教科書に書かれたマーケティングの知識は、実際に役に立つのだろうか。アニメ「けいおん!」が好きだった女子高生たちは、マーケティングを学ぶことで、「夏フェス」を開催するまでになった。「バンドやろうよ」というひとことから始まった小さなイベントの大きな奇跡を、神戸大学の栗木契教授が報告する--。
来場者たちはライブを本当に楽しんだ。

■温故知新--古びた理論が危機を救う

2019年夏。私は、神戸大学MBAでの授業の後に、社会人学生の水野知子さんから話しかけられた。お礼を言われたのだ。娘である蒼さんの高校生バンドに、私のマーケティングの授業が役立ったという。

「そんなことも、あったりするのだな」と聞き流しかけたが、何かが引っかかった。

その後、若干の確認をメールで行った上で私は、蒼さんにインタビューを申し込み、関係しそうな文献の読み込みを進めることにした。

こうして出会ったのが以下のストーリーである。

そのストーリーが意味するところは、温故知新である。すでに定番となり、古びた感すらあるマーケティングの理論が力を発揮したからだ。

物語のメインテーマであるマネジリアル・マーケティングは、50年以上前に米国で定式化され、現在でも世界中の企業活動に広く用いられている。役には立つのだが、新鮮味は乏しい、教科書的な知識と思われがちだ。

しかし、蒼さんは、この業務管理型のオペレーションのツールと見なされがちなフレームワークを、創発型のオペレーションに用いていた。ティール組織などの組織運営の新しい発想にもつながる動きが、至近距離の未来をたぐり寄せようとする、高校生たちによって生じていた。

■夏のライブという夢

「ねえ、バンドやろうよ」。すべてはこの言葉から始まった。関西学院千里国際中等部・高等部という中高一貫校の仲良し女子5人組が、高1のある昼休みのおしゃべりで、盛り上がってしまったのだ。

「じゃあ、ギターは愛」「真由夏がキーボード」「ドラムは未来」「珠緒はベースね」。この5人組のなかで蒼は、マネジャー役を引き受けた。

全員がそろっての練習は週1回。その間は各人が家で練習する。軽音楽部に所属し、学園祭で演奏したりしていた。

高校2年生になって、そんなバンドに新しい夢が生まれた。夏休みにライブハウスを借り切って、自分たちで主催して、ライブイベントを開く。こんなアイデアを愛が4月に言い出したのだ。

ライブハウスは、8月に予約がとれた。参加してくれる学内のバンドなども6組集まった。夏フェスの運営は、蒼たちのバンドが担当するという約束のもと、高校生たちのプロジェクトが始まった。

■5月病? プロジェクトの前進が止まる

こうして4月が終わった。

ところが5月に入り、具体的なことを決めていく段階になって、なぜかバンドのメンバーたちの話し合いが空転し始め、前に進まなくなった。

チケット料金、オリジナルグッズ……皆が自分の思いを述べ合うだけで、意見は収束しない。何も決まらないなかで、ライブの期日は刻々と迫ってくる。

5人のあいだの空気は冷え込み、「バンドから抜けたい」と言い出すメンバーまで現れた。ここに至って彼女たちはバンドの運営のやり方を変えた。

やはり、リーダーが必要だ。

それまでは、皆が言いたいことを言い合って、全員一致で前に進むというやり方だった。しかし、このやり方を続けていては、8月のライブイベントに間に合わせることは無理だと気づいた。運営のリーダーを決めることになった。

話し合いのすえ、蒼がこのリーダー役を引き受けることになった。

蒼は重たい気分で家路についた。一縷(いちる)の望みは母親の知子だった。

■ライブの帰趨を決めた1枚のメモ

蒼の母水野知子は、会社で会計関係の仕事をしながら、夜間と土曜日の時間を活用して神戸大学MBAに通学していた。だから何かよい助言がもらえるかもしれないと思ったのだ。蒼の悩みは、高校生バンドの夏のライブの運営をめぐる問題だった。

知子はリビングルームで、試験勉強中だった。神戸大学MBAではコア科目の最終回に試験が行われる。全員合格とはならない厳しい関門である。表面的な暗記では太刀打ちできない、実践的な理論の活用力が問われる試験だと、MBA生たちの間では噂(うわさ)されていた。

知子はこの試験を前に、マーケティングの要点をメモにまとめ、頭の整理をしていた。蒼はそのパソコンを横からのぞき込んだ。

「あれっ」。蒼はこれが何か使えるような気がした。

「これ、もらえない?」

母のメモをプリントアウトしてもらった。

■どうなったら成功かこそが目標

プリントアウトされたメモの冒頭には「マネジリアル・マーケティングの作業フロー」と書かれていた。企業が新商品や新サービスを導入したり、開始したりしようとする際の企画の基本手順だという。

