果たして自分は、子供が溺れる瞬間を認識できるだろうか - 赤木智弘
※この記事は2018年05月06日にBLOGOSで公開されたものです
4月30日に、奈良県天理市にある健康ランドの流水プールで溺れ、意識不明になっていた4歳の男の子が3日の朝に死亡したという。(*1)
不幸な事故であり、ご両親の心痛はいかばかりかと思うが、参照先のYahoo!ニュースのコメント欄を見ていただければ分かるように、ネットではこの事故に対して「自己責任だ」「子供から目を離した親が悪い」と、両親を叩くコメントばかりが書き込まれている。
子供の死亡を一番悲しみ、自分たちが気づけなかったことを後悔しているのは両親自身であるだろうに、それに追い打ちをかけるようなバッシングを行う人達がいる。
一体彼らは、そのようなことを書き込んで何がしたいのだろうか。自分たちはこのような失敗を侵さない立派な人間だとでも自慢したいのだろうか。立派な人間であるならば、悲しみに暮れる人たちを叩くようなことはせずに、せめて口をつぐんで黙っているべきだろう。
さて、では偉そうに両親を叩く人たちは、子供が溺れたことを本当にすぐさま感知することができるだろうか?
僕はそうとは思わない。
この事件のことを調べていたところ、動画サイトに「子供が溺れる瞬間の動画」があるという書き込みを見つけた。その動画を見てみると、たしかに子供が溺れる動画であった。
しかし、僕はその動画を「子供が溺れる動画」であると理解した上で見ていながら、子供が溺れた瞬間に「溺れた」ということを理解できなかった。
なぜならその子供は、手をバタバタさせて暴れるでもなく、ただ音もなくスッと水面下に消えたからだ。子供が溺れる動画と理解しても、子供が水面に消えてなお数秒間、僕は子供が溺れたのだと理解できなかったのである。
「子供が溺れる」といったときに多くの人がイメージするのは「手足をばたつかせ、水しぶきをあげながら「たすけてー!」と叫ぶ」という子供の姿だろう。
実際、子供が溺れることを注意するイラストでは、必ずと行っていいほど子供が水面から頭を出して手をばたつかせている。しかし、僕の見た映像では、子供はただスッと水面下に消えたのである。何の音もせず、水しぶきも立たず、ただ子供の姿だけが視界から消えたのである。
自分には子供は居ないが、もしプールなどでその場に居合わせて、すぐ近くに居たはずの子供の姿が消えたとして、たぶん僕はそれを「潜った」とか「他の人の影に紛れた」くらいにしか考えないだろう。少なくとも自信を持って「溺れた」とは言えないと感じさせられる映像だった。
また、溺れた体験談などを調べていくと、普通に立てば胸から上が出るような場所でも、お辞儀のような形になり溺れてしまうという話も掲載されていた。
僕自身は溺れた経験はないし、また誰かが溺れた瞬間を実際に見たこともない。しかし、このニュースを調べる上で、溺れるということが決して特別珍しい状況ではないし、いかにも子供が溺れているというイメージ通りの光景にはならないということを知った。(*2)
だから、たとえ子供から目を離さなくても、それを溺れたと認知できない人が居ても、それを非難できないことを、人間的感情としてはもちろんだが、それ以上に知識として理解することができた。
では「自己責任だ」「目を離したからだ」とコメントした人たちはどうだろうか?
彼らはまだ子供は溺れると手足をばたつかせて「たすけてー!」と子供が騒ぐと思っているのではないか。空想の中の溺れた光景を指して、それに気づかぬ親が悪いと認識しているのではないか。
では、その彼らの子供が溺れたときに、彼らはそれを溺れたと認識することはできるだろうか?
1つのイメージに引きずられ、救助が間に合わないことにはならないだろうか?
自分は大丈夫などと奢らず、自分自身も子供が溺れたことを見過ごすかもしれない。そう考えなければ子供の命は守れない。
せめて今回の事故を教訓に、一人でも多くの人がそう思うようになることが、亡くなった子供と、その両親に対する最も人間として誠実な態度であると、僕は考えている。
*1:「健康ランド」プールで溺れ重体だった4歳男児が死亡(MBSニュース)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180503-00000043-mbsnewsv-l29
*2:小児科医が注意喚起 子どもが溺れた時の『真実』知っていますか(grape [グレイプ])https://grapee.jp/398561