10万円超ワンピースの明細書が見つかり、彼に「結婚は考えられない」と言われ…
恋に仕事に、友人との付き合い。
キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。
すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす？
▶前回：娘のママ友付き合いが苦痛…。鬱屈した専業主婦が月に1度、子供を預けて変身する姿とは
Vol.13 CHANELのNo.5と1本のシャンパン
「別れよう」
慶の言葉が、心に重く響く。
この状況になるまで、まさか別れを切り出されるなんて想像していなかった。彼は私に惚れ込んでいるという自惚れがあったのかもしれない。
まだ明るい銀座のカフェで取り乱したくなかった私は、極力冷静に返した。
慶は、黙ったまま真っすぐに私の目を見つめている。この真っすぐな目は出会った2年前から変わらない。決めたことは絶対に曲げないという目だ。
― 一体、どうすれば良かったの？
私のそんな気持ちが漏れ出たようなため息に、彼は答えた。
「円佳との結婚生活を想像できないんだ」
「…私は、慶といて幸せだったよ」
「俺もだよ」
長い沈黙のあと「店を出ようか」と慶は言ったが、私は「もう少しここにいる」とだけ言った。
私たちの2年間が、このとき終わったのだった。
このカフェの窓辺の席からは、銀座の街がよく見える。少し先に見えるビルは『エスキス』が入っていた。付き合って半年たった日、レストランで食事をすることが大好きな私のために、彼が予約を取ってくれたのだ。
仕事終わりに『ビヤホール ライオン』で待ち合わせして、信じられないくらいビールを飲んだ夜も。GINZA SIXができて間もないころ、草間彌生の展示を見に慶を連れて行った日も。
この街には、たくさんの思い出がある。
大分前から、彼の心が離れているのはわかっていた。
いつしか、ネイルや美容室帰りの私に向けられる言葉が「可愛いね」から「また？」に代わったこと。
いつもレストランやショッピングへ行く提案は私からで、慶は家でのデートを望んで何度も言い合いになったこと。
私の部屋で、10万円を超えたMAME KUROGOUCHIのワンピースの明細書を見つけて、顔をしかめていたこと。
ドレッサーに並ぶ50本の口紅や大量の化粧品を見たあと、「買い物依存症 精神状態」と検索していたこと。
お互い抱いていたであろう小さな違和感を思い出す。今、賑やかなカフェの窓側の席に座っていて良かったと心から思う。
窓を見ていれば、誰にも私の泣き顔は見えていないだろうから…。
ボロボロの心で円佳が立ち寄った場所とは
慶は、真面目な男だった。母子家庭で育ち、幼少期は金銭面でも苦労したらしい。だからこそ常に努力を惜しまず、今働いている大手証券会社では、資金調達の大きな仕事を任されていた。
一方の私は、彼に言わせれば“生活感のない女”らしい。
生まれ育った家は比較的裕福なほうで、大学進学のために18歳で上京。その時にスカウトされて以来、モデルの仕事を続けている。今はPR会社のOLとの二足のわらじで生活し、東京という華やかな街を存分に味わってきた。
慶との恋の始まりは、友人からの紹介だ。彼が私に一目惚れをし、また私も追いかける恋愛に疲れていたときで、ちょうどタイミングがよかったのだ。
付き合っていくなかで「結婚するならこういう真面目な人がいいのかな」と思うようになっていたが、終わりはこんなにあっさりしたものなのか、と拍子抜けした。
きっと彼はいくらお金を稼ぐようになっても、“慎ましく生きる母親の姿”が理想の女性像だったのだろう。真逆なタイプの私は、“結婚に向かない女”と思われても仕方がない。
その時、かつてのモデル仲間からLINEが入った。
『まどか、聞いた？春に廃刊になるらしいよ…』
どこからの情報だろうか、2〜3年前まではよく撮影依頼があったファッション誌が廃刊になるらしい。その雑誌でモデルをしていた日々は、私にとって、大人になってから味わう青春時代だった。
モデル仲間のLINEアイコンは、1年前まではウエディングドレスだったのに、いつの間にか子どもとのツーショットになっている。取り残された気分になった私は、今は返信したくないな、とそっとiPhoneをしまった。
