親子2代にわたってワークマンの店長を務める一家が長野県にいる。坪根さん一家は、両親と叔父が経営する4つの店舗を息子と3人の娘が加盟店審査を経て受け継いだ。「親の姿を見て後を継ぎたくなった」というほどホワイトな職場の実態とは――。

※本稿は、土屋哲雄『ホワイトフランチャイズ』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

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(左から)三女の田中由珠さん、次女の宮本由季さん、母の坪根玉江さん、長女の佐々本由佳さん - 写真提供=KADOKAWA

■両親、長男、三姉妹全員が店舗をもつ「ワークマン一家」

長野県には「ワークマン一家」と呼びたいファミリーが存在している。もともと両親がワークマンを始めていたが、現在は長男と三姉妹の4人がフランチャイズ加盟店の店長になっているのだ(正確にいえば、三女の店はご主人が店長になっている)。

三姉妹にもあとで登場してもらうが、まずは長男の坪根光伸さん(49歳)に経緯を振り返ってもらった。

「もともと父親はサラリーマンだったのに、突然、店(ワークマン)をやるから、と言いだしたんです。それが僕が中学3年か高校1年の頃でした。本当だったのかはわかりませんが、『これまでこっちで貯金しておいたお前たちのお年玉は資金として回収させてもらうから』と言われたのを覚えています(笑)。高校時代の僕はあまり店を見ておらず、大学からは家を離れてそのまま就職したので、店の記憶はそんなにないんですけどね」

団体職員として働き、自分の家庭を築きながらも坪根さんは、いつかワークマンを継ぐ、という意識をもつようになっていた。

現在のワークマンでは一組の夫婦は1店舗にしか加盟できないが、坪根さんの両親は3店舗を経営していた。当時は十分な人員確保体制を整えることを条件に複数店舗の加盟が認められていたからだ。坪根さんはそれらの店を継ぐようにと言われていたそうだ。

■世襲は認められず、新たなオーナーとして審査

「それである程度、早めに区切りをつけようと思って39歳で仕事を辞めて、戻ってきたんです。そのときにはもう、妹たちは店を手伝うようになっていたので、ワークマンをやるようになったのは僕が最後になったんですけどね。はじめのうち僕は、手が足りない店を回りながらやっていました。そのうち父が入院したことから豊野町の店(現在のワークマンプラス長野アップルライン店)をひとりでやるようになったんです。当時は客数も少なかったので、ゆっくり勉強できてよかったのかな、という気はしています」

坪根さんのなかでは家業を継ぐのに近い意識があったようだ。ただし、ワークマンの店舗は世襲制ではない。オーナーが変わる際にはあらためて審査が行われることになる。

「そういう決まりがあることについては、そういうもんだろうな、と思っていました。仮に僕の息子がやりたいと言ったとしても、やっぱりきちんと審査してもらわないといけないでしょうからね。

うちの父親なんかの世代だと“自分のお店”という意識があったのかもしれませんが、僕には“グループの一員”だと思っているところがあるんです。本部から店を預かってる、というんですかね。預かってるものだから好き放題はやれないし、やらない。結果も出していかなければいけないという思いは親よりは強いんじゃないかという気がします。自分が経営者だという意識はあるんですけど、ワークマンの一員として、きちんとするところはしなければいけないという理解です」

■3店舗のオーナーをどうやって決めたのか?

最初は兄妹の誰も加盟はしないで、それぞれに店を手伝うかたちになっていた。

それでは、誰がどの店のオーナーになるかはどのように決めたのか?

「僕は豊野町の店をやることが多くなっていたわけですが、うちの地元は飯山なので、長男として飯山(ワークマン飯山バイパス店)を継ぐことが決まっているような感じがあったんです。加盟した順番は契約期間の関係であとになりましたが、それで僕は飯山バイパス店の店長になりました。次女はずっと中野(ワークマン信州中野店)に入っていたのでそのまま中野ですね。

長女はもともと飯山の店をやってたんですが、旦那さんの仕事の関係で群馬に行ってたんです。それにもかかわらず、『やっぱりワークマンをやりたい』と言って長野に戻ってきたんですよ。そのあたりのことは本人が話すんでしょうけど、飯山は僕がやるようになっていたので、誰が継ぐかが決まっていない豊野町の店に入ったという流れでした」

■過疎地域でも繁盛店になれる

店舗によって売上げは違うのだから、そのあたりについては問題にならなかったのだろうか?

