「僕はきっと『トゥーリオ』のままだった」 闘莉王の人生を変えたプロ3年目の選択
連載「選択―英雄たちの1/2」、水戸移籍直後に「ブラジル帰国」を考えた出来事
アスリートのキャリアは選択の連続だ。トップ選手が人生を変えた“2分の1の決断”の裏側に迫る「THE ANSWER」の連載「選択――英雄たちの1/2」。次世代の中高生が進路選択する上のヒントを探る。第5回は元サッカー日本代表DF田中マルクス闘莉王氏。浦和、名古屋、京都など5クラブで活躍し、五輪、ワールドカップ(W杯)にも出場した38歳は、プロ3年目にある選択を迫られた。
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昨年、スパイクを脱ぐまで、19年に渡り、現役生活を駆け抜けた闘莉王。日系ブラジル人を父に持つ少年は、渋谷教育学園幕張高(千葉)入学と同時に来日した。以降、Jリーグデビューを経て、04年アテネ五輪出場、10年南アフリカW杯出場、輝かしいキャリアを描く選手となったが、「人生を変えた1/2」はいつ、どのタイミングで訪れたのか。意外にもプロ3年目の出来事を挙げた。
「J2の水戸に移籍した時。正直、その環境に衝撃を受けた。入った寮は布団もなく、食事も自分で用意する。厳しい環境だった。ちょうど、オフ明けでブラジルから帰ってきた直後ということもあって『もう、日本ではできない。ブラジルに帰る』と父に連絡したくらい。もし、あのまま本当に帰っていたら日本に帰化もしてないし、僕はきっとカタカナの『トゥーリオ』のままだった」
01年に高卒で広島に入団した闘莉王。185センチの強靭なフィジカルを生かし、1年目はリーグ戦で17試合、2年目は22試合と出場機会を増やした。しかし、オフに転機があった。外国人枠の関係で退団せざるを得なくなった。3年契約があと1年残っていたこともあり、「日本でまだやり残したことがある」と決意。広島のフロントに「どこでもいいから日本でプレーしたい」と訴えた。
「ただ、当時の水戸の環境は広島と違い過ぎた。正直、プロとアマチュアくらい。高校でもっと整っていた学校もあると思う。公園で人にどいてもらってコーンを置いて練習したり、とんでもなく遠いただの芝生があるだけの場所で練習したり。シャワーを浴びる場所もなく、食事も自分で手配しないといけないからコンビニ弁当ばかり。今の水戸はもちろん、そんなことないけどね」
当時の選手寮で与えられた一室にはカーテンも、冷暖房もなかった。常夏のブラジルで育った闘莉王の弱点は「とにかく寒さ」。ただでさえ過酷な環境に加え、知り合いもいない。車もないので、移動も一人でできない。21歳の心は、ぽっきりと折れた。父に電話したのは入寮2日目のことだった。「この状態だったら帰る。こんなの大変だよ、寒いし。なんも整ってないよ」と訴えた。
しかし、父から帰ってきたのは一言、「ダメだ。あと2週間だけ、我慢しろ」。理由は聞かされなかった。「『なんで?』って思ったけど、全然喋ってくれなかった。『簡単に帰ってくるな』ということだったと思う。何事もあまりそんなに詳しく言う人じゃないけど、『とりあえず2週間だけ我慢しろ。そのあとだったら帰ってきていいよ』と言われたのが印象的だった」と振り返る。
「だから、日本に残る決断ができた」―闘莉王の人生を変えた「2週間の我慢」
ただ、この「2週間の我慢」が結果的に闘莉王の人生を変えることになる。気持ちは後ろを向いていたが、3日目も4日目もグラウンドに足を進めた。すると、自然と親身になってサポートしてくれる人が現れた。移動をサポートしてくれるチームメートだったり、食事の世話をしてくれるクラブ関係者だったり。「彼らがいなければ、2週間でブラジルに帰っていたかもしれない」という。
「素晴らしい人たちに出会えて、友達となり、この人たちがいれば厳しい環境でもやっていけると思えたし、この人たちのためにやらなければいけない、と。今でもすごく大事にしている人たちです。そうして試合が始まれば、厳しい環境は変わらなくても、サッカーに向き合うことができた。ここまで来たら、失うものはない。だから、日本に残るという決断をすることができた」
水戸で闘莉王の才能が開花した。DFながら積極的に攻め上がる攻撃的CBの地位を確立し、このシーズンはJ2で10得点を記録。翌年、強豪・浦和に移籍し、スターダムにのし上がった。「あの時代がなければ、日本人になることはなかった」と振り返る。
「日本人になりたい、代表に入りたいという夢があったにも関わらず、その水戸の環境に驚きすぎて、帰ろうとするくらいの気持ちになった。でも、ああいう経験をさせてくれたからここまでこられたと思うし、帰っていれば、自分の小ささに負けていたかもしれない。ああいうところで踏ん張り、いろんな仲間に出会えたこと。本当に自分を変えてくれたのが、水戸の出来事だった」
闘莉王の人生を分けた「1/2」。日本残留か、ブラジル帰国か2つに1つで前者を取り、道を切り開いた。しかし、中高生世代も進路を選択する上で迷わずにできる決断の方が少ない。自身はキャリアにおいて、どんな軸をもって選択してきたのか。
「迷った時は人に相談する。特に両親。常に両親とはコミュニケーションを取ることは今も大切にしている。なぜって、自分の成功を一番願っているのは両親だから。ただ、決断するのは最後は自分。迷っても必ず自分で決断し、自分の心を信じて突っ走ることは今まで心掛けてきたこと。みんなの意見は違ったとしても最後は自分の信念。ミスしたら、自分を責めればいいだけだから」
