田中将大、復帰会見前日の連絡は…超負けず嫌いなシャイ男の正体を恩師、先輩らが証言
8年ぶりに楽天に復帰した田中将大(32)。日本球界での2722日ぶりの登板を白星で飾ることはできなかったが、負けても話題になる男の野球の原点は、兵庫県の少年野球チーム、昆陽里(こやのさと)タイガースにあった。
チームメイトには、のちに巨人の主力へと成長する坂本勇人(32)もいた。山崎三孝理事長が述懐する。
「坂本は天才型で目立ちたがり屋。田中は努力型でクソ真面目。それに几帳面でした。『この枠内に試合の反省を書きなさい』と言うと、田中は丁寧にきっちり書くけど、坂本は雑ではみ出す(笑)。
また、田中が練習時間の10分前には来て、道具を出したり準備をしている間、坂本はサッカーをしている(笑)。
私は坂本を投手として、田中は肩が強かったので捕手として、当時指導しました。2年生のある大会で盗塁を刺したときには、『まだ2年生なのに』と、驚きの声が出たほどでした」
その後、田中は中学生になると、宝塚ボーイズに入団。当時、監督が1年生を集めて「三塁コーチをやれる? できたらレギュラーが近いぞ」と言ったら、田中はすぐに「三塁コーチのやり方を教えてください」と、監督に直訴したという。
それを聞いた山崎理事長は、「将来はいい指導者になる」と、感じたという。
■“アイドル好き”なんて気配は全然なかった
高校は地元の兵庫ではなく、北海道の駒大苫小牧高を選んだ。当時、監督だった香田誉士史氏はこう言う。
「自分でここを選んで道外から入部してきたことに驚きました。彼は打撃もいいし、肩も強かったので捕手をやらせました。
ところが、1年の秋の神宮大会で試しに投げさせてみたら、見ていた人たちが『あの背番号2のコは、投手としてもすごい』って言うんです。
聞くと、本人も『投手をやりたい』と言うので、2年生からは投手一本でやらせました」
その後の駒大苫小牧高での活躍に、説明はいらないだろう。夏の甲子園3連覇をかけて戦った早稲田実業・斎藤佑樹との投げ合いは、敗れたとはいえ伝説の試合となった。
「エース兼主将で、考え方や発言がしっかりしていました。オフのときはぽわ〜んとしているんですが、いざスイッチが入ると闘争心が前面に出てくる。
高校では、ランナーがいるときにマウンドをまかせても、点を取られた記憶がないんです」(香田氏)
そのギャップに驚かされた人物がもう一人いる。駒大苫小牧高でバッテリーを組んだ、1年先輩の小山佳祐氏だ。
「2005年夏の甲子園準決勝、大阪桐蔭戦でのこと。当時1年生だった中田翔に打席から睨まれたとき、田中は『なんや、コラー!』って言っていました(笑)。
ふだんは冷静でおとなしい性格なんですが、マウンド上では別人になる。とにかく負けず嫌いは半端なかったですね。
昔は『びっくりドンキー』に連れていくと、めちゃくちゃ喜んでいたんです(笑)。 今じゃ行かないだろうなあ。
アイドル好きだったか? 当時、そんな気配は全然なかったです。だから、今の奥さんと結婚したときや、プロに入ってから『ももクロ』と絡んでいるのを見て、びっくりしてますよ(笑)」
マウンドで豹変する田中将大(写真・朝日新聞)
■楽天入団当初は無口、無口、無口な男だった
田中はドラフトで4球団競合の末、2007年に楽天入り。当時、監督を務めていた故・野村克也氏の著書を中学生時代に読んでいたこともあり、浅からぬ縁だったのかもしれない。そのノムさんは生前、こんなことを言っていた。
「夏の甲子園決勝の映像を見て、優勝した斎藤と負けた田中のどちらが欲しいか、スカウトから聞かれたんだ。
俺は田中と即答した。体が大きかったし、伸びしろを感じたからな。新人投手はまず速球を見るんだけど、それ以上にスライダーに魅力を感じた」
入団1年め、ノムさんは田中を一軍で投げさせるか、二軍でじっくり育てるかという選択を迫られた。
「悩んだけど、当時の楽天は投手陣も手薄だし、一軍なら自分で直接見られるからね。
ただね、最初は投げれば打たれたし、コーチらは『二軍で育てたほうが……』と、事あるごとに言ってきたよ。
でも、耳を貸さなかった。なぜか打たれても負けがつかないんだ。それで、『マー君、神の子、不思議な子』という言葉が生まれたんだ(笑)」