「3つの店舗のなかでは豊野町の店の売上げがいちばん少なかったんで、兄妹のなかで所得格差が出てくることは危惧してました。その店は長女が継いだわけですけど、その後に台風で店が水没してしまうんですよ……。そのときも、大丈夫かな、と心配したんですが、ワークマンプラスに生まれ変わったことで売上げが倍増したんです。それでとにかく安心できました。

でも実は、僕がやっている店のある飯山市は過疎地域に指定されていて、いちばん売上げは少ないんです(苦笑)。それでも最近は一般のお客さんの来店が増えていて、売上げも2倍くらいになったんですね。“お兄ちゃんも飯山の人たちから頼りにされてるね”というふうに見てもらえたならいいんじゃないかなと思って、やっています」

■「やっぱりワークマンがやりたい」とUターン

三姉妹それぞれの選んだ道も見ていきたい。

長男の光伸さんの場合は家業を継ぐ意識でワークマンを始め、その後に仕事のおもしろさに気づいたという流れだった。三姉妹の場合はそれより早くから“ワークマン愛”のようなものを育んでいたと見ていいかもしれない。両親がワークマンを始めてまもなく家を離れた光伸さんとは違い、ワークマンとともに育った意識が強かったからだ。

三姉妹のなかでもとくに“いろいろあった”のがワークマンプラス長野アップルライン店の店長になった長女の佐々本由佳さん(47歳)だ。

佐々本さんは高校時代から学校帰りに店を手伝うようになっていた。いちどは他の会社に就職したが、退職して本格的に店に入りはじめた。その状態を15年ほど続けたあと、ご主人の転勤についていくかたちで群馬県へ行くことになったのだ。

それなのに……。

「群馬でもいろいろパートはしたんですけど、そのうちやっぱりワークマンがやりたいって気持ちが強くなってきたんです。理由は言葉にしにくいですね。ワークマンをやっていた頃はとにかく充実していて楽しかった。そういう思い出しかなかったんです。それで主人に『長野に帰ってワークマンをやりたい』って相談したら、自分も仕事を変えてついていくと言ってくれたんです」

ご主人の仕事や群馬での生活がありながら、ワークマンがやりたいという理由で地元に戻ってきたというのだから普通は考えにくいケースだ。ご主人が良き理解者だったからこそ可能になったといえるはずだ。

写真=iStock.com/Tanateph
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tanateph

■念願の加盟から2年後「すべてを失った」

群馬に行く前の佐々本さんは飯山バイパス店を手伝っていたが、この店は兄の光伸さんがやるようになっていたので、後継者がまだ決まっていなかった長野アップルライン店に入ることになった。

「このときに私は、当時、父がやっていたアップルライン店に入ったんですが、再契約のときに『私がやりたい!』と言ったら、兄は反対したというか、心配してました。売上げが低かったからなんですけど、それより私としては、とにかくワークマンがやりたかった。それでアップルライン店で加盟したんです。……ただ、その2年後に水害があって、すべてを失ったようになってしまったんですね」

2019年10月13日、台風19号による豪雨被害である。

店は一夜にして1.2メートルの高さまで水に浸かってしまい、1週間ほどは店舗に近づくことさえできなくなった。

このときの話をすると、佐々本さんは涙で言葉に詰まった。

“これからいったいどうなるのか……”不安に押し潰されそうになっていた頃のことを思い出しての涙なのだろう。

本部としては、できる限りの早さで対応はしていた。現場に建設業者を入れて被害状況を確認したあと、ワークマンプラス店に業態を変えてリニューアルオープンすることに決めたのである。水害からわずか2カ月ほどで店を開けられたのだから、多くの人の想いと努力が結集していた。

