身も周囲に「結婚したい」と漏らしていたといい「結婚、秒読み」なんていう情報まで駆け巡っていた。

交際して3年。長い春は続いた。ただ、西城さんも年齢差について悩んでいたのかもしれない。91年5月。デビュー20周年を迎えた西城は、記念パーティーで「一番大切な時期です。当面、結婚はありません」と爆弾発言。さらに、十朱との関係についても「恋人はたくさんいた方がいい。恋愛しないわけじゃないけど、エンジンが始動したばかりですから」と、仕事優先を口にした。それだけではない。「皆さんの騒ぐほどの関係ではありませんでした」と吐露したのだ。

2人の関係は自然消滅してしまったのだろう。西城さんのコンサートには必ずあった祝花も来なくなっていた。

今になって振り返ると懐かしい〝取材日記〟の一つである。

そんな西城さんも01年に18歳年下の一般女性と結婚した。しかし、03年に韓国でのディナーショーの後に脳梗塞で倒れることに。結婚間もなかっただけに奥さんも大変だったろう。言語に障害が出たが、懸命なリハビリで復帰した。「あきらめないー脳梗塞からの挑戦―」(04年)を出版したが、11年に脳梗塞が再発し、都内の病院に入院した。

「ファンが待ってくれている」

西城さんは、それを勇気に、新たに水中運動を取り入れてのリハビリを始めたという。その結果、ステージに立つまで回復したが、今年4月14日に足利市で行われた「同窓会コンサート」が最後のステージとなってしまった。