ただ、日本は変化を恐れる文化が根強い。失敗を恐れて挑戦できず、自分を主張できなかったり、周りに流されたりすることもある。そんな国民性について理解しながら「後々後悔することだと思う」と言い、“闘莉王節”で子供たちにゲキを送る。
「自分がやりたい『これだ』と思うところに行かないと。自分のプレースタイルもそう。最初は守るだけのDFから、攻めに出ていくDFになった。あの時、みんなの意見ばかり聞いていたら、攻撃的なプレーは出せなかったかもしれない。でも、みんなの意見が自分と違ったとしても結果で証明すればいいだけの話。その一歩目を踏み出せた勇気が、自分のスタイルを確立させてくれた。
人生もそうだったと思う。(中学卒業後に)日本に来る時も、お母さんは『反対』、お父さんは『行ってこい』。結局、どっちの意見を聞いても『50:50』だった時、最後の最後に求められるのが、自分の決断力。勇気をもってやるだけだと思うし、失敗してももう一回やり直せばいいだけ。子供たちにとっては少し難しい話かもしれないけど、自分の心を信じることがベストだと思う」
闘莉王が伝えたい家族の大切さ「年を取る前に『ありがとう』と言える仲になって」
自分の心を信じる。言うは易しだが、やるのは難しい。「そこはリスクがあるからね」と闘莉王も言う。一方で「失敗したら、全責任を負わなければならないこともあるけど、自分が失敗した分くらいは取り返せると思う。失敗を恐れないで、正しい道を進んでいく上で、自分のやりたいことを中心に考えないと、人生は1回だけなので後悔する」と言い、自身の体験からも訴える。
「こういう変わったプレーヤーになったのも自分の心を信じてきたから。多少は戦術として『お前はこれはやっちゃいけないよ』と言われる中で『結果で示せれば、この人も納得してくれるんだな』と思ったところもある。それはサッカーに限らず、どこを目指したいかという強い意志を持ってほしい。自分はサッカーでも引退したら、仕事もしたくないっていう目標を持っていた。
そのためにサッカーで稼いだお金については無駄にせずにちゃんと貯めてきたというのもある。周りがいい車を買ったり、いろいろなことをした中で、自分は我慢してきたと思う。あまり周りに流されないのかな。そういうのが38年間、変わってないと思うし、これからも変わらないだろうし。失敗はたくさんすると思うけど、それも恐れてない。それが生きがいと思っているので」
話を聞いていて思うのは、家族との関係性の深さだ。実際、38歳となって日本にいる間も毎日のように電話し、コミュニケーションを図っていたという。しかし、日々、部活やスポーツに励んでいる青少年は「いるのが当たり前」の存在の親から食事に送り迎え、経済面も含め、サポートしてもらっているというありがたみを感じられる機会は少ない。だからこそ、闘莉王は思う。
「自分は離れているからこそ、すごく両親の大切さはわかるし、近くにいないことの辛さも実感した。もしかしたら、みんなずっと近くに両親がいるから慣れてしまって、その大切さや自分に対する愛を感じないのかな。これだけ、離れていたからこそ、深い関係になれたのかなと。常に相談し、話し合える。でも、そのありがたみを理解するだけで、選手としても全然違ってくる。
最初は反抗期もあるだろうけど、年を取るほど両親の大切さ、愛の深さは感じるもの。自分はお父さんがとても厳しかったので、それがどれだけ自分にとって大切で、どれだけ強くさせてくれたかはすごく感じる。近くにいたら難しいかもしれないけど、どれだけ愛をくれているか感じることは本当に大切。できれば、年を取る前に『ありがとう』と言える仲になってほしいなと思う」
自身のキャリアを振り返り、熱く語ってくれた闘莉王。日本のスポーツ界では、地区大会の1勝を目指す子供もいれば、W杯出場を夢見る逸材も数多くいる。最後に、そんな後輩たちにこれから進路選択していく上で、伝えたいメッセージをお願いした。
「やっぱり、どこに行きたいかというきちんとした目標を持つことじゃないかな。そこまで辿り着くにはいろんな困難があるし、いろんな問題が起きる。時にはスピードを落としてゆっくりしなきゃいけない時期もあれば、逆にもっとスピードを上げて物事を進ませなければいけない時期もある。そんな中で、自分がどこに行きたいかということだけは常に持たないといけないと思う」
闘莉王の「どこに行きたいか」は言い換えれば、自分が目指すべきゴール。目の前でどんなことが起きても、その先にあるものをずっと見続けられれば、道は開ける――。15歳で日本にやって来て、人生を変えたブラジル生まれの侍は、そう信じている。
(文中敬称略)
田中マルクス闘莉王 1981年4月24日、ブラジル・サンパウロ州生まれ。1998年に渋谷教育学園幕張高に留学するために来日。2001年にJ1広島でプロデビュー。浦和、名古屋でチーム初のリーグ優勝に貢献し、06年にJリーグMVPに輝く。03年に日本国籍を取得し、04年アテネ五輪に出場。10年W杯南アフリカ大会では日本代表の16強進出に貢献。2019年シーズンを最後に現役引退。Jリーグ通算529試合104得点。DF登録選手の100得点はリーグ史上初。代表通算43試合8得点。現在、ブラジルで起業家として活躍中。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)