【ミニの工場 行ってみた】ミニ生産は突然の決定 大きな困難 さらなる挑戦へ
突然の決定
せっかくオーダーした多機能な大型キッチンの取付工事が始まったあと、そのピカピカのキッチンや白物家電と一緒にまったくレイアウトの異なる家に引っ越すことになったとしたらどう思うだろう?
19年前、その何百倍も面倒なタスクに直面したのが、オックスフォードのカウリーにあるBMWが運営するミニの生産工場で、設備を担当していたチームのメンバーたちだ。
異なるルーフとボディ色に対応するため、塗装ラインを2回通過させる必要があった。「いまも生産のボトルネックとなっています」と、フィッシャーは話す。1990年代後半にローバーとBMWによって開発されたニュー・ミニは、当初バーミンガムにあるロングブリッジ工場で生産されるはずだったのであり、ここはオリジナル・ミニの41年に渡る現役期間中、その生産のほとんどを担当していた。
だが、当時のゴードン・ブラウン首相がロングブリッジ工場の近代化を計画していたBMWに対して、比較的小規模な補助金の支出を拒否したためにすべてが変わったのだ。この決定はすでにこの「英国の患者」に辟易していたBMWの経営陣にとっての決定打となった。
2000年3月、BMWはローバーを処分してミニは手元に残す一方、ランドローバーはフォードに売却することを発表している。
ロングブリッジ工場が、額面10ポンドでローバーを買収したフェニックス・コンソーシアムに譲渡されたことで、最後までMG Fとローバー25、45、75を生産していたカウリー工場が、突如としてニュー・ミニの生産工場に選ばれている。
カウリー工場のスタッフたちもこの決定を直ぐに知らされたわけではなかった。
立上げ期間 わずか9カ月
「ローバーが売却されると聞いてから、ミニの生産がカウリー工場で行われると知らされるまでに1時間ほどの間がありました」と、当時75向けの部品調達を担当していたアンディ・ブルックは話す。彼はいまでは資材調達計画の責任者を務めている。
この突然の決定への対応に奔走したスタッフの多くがいまもこの工場に残っている。
当時のチームメンバーたちが「難題」を思い返す。見習工として1965年にオースチンに入社したミック・フィッシャーは冗談めかしてその時の様子を、「75を追い出して、ミニを押し込んだんです」と話してくれたが、想像を絶する大変な作業だったに違いない。
「問題だったのは、ロングブリッジ向けに設計されていたすべての設備を、はるかに小さな工場建屋に設置しなければならないということでした」と彼は言う。
「フロントウインドウの取付け装置と完成車のテスト装置は、すべてまったく大きさの異なる小さな建屋に押し込まれることになりました」
ミニでは車体下側から取り付けなければならないパーツの作業方法も変更されている。「ミニ用にロータリースリングが用意されていました」とフィッシャーは言う。
ローバー75では工場の床に掘られたピットからパーツの取付けを行っていたものの、この装置によってミニのボディを90度回転させることで、より簡単に作業を行うことが出来るようになっている。
「設備のチェックは入念に行いたいと思っていました」と、フィッシャーは話している。
「ですが、設備が完成していない状態のときに1台目の車両を生産する必要がありました。通常まったく新しいモデル向けのラインを立ち上げるには3年は掛かります。ところがわれわれには9カ月しかありませんでした」
記念すべき1台 いまやフォルクスワーゲンのトップ
「生産開始前のホワイトボディを使った試運転は、ふつう3〜4回行うところわずか1回だけです。最初のミニは人手で運んでいましたが、まだボディ搬送用のコンベアが稼働していなかったからです」と、彼は教えてくれた。
それでも、2000年12月にラインオフしたこの最初の車両の「ボンネットの上にはバラの花束が置かれていました」と、フィッシャーは話している。
ミニ・カウリー工場訪問ロングブリッジ工場でも何台かの試作車両が生産されていたため、厳密に言えばR50世代のミニの初生産車両というわけではなかったが、それでもこの車両が記念すべき1台であることに変わりはない。
工場は明らかに活気づいていた。「BMWから多くのスタッフが派遣されていました。4つのチームに分かれていましたが、ミニを担当するチームは多忙を極めていました」と、シニアITスペシャリストを務めるジェイソン・フィールドは言う。
