1967年撮影のザ・ビートルズ(Photo by Jeff Hochberg/Getty Images)

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『サージェント・ペパーズ』に収録されたビートルズ屈指の名曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」(A Day in the Life)にまつわる10の秘話を紹介する。

ジョン・レノンは1968年、「『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』、あれはちょっとしたものだった」とローリングストーン誌に語っている。ありきたりで控えめな言い方だった。「気に入っているよ。ポールと僕が作った良い作品だ」。ビートルズの楽曲リストは伝説的な曲で溢れているが、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の最後に収録されたこの大作は、他のどの曲よりも抜きん出ている。ローリングストーン誌は2011年に、この曲をビートルズの最高傑作として公式に選んでいる。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」がスタジオでレコーディングされたのは1967年1月19日だった。ビートルズの最も輝かしいこの作品について、みなさんが知らないであろう10の事実を紹介していこう。

1.  ”車の中で正気を失った”男という重要な一節は、ビートルズの友人の死から着想を得た

この曲のインスピレーションの中核、特にジョン・レノンが歌う”車の中で正気を失った(blew his mind out in a car)”男というオープニングは、1966年12月18日に交通事故で亡くなったタラ・ブラウンの死と関係している。21歳のブラウンはギネス家の跡継ぎで、ビートルズの友人だった。1月17日のデイリー・メール紙には、ブラウンの2人の子供たちとその親権についての記事が掲載されている。それは、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のレコーディングのちょうど2日前だった。曲の着想を得るため定期的に新聞を読んでいたレノンは、新聞購読の習慣をこの有名な歌い出し、”今朝の新聞で、あるニュースが目に止まった(I read the news today, oh, boy)”に取り入れ、英国の悲劇とバディ・ホリーの口癖(oh boy)を組み合わせた。

「タラは正気を失ったんじゃない」とレノン。「だが、ヴァースを書いている時にその言葉が浮かんだんだ。曲中の事故の詳細、信号に気が付かなかったというところと、事故現場に人だかりができたというところはフィクションだ」。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の肝は傍観するような感覚だ。そしてこのオープニングのテーマは、新しい世界をじっと見入ることだった(ポール・マッカートニーの初めてのLSD体験を手伝ったのも、タラ・ブラウンだった)。

2. リバプールでの少年時代を描くことを想定していたコンセプト・アルバムに、最初にレコーディングしたのが『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』だった

レノンとマッカートニーが、それぞれリバプールでの少年時代を振り返っている「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」と「ペニー・レイン」のレコーディングが終了したあと、ビートルズは後に英国で最も有名な港町となるリバプールでの生い立ちを、アルバムで具現化することを検討していた。彼らの気分は少年時代だった。そしてその事実は、マッカートニーが書いた、朝起きて遅刻しながらバスに乗るという「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の中盤でいくらか表現されている(ジョージ・ハリスンはバスの中でレノンとマッカートニーのオーディションを受け、”みだら(Raunchy)”な演奏をした。1964年の『ビートルズ・フォー・セール』リリース後のBBCライヴで、マッカートニーは”バスに乗るのが好きだ”と語っている)。

この曲のタイトルは、最初のレコーディングセッションまでは「イン・ザ・ライフ・オブ」だった。より成熟したものにするため、少年時代をコンセプトにするという案は却下されることになった。「4人のマッシュルームカットの少年たち、というアプローチを、僕らは本当に嫌っていた。僕らは子供じゃなかった。大人だった」とマッカートニー。それでも、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録されている他の多くの曲同様、無邪気な驚きはこの曲の中にも保たれている。

3. 目覚まし時計を”演奏”したのはロードマネージャーのマル・エヴァンズ

「スタジオに入った時、”24小節休もう。小節のカウントは、マルにしてもらおう”と僕が提案した」と、マッカートニーは記憶している。レコーディングが始まり、ビートルズはこの小節を何かで埋めようとは思っていたが、ドラマチックなクレッシェンドにしようとは思っていなかった。マッカートニーは、「(24小節は)単なるある一定の時間で、非常にジョン・ケージ的な無作為の小節数だった」と続けたが、実はそれは偶然ではない。何しろこの曲は「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」だ。24小節、つまり1日の時間数と同じだ。