■SVとの二人三脚で「売上げ2倍」の大復活

「辺り一面、水浸しになってしまい、店を失い、この先どうすればいいのか……。まったくわからず、とにかく不安で仕方なかったんです。ワークマンプラスでやっていくと決まるまでは何度もしつこく『これからどうなるんですか?』という確認の連絡を入れていたくらいでした。はっきりとした答えはすぐには出なかったんですけど、担当のSV(スーパーバイザー)の方が定期的に連絡をくれて、『佐々本さんへ最大限できることをしますから安心して待っててください』って、すごく丁寧にフォローしてくれていたんです。

その後、ワークマンプラスとして再オープンできて、売上げを2倍くらいにできたんですから地獄から天国に行けたようなものでした。バチが当たるんじゃないかって怖いくらいです。ワークマンにはこれからも私を見捨てないでほしい(笑)。ワークマンプラスになって忙しくはなったんですけど、やっぱり売上げは、ないよりあったほうが楽しいですね」

話の中に出てきたSVとは、店舗を巡回しながら、仕入れや商品構成などの販売戦略を細かくアドバイスしていくコンサルタントのような存在である。ひとりのSVが担当するのは8〜10店舗ほどで、通常は2週間に一度くらいのペースで店舗を訪問することになる。ワークマンに限らず、多くのフランチャイズにはこうしたSVが存在している。

■結婚、出産を経た次女は「迷いませんでした」

次女の宮本由季さん(41歳)は、結婚して出産してからワークマンを手伝うようになっていた。

「次の子どもを産むときに休ませてもらったり、子どもをおんぶしながら働いたりとか、いろいろ迷惑をかけながらやってきてたんですが、信州中野店を継ぐかという話になったときには迷いませんでした。いつ頃からか、いずれそうするものだと思うようになっていたからです。

旦那は別の自営業をやっていて、最初は朝だけ手伝ってもらったりしてたんですけど、コロナの感染が広がってきたときに自分の店はやめてワークマンに専念するようになったんです。私自身、ワークマンの仕事は好きです。子どもの面倒をみながら長い時間、店に出ているのはしんどいですけど、疲れたなあってなっているとすぐに仕事ぶりに出ちゃうので、そこは気をつけて働いています」

三女の田中由珠さん(38歳)が正式にワークマン須坂店をやっていくことになったのはごく最近のことだ。2021年5月の加盟である。

須坂店は母親の弟さんが店長になっていた店舗だった。坪根家の親族では4店舗を運営していたことになる。

■「店長は無理!」と夫に相談したら…

田中さんは振り返る。

「叔父さんが辞めるとなったとき、どうするか、という話になったんですね。自分が店長にはなりたくなかったけど、それまでにも手伝っていたワークマンを続けていきたい気持ちは強かったんです。

使ってもらう立場のほうが居心地がいいので、そういう立場におさまりたかったんですね。『店長は無理! やらない』って言い続けていたのに、旦那に相談したことから、結果的には旦那に店長をやってもらうことになりました。それまでは別の仕事をしてたんですけど、この先もずっと続けていくかを悩んでいたところだったんです。そんな旦那がいてくれて助かりました(笑)」

長女の佐々本さんや次女の宮本さんは互いに助け合いながらも売上げなどを比較する“ライバル”という感覚もあるそうだ。だが、三女の田中さんにはまだその意識はない。

「始めたばかりなので自分の店のことでいっぱいいっぱいですから。姉たちをライバルと見るところまでは全然いってないです。これまでずっと姉たちには助けられてばかりだったので、そういうことを思い出すと泣きそうなくらいです」

そう言って田中さんは本当に泣き出してしまった。

店をやっていくと決め、実際に始めていくうえでは、姉たちの支えにそれだけ救われたということなのだろう。脳裏にはいろいろな場面が蘇ってきたのだと想像される。

写真=iStock.com/fcafotodigital
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fcafotodigital

■両親から悪口や愚痴を聞いたことがない

こうしてそれぞれにワークマンをやっていくことになったわけだが、「家業を継いだ」という意識は生まれるものなのだろうか?

