@AUTOCAR

写真拡大 (全6枚)

はるかに洗練され、操縦性も素晴らしい

text:Mick Walsh(ミック・ウォルシュ)photo:Luc Lacey(リュク・レーシー)translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
アーネスト・ヘンリーが生んだ、スムーズなエンジン。露出したタイヤから巻き上がる土埃。バッロ・チームと、ライバルとの戦いに強く惹かれてしまう。

今回ご紹介するシャシー番号1006のバッロ 3/8 LCは、フランス人レーサー、ジャン・シャサーニュのクルマだったと考えられている。ガソリンタンクが破損するまで、1921年のフランス・グランプリをリードしたドライバーだ。

バッロ 3/8 LC(1921年)

グランプリの翌日、40歳を迎えた彼は、バッロ最年長のドライバーだった。航空機や潜水艦、レーシングカーなど、様々なマシンの操縦経験を有し、エンジニアとしての知識も豊富だった。

シャサーニュがレースを初めたのは1906年。バッロの先進的なデザインと、秀でた性能を高く評価していた。しかしベテランドライバーでさえ、1921年のフランス・グランプリの過酷さは想像できなかっただろう。ラリーステージのようだったはず。

バッロ製レーシングマシンの評価は間違いないが、特に3/8 LCは最高傑作と呼べる1台。「はるかに洗練され、操縦性も素晴らしい。シャシーがどんな状態にあるのか、しっかり伝えてくれます」。と別の3/8 LCオーナー、ウィンガードは話している。

「パワーは漸進的に高まり、軽量化にも配慮されたエンジンは、4000rpmまで軽快に回ります。ステアリングの重み付けは素晴らしく、ダイレクト。でも、トランスミッションはクセモノです」

「正確な操作が求められます。コーンクラッチの扱いも」。ラグナセカ・サーキットのコークスクリュー・コーナーを、バッロで走った経験を持つ人物だ。

激しい追い上げのデューセンバーグ

直列8気筒を設計したヘンリーの大ファンでもある、ウィンガード。ツインカム・ストレート8の祖父について、本も出版するほどだ。「設計者として、ツインカム・エンジンを率先して開発した、ドライバー・エンジニアでした」

筆者がバッロ 3/8を運転し終えると、通り雨が落ちてきた。大きなオークの木の下で、雨宿りをする。ヘンリ・ミュリスの写真をしばし思い描いた。

1921年のフランス・グランプリを走るバッロ 3/8 LC

フランス・グランプリの当日、1921年6月25日は雨で始まった。開始時刻の午前9時には晴れ、13台のマシンが順にスタートを切った。

スタート直後、今回のシャシー番号1006をドライブするジャン・シャサーニュは2位。アルバート・ギヨがドライブするデューセンバーグが3位で続いた。ヘンリー・シーグレーブが駆るタルボが後を追う。

アメリカ人のラルフ・デ・パルマがドライブするバッロは、マティスをドライブするエミール・マティスに並んだ。ところが、優勝を掴むデューセンバーグのジミー・マーフィーは、スタート直後から激しい追い上げを見せた。

2ラップを終える頃には、トップに躍り出る。同じデューセンバーグのジョー・ボイヤーが2位に割り込んだ。

シャサーニュとデ・パルマのバッロも懸命に食い下がった。マーフィーは7分46秒の好タイムで周回。圧倒的な速さを見せたが、リアタイヤの交換でシャサーニュに抜かれる。

フランスのバッロ・チームが選んだのは、ストレート・サイドのピレリ製タイヤだった。ほかのチームがピットストップで時間を奪われる中で、問題なく距離を重ねていった。

一時はフランス人ドライバーがリード

フランス人ドライバー、シャサーニュが一時はレースをリードし、観衆を大いに湧かせた。一方でアメリカ人のデ・パルマがドライブするバッロは、キャブレターの不具合で失速。6位に順位を落とし、5分の差が付けられていた。

レース中盤になると、フランス人の希望は、シャサーニュのバッロに絞られた。19秒から30秒程度の差で、デューセンバーグのボイヤーが激しく追い上げる。

バッロ 3/8 LC(1921年)