「マル・エヴァンズに小節をカウントしてもらった」とジョージ・マーティン。「ピアノの横に立って”ワン・ツー・スリー・フォー”とカウントするマルの声は、今もレコードから聞こえる。それから彼は、冗談で24小節の最後に目覚まし時計が鳴るようにセットしたんだ。その音も聞こえる。消せなかったからそのままにしたんだ!」。目覚まし時計のいたずらは、「偶然性のサウンド」の妙技となりマッカートニーの”woke up, got out of bed(起きなくちゃ、ベッドから飛び起きた)”という場面が始まる完璧なきっかけとして使われた。



4. この曲の3つめのヴァースは、ジョン・レノンが俳優として映画出演したことに触れている

前年の9月、レノンはリチャード・レスター監督の『ジョン・レノンの僕の戦争』に出演し(ロケ中に「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の詞を書き始めていた)、「I saw a film today, oh, boy / The English army had just won the war.(今日は映画を見た、英国軍が戦争で勝利を収める話だ)」という一節を書いた。ビートルズにとって欠かせないアシスタントのニール・アスピナルは、撮影の空き時間にレノンの話し相手をするためスペインに同行した。『サージェント・ペパーズ』時代を象徴する、レノンがかけていた有名な老婆のような眼鏡は、この撮影の時に手に入れたものだ。

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5. 曲中の有名な一節は、デイリー・メール紙とレノンの友人のおかげで出来上がった

この曲は、今見ると心地よく筋が通っているが、おそらく当時のビートルズは、日々の出来事を歌ったこの曲が、日刊紙の内容とよどみなくかみ合っていることに気付いていなかっただろう。1月7日、デイリー・メール紙は、ランカシャー州ブラックバーン市の道に空いている穴は埋められるべきだと報じた。「僕らは二人で新聞に目を通し、”ランカシャーのブラックバーンにはどれだけの穴が”のヴァースを書いた。(レノンの)”ラン、カ、シャー”の言い方が好きだったんだ。あれは北の方の発音だ」とマッカートニー。

レノンは次のように語っている。「レコーディングを始めても、一箇所言葉が浮かばないところがあった。予めわかっていたのは、”アルバート・ホールを―(何かする)―ために、どれだけの穴が必要か知っている”という一節になるということだった。全く意味不明のヴァースだけど、どういうわけか動詞が浮かばなかった。穴がアルバート・ホールに何をしたのか? そこでテリー(・ドーラン:レノンの友人で後にビートルズが設立した会社、アップルの代表を務めた)がアルバート・ホールを”埋める(fill)”と言った。それで決まったんだ」。

6. ファーストテイクには、レノンの特徴的で風変わりなカウントインのひとつが収録されている

スタジオでジョン・レノンは、シュールな冗談を飛ばす機会を常にうかがっていた。1965年のシングルのB面曲「イエス・イット・イズ」で、レノンは「ワン・ツー・スリー・ブレッド!」とカウントインし、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のファーストテイクでは、『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』に収録されているように、「シュガープラム・フェアリー、シュガープラム・フェアリー(金平糖の精)」と、チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」の第三曲で合図を送った。この言葉はルイス・キャロルのように謎めいていて、レノンの狙い通りだった。曲のカウントインに砂糖菓子が使われ、さらにそれがバンドの気分を盛り上げたことがあったとしたら、それはこの時だろう。

7. BBCは” Id love to turn you on(君のスイッチを入れたい)”という一節を問題視し、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を放送禁止にした

「当時はティモシー・リアリー(アメリカの心理学者、ヒッピーやドラッグを使う若者の支持を得る)の”Turn on, tune in, drop out”(スイッチを入れ、照準を合わせ、放棄せよ)の時代だった」とマッカートニーは回想する。「それで僕らは” Id love to turn you on.”と書き、ジョンと僕は、”これはドラッグの曲だね。そうだね”と互いに顔を見合わせた。でも、同時に僕らの曲には常に複数の意味が含まれていて、”turn you on”は性的な意味にもなり得る。だから……わかってくれよ」。

