娘のママ友付き合いが苦痛…。鬱屈した主婦が月に1度変身する姿
恋に仕事に、友人との付き合い。
キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。
すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす？
▶前回：「料理なんてできなくていい」と私を選んでくれた彼。誰もが憧れる御曹司が私を見染めた理由
Vol.12 とっておきの着物から学ぶ“和”のココロ
『11時半に、ライズの入口前で^^一緒に向かいましょう』
ママ友グループLINEに投下された文面に、山咲理映は深いため息をつく。
能面で文字を打ちながら、理映は一通り返事が揃うまで画面を見守った。
田園都市線沿線のある街に引っ越してきて1年余り。大手総合商社に勤務する夫・辰則は日々忙しく、娘の莉子は幼稚園の年長で、まだ手がかかる年頃だ。
そんなとき、心の支えになるのは幼稚園やご近所のママ友。おしゃべりも気分転換になり、戦友のような頼もしさもある。
だが…
『今日は習い事で行けません。楽しんできてね』
あるママ友の返答に、彼女が入っていない別のLINEグループがなぜか反応する。
『久々の集まりなのに』
『いつも忙しそうよね。もう誘わない方がいいのかしら』
幹事のママさんは、『了解です！』という笑顔の敬語スタンプで彼女に返信しつつ、別のグループに『ダメなら、早めに言ってほしかったな』と本音を吐露している。
皆、文面は穏やかで丁寧なのが恐ろしい。自分も同じように裏でいろいろ言われている可能性だってある。協調を促し、個性を殺して交際しあう息苦しさが、理映は苦手だった。
その日のランチの話題は、2ヶ月半後に迫った卒園式の服装について。
紺かたまご色のスーツ、膝丈スカート、黒パンプス…判で押したような暗黙のルールが存在することはわかっている。
理映はお受験のときに揃えた濃紺スーツにコサージュを付ける程度の服装で参加する予定だったが、皆は式に合わせて新調するという。
久々のハレの日だからそうしたいよね、と。誰からも異論はない。
周囲から浮かぬよう、しかし被らぬよう、どんな服装やバッグで参加するのかを、お互いに探り合う。不毛な会話は、その後2時間も続いた。
理映が気の合わないママ友と行動を共にする理由
かつて見た地獄
「だったら、付き合わなければいいだろう」
遅くに帰宅した夫・辰則は、理映の愚痴に即答した。夫に限らず、この不満には誰もがそんな定型文で返答する。
「わかってないなー」と深いため息の後、理映は辰則に渡す予定だった缶ビールを自分で開け、飲みながら答えた。
「私は一度、失敗したじゃない。そうもいかないの」
かつて経験した地獄が、頭をよぎる。
この街に来る前、理映は夫の駐在でオーストラリア・ブリスベンに4年滞在していた。その時、彼女は莉子を産んだばかり。
美大を卒業し、広告制作会社を経て、出産までフリーのデザイナーとして気ままに働いていた理映は、群れるコミュニティーへの嫌悪感もあり、夫の会社の家族会や日本人会の参加を基本断っていた。
すると、パーティーにも呼ばれず、必要な情報も共有されないという、あからさまな仲間外れにあってしまったのだ。
今となっては当然の事と理解している。
駐在妻の中には、群れと距離をとりつつ現地の生活を楽しむ人々もいる。だが、人生経験が乏しい当時20代の若妻にそれは難しかった。
異国の地で、頼る者もおらず、誰からも異分子扱い。乳飲み児と夫の帰りを待つだけの日々。日常会話程度の英語も満足にできず、現地の人との交流もままならない。
そのとき、理映は遅ればせながらも学習したのだ。
今までは気が合う人とだけ付き合い、好きなことだけしてきたが、家庭を持つとそれだけでは生きていけないということを。
ママ友の中には子どもが同じ小学校に合格し、向こう10年近い年月を共にする面々もいる。駐在帰りということもあり、お受験も彼女たちの協力なくして合格はあり得なかった。
理映は、多少自分を殺しても、周囲に合わせるメリットを取ったのだ。
◆
そんな理映の心のオアシスは、着物で出かけることだった。
豪州滞在時、現地の人に和服について尋ねられてもきちんと答えられなかった恥ずかしさや、日本への恋しさで、自分のアイデンティティーを見つめなおしたことがきっかけだ。