ところが18周目、レースをリードしていたバッロからガソリンが漏れ、シャサーニュは失速してしまう。コース全体に、落胆の声が広がっただろう。

荒れた道を高速走行した振動で、燃料タンクのマウントが破損。ドライブシャフトにタンクが落ち、ガソリンが勢いよく流れていた。

同じくして、デューセンバーグのジョー・ボイヤーもエンジン・トラブルでストップ。残り12周となったところで、デューセンバーグのジミー・マーフィーがトップを奪還した。

希望の光を残していたバッロは、デ・パルマの1台のみ。トップを走るデューセンバーグの8分差で周回していた。

アルバート・ギヨのデューセンバーグは、タイヤの不具合でつまづく。タイヤの破片がライディング・メカニックに当たり、ピット・イン。別のスタッフがゴーグルも付けずにマシンに乗り、レースを再開した。

過酷な状況のレースにも関わらず、3分の2の距離を重ねた時点で、まだ10台がコース上に残っていた。ピットは修理やタイヤ交換で混乱し、トラブル続きだった。

フランスでのアメリカ・チームの優勝

フランス・グランプリの後半をリードしていたは、間違いなくアメリカのチーム。マーフィーがドライブするデューセンバーグに、チームメイトのギヨが続いた。バッロは3位だったが、14分以上の差が付いていた。

誰もが諦めかけた残り2周。マーフィーは、タイヤがパンクしピットイン。ラジエターには岩が当たり、冷却液が漏れていた。

バッロ 3/8 LC(1921年)

デューセンバーグは、スペアタイヤを積んでいなかった。コース上でのタイヤ交換は危険で、軽量化にもつながるという判断だった。

デ・パルマは最速タイムで追い上げていたが、時遅し。マーフィーはオーバーヒートしかけるデューセンバーグを、前周から3分も遅いタイムでゴールさせた。

デ・パルマは2位に入るが、15分遅れでのフラッグ。2.0L 4気筒エンジンを搭載したジュール・グーがドライブしたバッロが、3位でフィニッシュしている。

フランス・チームの結果に、観衆は落胆。優勝したアメリカ人のマーフィーは、祝福されなかった。

デ・パルマの見事な走りに、関心を示す人もほとんどいなかった。国歌は演奏されず、話題となったのは3位に入賞した、フランス人のジュール・グーだけだったようだ。

アメリカ・チームの優勝が伝えられる中で、バッロ・チームを率いるアーネスト・バッロはスポーツマンシップに欠けていた。彼はお立ち台に登ると、サーキットの中央広場で叫んだ。

「もう一度、レースをやりましょう。誰が勝者なのか、分かるはずです」。アーネストは観衆へ、さらに30周走る準備ができていると訴えた。

グランプリマシンの土埃を浴びる体験

1921年の9月、3.0Lのバッロは主要レースで遂に勝利を収める。初開催となったイタリア・グランプリだ。ブレシアのロードコースで、フィアット802を抑え、1-2フィニッシュを挙げている。

1922年には、アメリカのインディアナポリス500で3位に入賞するが、3台のグランプリマシンへの注目は薄れていた。バッロは、新しいツインカムレーサーの2LSを生み出したのだった。

バッロ 3/8 LC(1921年)

3台のグランプリマシンは売却。今回のシャシー番号1006のバッロ 3/8 LCは英国へ上陸する。マルコム・キャンベルやジョーン・リッチモンドのもとを転々とした。

英国ではビンテージ・スポーツカー・クラブ(VSCC)が設立し、著名な自動車愛好家たちが大切にバッロも保管してきた。

今回のバッロ 3/8 LCは、現オーナーのシャウフラーが購入するまでの数十年間、ほとんど表に出ることはなかった。今ではリフレッシュされ、公道での走りを楽しんでいる。

シャウフラーの夢は、イタリア・グランプリの100周年イベントで、バッロを披露すること。イタリアのモータースポーツファン、ティフォージの前で、直列8気筒をドライブすることだ。またとない、壮大な瞬間になるだろう。

フランス・グランプリを制したデューセンバーグとの再開は、より記憶に残るものになりそうではある。サルテ・サーキットで開かれる、ル・マン・クラシックならひとしおだ。

筆者にとっては、バッロ 3/8 LCを運転できた体験は、それに並ぶ記憶になった。伝説のマシンが放つ土埃を、直接浴びることができたのだから。