かつての常磐線のスター列車、寝台特急「ゆうづる」(筆者撮影)

今年3月14日、約9年ぶりに全線で運転を再開したJR常磐線。その開業は明治時代にさかのぼる。1889年に現在の水戸線小山―水戸間が開通したのが始まりで、1895年には土浦―友部間、翌年には土浦―田端間が開業し、1898年に田端―岩沼間の全線が完成して常磐炭鉱の石炭輸送が始まった。1905年には日暮里―三河島間が開通し、現在の常磐線となった。

2011年の東日本大震災では、福島第1原子力発電所事故による放射能が常磐線沿線に大きな影響を及ぼした。この3月、最後まで不通が続いていた富岡―浪江間20.8kmの運転が再開され、全線の運転が可能となった。

現在、さいたま市の「鉄道博物館」で、企画展「全線運転再開記念 常磐線展」が9月6日まで開催中である。常磐線の全線再開を記念したこの企画展は、開業以来約130年のあゆみや路線の特徴を、貴重な資料や写真などを通じて紹介しており、写真資料で筆者も協力している。

この機会に、3月に運転を再開した富岡―浪江間を中心に常磐線沿線を訪れることにした。

まさに「無人駅」だった

スタートは特急「ひたち1号」の始発駅、品川駅9番ホーム。品川始発の列車でこれから相馬方面へ向かうという実感が湧かないが、日暮里で分岐すると、ようやく常磐線を走っていると感じる。


2020年3月14日、約9年ぶりに再開した大野駅。駅舎はリニューアルされている(筆者撮影)

いわきで「ひたち1号」から普通列車に乗り換え、いよいよ今年3月に運転再開された富岡―浪江間に向かった。

まず下車したのは大野駅だ。この駅は福島第1原発の約3km東方に位置する。再開に合わせて駅舎などはリニューアルされたが、駅内は監視カメラがあるだけで駅員も乗降客も誰もいない。これを本当の「無人駅」というのだろう。広い駅前ロータリーも整備されたが、広場には誰もおらず、すぐ居住地域があるがバリケードで立ち入りが禁止されている。児童公園には遊具が背丈ほどの草に埋もれていた。

駅の反対側の商店街に向かうと、ここも駅前通り50mほどで立ち入り禁止になる。駅と大熊町役場を結ぶシャトルバスが停車していたので運転手に尋ねると、「この大野地区の被ばく量が最も多く、放射線量は0.3マイクロシーベルト前後の地点が多い」という。駅エレベーター横の線量計は0.349マイクロシーベルトを表示していた。


夜ノ森駅付近の立ち入り禁止区域(筆者撮影)

夜ノ森駅は掘割の中を線路が伸び、つつじが美しい駅だ。筆者はかつてL特急や、夏場の陽が長い時期には寝台特急「ゆうづる」などを撮りに来た思い出がある。今は木造の駅舎は撤去され、新しい駅舎とホームが新設された。

線路の西側は2年前に避難指示が解除されて道路は通行可能だが、東側は桜並木に通じる道路のみが解除され、居住地域はバリケードが張られ立ち入り禁止になっている。1時間ほどの駅滞在だったが人影はなく、通路に掲げられた地元富岡町の小学生による「桜咲け つつじ咲け 夜の森」の垂れ幕が一服の明るい希望を投げかけていた。

新駅は列車のビュースポットに

次いで、今春再開した区間の3駅の1つ、双葉駅を訪れた。駅は旧駅に隣接した新駅として生まれ変わった。新しい双葉駅はガラス張りの明るい駅舎で、改札口の両方向からは駅に進入してくる列車のビュースポットになっている。このあたりの放射線量は0.086マイクロシーベルトだった。

双葉駅周辺は帰還困難区域内の特定復興再生拠点区域で、2022年春ごろをメドに避難指示解除と住民の帰還開始に向けた取り組みが行われ、駅西側では大規模な集合住宅の建設が進んでいる。

双葉駅は、6月に訪れた段階では駅と駅前、町コミュニティセンターのみ立ち入り可能で、観光案内所の役割を果たしていた。担当者は「事故当日の海風によって汚染が進んだが、最も汚染がひどかったのはここより内陸部の浪江町の山間部だった」という。双葉駅を復興のシンボルとしてぜひ駅を訪れてほしいと語っていた。


原ノ町駅の駅弁=2009年(筆者撮影)

次いで原ノ町駅を訪れた。この付近は2009年2月に沿線を取材したことがあり、その時思いがけず原ノ町駅で駅弁の立ち売りに遭遇して感激し、名物の「浜のかにめし」を購入してロングシートの電車内で食べたものだ。この駅弁は駅前の「ロイヤルホテル丸屋」の弁当部が構内販売と立ち売りをしていた。

震災後に駅弁は撤退したと聞いていたので、その消息を求めて「丸屋」を訪れた。ホテルは現在改築中で駅弁店舗も存在していなかったが、駅弁と共に人気のあった駅ソバは駅前のホテルの敷地内の仮店舗で営業中で、懐かしいホームの駅ソバにありつくことができた。

11年前の途中下車の思い出

新地駅は2009年2月の取材時に気まぐれの途中下車をした思い出のある駅で、震災後に訪れるのは今回は初めてだ。


かつての新地駅舎。赤い屋根が目立つ平屋の木造駅舎だった=2009年(筆者撮影)


現在の新地駅。移転して大きく姿を変えた(筆者撮影)

復興した新地駅を目の当たりにして、あまりにも変わった駅と周辺の姿に驚いた。現在の駅は内陸部に移動して土地はかさ上げされ、新線で結ばれている。駅前はホテル、公共施設が建ち震災前の面影は全く感じられなかった。通りかがった地元のお年寄りに聞いても、元の駅舎の位置は特定できないほどの変わりようだった。

11年前、この駅に途中下車した理由は今となっては定かでない。たぶん、赤い屋根の平屋の木造駅舎にひかれて降りたのだったと思う。当時の駅前には民家がポツリポツリ、周りは広大な田園が広がり、駅前の無人タクシー営業所の電話でタクシーを呼び、おばさんの運転手に「付近の見どころを30分で回ってほしい」と言ったことは覚えている。

その時は海岸の漁港まで走ったが、駅と海がこんなに近いとは思わなかった。そしてその2年後、3.11の悲劇。停車中だった列車や駅舎は津波に流され、半崩壊の跨線橋に避難した乗務員は九死に一生を得たのであった。

いろいろ思い出が残る常磐線。まだまた帰宅困難地域が多く残るが、一日も早くかつてのような賑わいを見せてほしいと思うのは私だけではあるまい。