その後、“不思議な子” の指導をまかされたのが、当時投手コーチだった佐藤義則氏だ。
「彼が入団3年めで、すでにエースだったけど『なんとか一人前にしてくれ』と。野村監督から、『高めは球速が出るけど低めが出ない』って話を聞いてね。
投げる際、膝が割れるから球を長く持てなくて低めが伸びないと話し、キャッチボールからやろうと。それが第一声だったね。
いちばんの思い出は、やはり24連勝だね。能力だけじゃ勝てない。9回まで負けていても、嶋基宏が逆転打を打ったり。やっぱり運を持っていないとできない記録だよ」
田中が入団したときに、チームの主力として活躍していた草野大輔氏と山崎武司氏は、“教育係” を買って出たという。
「最初に言ったのは、『もうちょっとファンに優しく手を振ってやれ』ということ。彼は鳴り物入りで入ってきましたから、いちばん大事なのはそういうまわりへの対応だったりするんですよ」(草野氏)
山崎氏も同様だった。
「どうしても注目される存在だったので、入団当初はマスコミ嫌いなところがありました。18歳でその対応はよくないから、『そこらへんはうまくやれよ』と注意しました。
彼のいいところは、『わかりました』と言ってすぐに変わったところ。根が素直なんです。それにシャイで人見知り。慣れればすごくしゃべるんですけど、本当に最初は無口、無口、無口でしたよ(笑)」
一方で、投げっぷりのよさは2人も認めるところ。
「彼は同じ失敗をせず、次の糧にしていく。だから、彼が投げているとき、野手は『打ってやろう』という気になるんです。実際、僕はよく打ちましたからね(笑)」(山崎氏)
「僕ら野手からすると、長いシーズン中『なんだコイツ、今日は面倒くせえピッチングしやがって!』とか思うときがあるんです。
そうなると、ピンチでも投手に声をかけなかったり、気が緩んでエラーも出る。でも、将大が投げているときは、『絶対に勝たなきゃ』と思えた。それが24連勝のシーズンだったと思いますよ」(草野氏)
■「楽天さんにお世話になることになりました」
その根底には、「田中の負けず嫌いの性格がある」と、草野氏は続ける。
「投げる姿を見ていても、『絶対に負けない』というオーラが前面に出てるんです。将大は究極の負けず嫌いなんですよ。
彼にゴルフをすすめたんですが、最初は120〜130くらい叩いたのかな。悔しがってね。それから、陰でめちゃくちゃ練習したみたいで、しばらくしたら80くらい出して、僕が負けましたよ(笑)。その負けず嫌いが、すべてに通じているんだと思います」
シャイで、究極の負けず嫌いの男だが、「律儀な面も持っている」との声も多く聞かれた。
「日本にいるときは、よく食事に行きました。結婚についてもわざわざ会いに来て、直接報告してくれました。相手が有名な方だったんで、慎重な扱いだったと思うんですよ。
今回も、日本復帰の記者発表をする前日に連絡をくれて、『楽天さんにお世話になることになりました』と。『ええっ!』て感じで、びっくりでしたよ。
でもさすがというか、タイミングから何から、人に愛されるものを持っているなと思いましたね。
日本がコロナから立ち上がろうとしているこの時期に、メジャーでバリバリの将大が楽天に帰ってくるわけですから。そりゃあ、東北の人は目がハートマークになりますよ(笑)」(香田氏)
山崎氏にも、事前に報告があったという。
「最初、ツイッターでわざわざ『帰ってきます』と連絡をくれていたんですが、僕は気づいてなくて。そうしたら、沖縄のキャンプで会ったときに、『僕、ツイッターで知らせていたんですけど!』と言われてね。
『ごめん、ごめん、見てなかったわ』と返しました(笑)。メジャー移籍後も、『おめでとう』とか『調子はどうだ?』とメールを送ると、必ずすぐに返信が来るんです。
今回の帰国後、LINEのIDも交換したんですが、そこでもすぐに返信が返って来ました。彼は日米で成功したスーパースターですけど、そういう律儀な面も持っているんです」
破竹の24連勝、日本一を置き土産にメジャー移籍、そして、東日本大震災から10年というタイミングでの日本球界復帰。超負けず嫌いでシャイな男は、8年ぶりの日本一奪還に向け、マウンド上で豹変する。
写真・朝日新聞
(週刊FLASH 2021年5月11日・18日号)