佐々本さん(長女)は次のように答えてくれた。

「家業って言われると家業なのかなって。そういう感覚ですね。なにせ、うちの父と母のワークマンへの愛情がすごいんです。30年以上やってきているなかで、父と母からワークマンの悪口や愚痴を聞いたことはなかった。いい部分ばかりを聞かされて洗脳されてきたような気もするほどです(笑)」

宮本さん(次女)も頷く。

「たしかに家業を継いだという気持ちはありますね。家にも店(会社)にもどちらにも愛情はあります。親からは『ワークマンはいいよ。店長になれ、店長になれ』と言われながら育てられてきました。ずっと『やだ、やだ!』って言い続けてきたはずだったのに、いつのまにかこうなっていたという(笑)」

田中さん(三女)が須坂店をやっていくかどうかを悩んでいた時期には、佐々本さんに対して「ワークマンのいいところと悪いところを挙げてみて」と頼んでいたそうだ。

そう言われて佐々本さんは困ってしまっていたのだという。

ワークマンは「本当に家でした」

「“えっ、悪いとこ?”みたいな感じになったんです。何かがあれば妹に愚痴を聞かせていたので、店長をやるのがすごく大変なことのように思わせちゃっていたんでしょうね。でも、いざそう聞かれると、悪いところなんて何も出てこなかった。自分で決めたほうがいいと思ったので、やったほうがいいよとは言わなかったんですけど、結局、やることに決めたわけですからね。兄妹揃って家業を継いだのかといえば、そうなんでしょうし、とにかく両親がワークマンを好きすぎたことに引きずられた気はします」

知らず知らずワークマン愛に染められていたというのがすべてなのかもしれない。

「ちっちゃい頃に遊びに行けるところはワークマンしかなかったしね。それを受け入れてくれた本部の人たちもすごいなって思います」(宮本さん)

「私も一緒の気持ちです。ワークマンは本当に家でした。ワークマンに行けば、ずっと、じじばば(両親)と一緒にいられたから寂しくなかった。父親は寂しい思いをさせたって言い方をするんだけど、そんな記憶はないんです」(田中さん)

光伸さん(長男)にも聞いたことだが、家業を継ぐ意識はあっても、そのためにはまず審査を受けなければならない。そういうルールがあることに関しては疑問をもたず受け入れられたのだろうか?

それについては母親の玉江さんが次のように話してくれた。

■フランチャイズは「自分の店」ではないけれど…

「それは当然ですね。ワークマンという会社がきちんと土台をつくって、やってくださっているからこそ、うちの子どもたちもやっていける。そういうことだと思っているので、それでいいんじゃないですかね。土台をつくってくれている本部に応えるためにも、ちゃんと売上げを立ててねって子どもたちには言ってます」

土屋哲雄『ホワイトフランチャイズ』(KADOKAWA)

家族全員が同じ仕事をやれることになったのだから親としては感慨深いことだろう。

「子どもの人生を親がかまいすぎてはいけないと思いますけど、みんなが継いでくれたのはやっぱり嬉しかったですね。親としては、みんなが一緒にいてくれて、いいことも悪いことも分かち合えるのは悪くない(笑)。

“この子にこの店を継がせたい”というような部分で勝手はできないので、その辺の難しさはありましたけど、それは仕方がないことですからね。私たちは自分のお店だと思って手塩にかけてきたけど、実際には自分の店じゃないのがフランチャイズですから。それでも結局、こういうかたちで子どもたちが継いでくれて、こんなに幸せなことはないと思っています」

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土屋 哲雄(つちや・てつお)
ワークマン専務取締役
1952年生まれ。東京大学経済学部卒。三井物産入社後、海外留学を経て、三井物産デジタル社長に就任。企業内ベンチャーとして電子機器製品を開発し大ヒット。本社経営企画室次長、エレクトロニクス製品開発部長、上海広電三井物貿有限公司総経理、三井情報取締役など30年以上の商社勤務を経て2012年、ワークマンに入社。プロ顧客をターゲットとする作業服専門店に「エクセル経営」を持ち込んで社内改革。一般客向けに企画したアウトドアウェア新業態店「ワークマンプラス(WORKMAN Plus)」が大ヒットし、「マーケター・オブ・ザ・イヤー2019」大賞、会社として「2019年度ポーター賞」を受賞。著書に『ホワイトフランチャイズ』(KADOKAWA)がある。
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ワークマン専務取締役 土屋 哲雄)