しかし、BBCはこの言葉遊びを理解できなかった。「この曲を何度も繰り返し聴いた」と、1967年にBBCの広報担当者が語っている。「この曲は少し行き過ぎていて、ドラッグの使用を許容する態度を促しかねないと我々は判断した」。この曲が禁止された後、レノンはやはり辛辣に批判した。「この曲を禁止した人に会いたい。何が起きているのか、彼に”教えたい(turn him on)”。なぜ、ドラッグを蔓延させている電気局は訴えられない? 電気をつけるときにスイッチを入れる(turn on)必要があるだろう? 全ては解釈次第だ」。



8. 演奏に参加したオーケストラにアイデアを伝えるのは苦労した

”Id love to turn you on”という一節を思い付いた後のことを、マッカートニーは詳しく語っている。「ジョンと僕が顔を見合わせた時、僕らの視線の間に小さな閃光が走った。それは、”Id love to turn you on”のように、僕らがしていたことを互いに認めるやり取りだった。それで僕は、OK、この感覚を表現するために、何か素晴らしいものが必要だと思った」。

マッカートニーが最初に思い付いたのは、90人編成のオーケストラだったが、最終的には40人編成になった。2月10日、ワーグナーの世界の終わりのようなグリッサンド奏法でレコーディングが行われた。オーケストラ奏者に仮装用のコスチュームの小物が(それからプラスチックの乳首も)配られるとムードが和らいだ。ブライアン・ジョーンズ、キース・リチャーズ、ドノヴァン、ミック・ジャガー、マリアンヌ・フェイスフルなどもレコーディングに参加した。

しかしジョージ・マーティンは、集合したオーケストラメンバーに手を焼いていた。「よく訓練されたオーケストラは、リーダーに従って画一的で理想的な演奏をする。だが、それは僕が一番してほしくない演奏だと彼らに強調して伝えた」とマーティン。マーティンとマッカートニーは、奏者それぞれができるだけ静かに演奏を開始し、隣の奏者の音に耳を傾けることなく、音楽的なオーガズムに達するように演奏を終わらせてほしかった。「オーケストラ側は、もちろんくだらない冗談、金の無駄遣いだと思っていた」。

9. この曲のレコーディングはほとんど夜間のみに限られた

「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」で、ビートルズはアビー・ロード・スタジオの夜の住人として定着した。スタジオのレンタル料は高額だったが、ビートルズの連続使用時間は群を抜いており、収録にどれだけ時間がかかっても、ほとんどいつも希望する時間を選ぶことができた。1月19日は午後7時半に第2スタジオに集合し、午前2時半まで作業に取り組み、翌日も真夜中過ぎまでレコーディングは続いた。そしてこのパターンは、アルバムのレコーディングが全て終わるまで続いた。レノンが正午前に起床することはほとんどなかったので、アビーロードのスタッフは調整を強いられた。『プリーズ・プリーズ・ミー』の全体の収録時間が585分だったのに対し、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」には34時間かかった。手が込んでいたのはレノンのヴォーカルで、何テイクもかかった。その理由の一つについて、エンジニアのジェフ・エメリックはこう語っている。「ジョンは歌うときに、ヘッドフォンからエコーを聞いていたんだ。エコーは後から足したんじゃない。自分の声のエコーでジョンはリズムをとっていた」。

10. 曲の最終コードは3人がかりだった

ビートルズは象徴的なコード作りの達人だ。「ハード・デイズ・ナイト」のオープニングでもそれは顕著だが、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の最後のコードに並ぶものはないだろう。そのレコーディングが行われたのは、2月22日の多重録音の特別セッションだった。このカノンのレコーディングが、マル・エヴァンズにとって2度目のビートルズ曲への参加となった。マルとジョン、リンゴ・スターは3台のピアノの前に腰かけ、同時にEのメジャー・コードを叩いた。ぴったり同じ瞬間に鍵盤を叩くのは難しく、成功したのは9テイク目だった。最後が一番うまく合った。それを3回オーバー・ダビングし、9台のピアノを12人で演奏したような効果を出した。エンジニアのジェフ・エメリックが音量調節器を上げ続けたので、レコードからはスタジオの暖房音も聞こえる。今では伝説となったこの曲にふさわしく、その音には終わりがないような持続性があり、途切れることなくいつまでも、いつまでも続いている。

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