「カウリーはBMWのレーゲンスブルク工場をお手本にしていたので、月曜日から金曜日までドイツでトレーニングを受けるため、チャーター便まで用意されていました」
このプロジェクトの責任者だった人物はいまやフォルクスワーゲン・グループのトップを務めている。
「ヘルベルト・ディースはまさに再生請負人でした」とフィッシャーは言う。「彼はスタッフには優しかったですが、一緒に仕事をするのは大変でした」と教えてくれたが、「睡眠や食事は意気地なしの証明であり、みんな疲れ知らずでした」と冗談めかして話している。
単なる杞憂 複雑なラインの理由
それでも、こうした努力は報われたのだ。いまだかつて大ヒットモデルの生産を担当したことのなかったカウリー工場のスタッフにとって、喧噪で満たされたラインというのは初めて経験するものだった。
「メディア向けのイベントが終わった後、大量の車両が工場に残されていました」と、現在材料調達の責任者を務めるドム・ノーランは話す。「その週末、街へ繰り出すと、多くの人だかりに囲まれることになったんです」
ミニ・カウリー工場訪問それでも、まだ信じきれないものもいたようだ。
「ローバー75では、本当に素晴らしいモデルを生産することが出来たと思っていたのに、まったく売れませんでした。こうしたことが再び起こるのではないかと思ったのです」とブルックは言う。
だが、それは単なる杞憂だった。「オーダーが入るにつれ、シフトの数が増えていきました」と、かつてローバーで働き、いまではEVミニの生産準備を担当するジョン・コーワンは話す。「週末にも生産が行われるようになり、週7日のシフトが必要でした」
車両生産に加え、「設備を安定稼働させる必要もありました」とフィッシャーは話している。
「カウリー工場向けに設計された設備ではなかったので、ほとんどが寄せ集めのような状態だったことが問題の本質でした。何とか工場の建物にラインを押し込むしかありませんでした」と、彼は複雑にレイアウトされたラインが生まれた理由を説明してくれた。
ホーム・オブ・ミニ
「計画どおり4月に生産を始めることは出来ましたが、まだ100%の状態ではありませんでした」とフィッシャーは言う。
ニュー・ミニの一般向け発売は2001年7月7日とされていたのであり、「この日には絶対に間に合わせる必要がありました」とコーワンは言う。
ミニ・エレクトリック増え続けるオーダーにもかかわらず、ブルックは「2年が経っても工場閉鎖の噂は残っていました」と言う。「ですが、生産が増えるにつれ、こうした心配もいつの間にかなくなっていったのです」
「2001年当時の生産台数は5万台に達していませんでした」とフィッシャーは話す。「ですが、2005年には20万台を越えていたのです」
1年後、フィッシャーたちは、かつてローバーの工場だったこの建物のなかで何とか生産ラインを増設する方法を見つけ出すことに成功している。
「非常にイノベーティブなやり方でした」と、彼は大量に屋根のスペースまで活用したその方法について話している。
まさにエンジンとギアボックスを2階建てにしたオリジナル・ミニを彷彿とさせるこの独創的な方法は、BMWが「ホーム・オブ・ミニ」と呼ぶこの工場だからこそ実現出来たものであり、カウリー工場の次の使命は、ミニ・エレクトリックの生産開始と英国のEU離脱という荒波を乗り越えることにある。
番外編:変わらぬ魅力
初代R50世代のニュー・ミニが登場したのは18年も前のことだが、いまも数多くの車両を目にすることができる。
その理由はこのクルマが大ヒットしたからであり、非常に優れた品質で組み立てられていたからだ。そしていまだに魅力的でもある。
ミニ・カウリー工場訪問いまこのモデルを改めて見てみると、現行のロングノーズが特徴のミニ・ハッチバックでは失われてしまった完ぺきなプロポーションと、若々しいインテリアに目を奪われるに違いない。
そして、発売当時には批判されたそのボディサイズさえ、いまや非常にコンパクトに感じられる。
走らせても間違いなくミニであり、フラットなコーナリング姿勢とクイックなステアリング、そして活気あふれるエンジンの組み合わせは、いまでも驚くべきドライビングの楽しみを味わわせてくれる。
コレクターたちがこの個体のような、ごく初期のモデルを集めているというのも当然だろう。