帰国後、すぐに着付けを習い始め、今では時間はかかるが自分で着付けもできるようになってきた。
1ヶ月に1回は辰則に莉子の相手をお願いし、着物でお出かけをする。その日も薄萌葱の鮫小紋にモダンな博多織の帯を合わせ、大相撲初場所観戦へひとり赴いた。
午前中に家を出て、銀座で途中下車し、『銀座 くろ寿』でお寿司のランチ。その後は、しばし散策をする。
和光や歌舞伎座などの古きよき風景の中に、ハイブランドの路面店やGINZA SIX、東急プラザ銀座など最先端のラグジュアリー。そんなワンランク上の街並みを、お気に入りを纏って歩くと自然と心が弾む。
今のところ、手持ちの着物や帯は親戚から譲りうけたものや、リユースショップで集めたものが中心だが、それらは大島紬や西陣など上質な品も多く、引け目を感じない。
着ているだけで背筋が伸び、内面もシャンとする。小さなことで悩んでいる日常から解放され、身も心も上流の人物に変身したような気になるのだ。
着物警察という言葉がある一方、最近は着物の上級者界隈でも「気軽に着てほしい」という考えから、多少のTPOのずれは温かい目で見る風潮がある。
その点の自由さを感じるとともに、着る人の心の豊かさを感じる――。
手間もかかり伝統ゆえの窮屈さがあるのに、不思議なものだ。
心が華やぎながら中央通りを歩いていると、理映は目の前から歩いてくる母子が目に留まった。
それは―
理映が目をとめてしまった母子とは…
白藍の地に、雅な草花文様の訪問着の女性。子どもは制帽をかぶり6つボタンの学ランを着ている。有名私立小学校の制服だ。
女性は自分と同年代に見えるにもかかわらず、気品がにじみ出ている。思わず足を止めうっとりしてしまうほどに。
「かわいい帯留。お星さま柄かしら…」
子どもの校章と合わせているのだろうか。和装歴はまだ浅いが、細かな部分が目に留まる自分を少々誇らしく感じる。
一見落ち着いたフォーマルスタイルに潜む遊び心。さりげなく主張できるのが着物の良さだ。
その時、理映の頭の中に、卒園式に着物で参列する自分の姿がよぎった。
― でも、主役は子どもだもの。おとなしく皆に合わせた方が無難よね…。
銀座に点在する呉服店のショーウィンドーに飾られた絵羽は、理映を誘うように艶やかに飾られている。
理映は気がつくと足を踏み入れていた。
呉服専門店の高級感に気が引けて、訪れたことは実は数えるほどしかない。
しかし、店内の豪華にしつらえた絵羽や、色とりどりの反物に一瞬で気持ちがたかぶった。
中でも、白鼠色に染め上げられ、雪輪文様を浮かべた京友禅の反物に心を奪われてしまう。
「落ち着いた印象ですが、どんな帯にも合わせやすい柄ですよ」
理映の視線の先を捉えた販売員さんが優しく声をかけてきた。頭の中に手持ちの帯の柄との組み合わせが浮かぶ。
この反物で付下げを仕立てれば、卒園式だけでなく入学式、結婚式など様々な場面で使えそうだ。
着る機会が少なく、しかもありきたりなデザインのスーツに貯金を費やすのは心苦しかったが、着物ならば年齢を重ねても長くお付き合いできるはず―。
相撲観戦の時間もあったため、ほどなくして店を後にしたが、その晩、ゆっくり考えても気持ちは変わらなかった。
そして翌日。
理映はママ友ランチの約束を初めて断り、改めて呉服店へ赴いたのだった。
◆
2ヶ月後の卒園式の日―
スーツ姿の辰則と園服の娘の横には、仕立てたばかりの付下げを着た理映の姿があった。
周囲は紺のスーツのママさんたち。
怖気づく気持ちはあったが、和装は自然と調和しており、むしろ式典の格調を高めるアクセントになっていたようだ。
「山咲さん、お着物似合う。私もあつらえようかしら」
「自分で着付けできるなんて憧れちゃう」
ママ友たちは口々に賛美する。その反応にホッとしながらも理映は驚いていた。
気負って無理に合わせずとも、案外受け入れてもらえるものなのだと。
好きな服で晴れの日を迎えられた喜び、娘の卒園の感動…
理映の心は充実感でいっぱいだった。
同じ柄でも、小物で遊び、帯等で格を上げ下げすることができる着物のように、慣例や息苦しさの中でも自分らしさを楽しむ術。
理映は和服からそのことを学んだような気がした。
▶前回：「料理なんてできなくていい」と私を選んでくれた彼。誰もが憧れる御曹司が私を見染めた理由