気がついたら29歳。
私の人生において、ひとつの華やかな時代が終わろうとしているのかもしれない。
こんな日は、何か自分を癒やすものでも買って帰ろうかと考えたが、アクセサリーも、洋服も、大好きなケーキも気分ではない。
何度も来ているはずの銀座で、今歩いているのが何丁目かさえわからなかった。目的があるときはとても魅力的だけれど、そうでないときはとても遠く感じる街だ。
― 今日はもう帰ろう…。
タクシーを止めようと周りを見渡したとき、道の向こう側にある、見慣れないお店が目に入った。
そこは、ワインショップだった。
なぜだろう。吸い込まれるように店内に足を踏み入れた。
ワインは美味しいと思うけれど、いつも、詳しい人やソムリエにペアリングなどでお勧めされたものを飲むことがほとんどだった。
だからブドウの品種や産地は、有名どころしか知らない。
壁一面にワインが並んでいても、どうやってワインを選べばいいのかわからなかった。
その時、後ろから声が聞こえた。
「何かお探しですか？」
声が聞こえ、振り返ると、ブドウのバッジをつけた若い男性の店員が立っていた。
「あ…、ちょっと入ってみたのですが…」
言葉に詰まる私に、ソムリエは予想外の言葉を発した。
ソムリエから提案されたワインが、円佳の心を強く動かした理由
「あの、No.5…ですか？」
彼が言った言葉に、私の頭上にハテナマークが浮かぶ。
「いえ！申し訳ありません！ちょっと思い出の香りがしたので…」
彼は慌てながら、照れくさそうに言う。鼻が利くのは職業柄だろうが、とても驚いた。
「はい！そうです！マリリン・モンローが、寝るときはシャネルのNo.5だけまとって寝る、なんて話があって、それで香水はずっと…」
聞かれてもいないことまで話してしまって、私も照れ隠しに笑った。すると彼は言った。
「その話の続きを知っていますか？」
私は大きく首を振ると、彼はシャンパーニュを持ってきた。
「寝るときは、シャネルのNo.5、目覚めの1杯はパイパー・エドシック、が彼女のルーティンだったそうですよ。何というか、彼女の生き方って潔くていいですよね。贅沢は、最高に贅沢でなくっちゃと、肯定しているような」
その瞬間、心地のよい風が吹いたような気がした。
『贅沢は、最高に贅沢でなくっちゃ』
大きくうなずくと、シャンパーニュを購入し、深くお辞儀をしてお店を出た。
つい数十分前には冷たく見えたビル街が、今は自分を歓迎しているような気がした。
OLである私は、マリリン・モンローのように目覚めの1杯…というわけにいかないので、夜、帰ってから冷やしておいたシャンパーニュのコルクを抜いた。
フルート型のグラスの中から繊細な泡の音をパチパチと鳴らすシャンパーニュを、口の中へ伝わせる。
その瞬間、笑ってしまった。
キリッと冷えたフレッシュな液体が喉の奥ではじけ、旬のフルーツをかじった後のような甘さが駆け抜ける。上品な余韻が続いていった。
― なんて、美味しいんだろう。
ワインに香水はNGというけれど、朝つけたNo.5の洗練された香りがシャンパーニュの贅沢さを引き立たせている気がした。
贅沢は贅沢だから良い。それが真実だった。
気がついたらボトルは空になっていたが、心地よい酔い方だった。
数日後――
10年前からお世話になっている、雑誌の編集者から電話があった。
「まどちゃん、今度、新しいWEBメディアを立ち上げるんだけれど、その中で“大人女子の贅沢な1人時間の過ごし方”っていうコンセプトで連載をやりたくて。まどちゃんが真っ先に浮かんだんだけど、興味ないかな？」
「…興味あります！」
電話を切った後、私は微笑んでいることに気がついた。
1人で過ごす贅沢な夜も、1本の映画を見るようなストーリー性のあるレストランのコース料理も、キラキラとした化粧品も、家賃よりも高いワンピースも、魅力的な人たちもやっぱり大好きだ。
この先何度、人を愛して、愛されて、傷ついて、見放されても、私はこの街で生きていくと決めた。
そうだ、今日もワインを買って帰ろう。
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