「この手順で夏フェスの企画を進めればいいのか」

蒼はその先を読み進めた。

「目標」という文字が目に飛び込んできた。

「夏フェスをやりたい、と思っているんだけど、それではダメなの」

「夏フェスが、どうなったら成功といえるかを考えてみて。それが目標」と、知子が助言した。

すぐに考えがまとまったわけではない。でもメモに沿って思いを巡らすことで、何か少し気持ちが落ち着いた。

「あっ、もう遅い。寝ないと」

■目標、ターゲット、コンセプトを明確にする

蒼は、このメモをもとに、翌日からバンドのメンバーと話し合いを重ねた。

夏フェスは、出演者だけのものではない。聴きに来てくれる皆のためのイベントにしたい。

そうだとすると目標をどこに置くのか、

さらに知子のメモには、その次に決めないといけないこととしてターゲットとコンセプトが挙げられていた。

マーケティングの手法を取り入れてから話し合いもスムーズに進むようになった

夏フェスに当てはめれば、来てもらおうとしているメインの来場者は誰か。これがターゲットである。そして、この来場者にどのような体験を提供しようとしているか。これがコンセプトである。このターゲットとコンセプトを決めずにマーケティングの具体論に入ると、決まることも決まらなかったり、プロジェクトの統一性が失われてしまったりしやすいのだという。

「夏フェスのターゲットは高校生。そうするとコンセプトは……」

皆でようやくたどり着いたのが、以下の目標とコンセプトとターゲットである。

【夏フェスのマーケティング企画】
目標:
1.来場者に自発的に「楽しかった」と言ってもらうこと
2.出演者が達成感を感じること
コンセプト:
出演者側で完結した夏フェスをお客さんに観てもらうのではなく、本番の時来場者と一緒に音楽を通して夏を盛り上げて青春を感じる
ターゲット:
高校生

マーケティング・ミックスの段階に進む

この話し合いは、意外なほどスムーズに進んだ。メンバーたちは、運営の細かな具体論で行き詰まり、当初の高揚感を失っていた。夏フェスの目標を検討することは、久しぶりの楽しげな時間だったのだ。皆がひとつのイメージを共有できたことで、行き詰まっていたプロジェクトが再び動き出した。

マーケティング・ミックス」という概念を知ったこともよかった。このフレームワークを知ったことで、蒼たちは夏フェスをやり遂げるのに必要な活動を、バランスよく計画できるようになった。

知子のメモには、目標とターゲットとコンセプトの次は、マーケティング・ミックスを決めると書かれていた。マーケティングでは、目標、ターゲット、コンセプトを定めると、その実現にはどのような活動の組み合わせが必要となるかを検討する。この活動の組み合わせのことを、マーケティング・ミックスといい、通常は製品、価格、流通、プロモーションの4つの要素の組み合わせとして考える。

マーケティング・ミックスでいうところの製品とは、企業が対価を受け取って顧客に提供するモノやサービスを指す。夏フェスの場合は、それは当日のライブイベントとなる。この準備については、会場や出演者はすでに確保できていた。

しかし当日のプログラムなど、優先して決めないといけない問題はまだ残っていた。コンセプトに沿ったプログラムを、他の出演バンドなどとも相談しながらつくらないといけない。

販売グッズの問題もあったが、これは後回しにしてもよさそうだ。

価格についてはチケットの基本料金をいくらにするかだけではなく、友達同士での連れ立っての来場をうながす、割安のセット料金なども検討したいと思った。コンセプトの「来場者と一緒に夏を盛り上げる」を実現するには、仲のいい友達と一緒に来てもらうのがよい。

そして、このチケットをどのように流通させるかも決めなければならない。販売方法やお金の管理方法も考えないといけないのだ。

さらにプロモーションも忘れてはならない。会場はいっぱいにしたい。そのためにもライブの2カ月くらい前にはプロモーションを開始したい。だがそもそも、プログラムや料金やチケットの販売方法が決まっていないと、ポスターひとつ作れないではないか。

■スケジュールに落とし込む

この時点で、夏フェスの開催までに残された時間は2カ月半ほどだった。蒼は、絶対にやらないといけないこと、その次に重要となりそうなことを、優先順位を考えながら書き出してみた。そしてそれらの活動を、どの時点までに完了しておかないと、運営が回らなくなるかを考えた。

マーケティング・ミックスの展開は、順序立てて行わないといけないことが見えてきた。

こうして夏フェスに向けた運営のスケジュールができあがった。やるべきことは、思いのほか多かった。急いでやらないといけないことは何かも見えてきた。

蒼は、製品、価格、流通、プロモーションの担当をバンドのメンバーたちに割り振り、引き受けてもらった。マーケティング・ミックスを書き出してみることで、夏フェスの運営のすべてを蒼が一人で行うことは無理だと気づいたのだ。

全員でひとつのボールを追いかけ回す状態を脱し、連携が高まったことで、プロジェクトの進行速度は一気に上向いた。

■観察から販売不振の原因を学ぶ

さらに知子のメモには、次のようなことも書かれていた。

マーケティングでは、顧客を中心に考える一方で、取引先への対応、そして自組織内の調整への目配りも欠かしてはならない。マーケティングの原理は取引だと言われるのは、こうした複眼思考が、企業の市場対応のカギとなるからである。

蒼たちの夏フェスの場合は、この取引先への対応とは、ライブハウスや学校への連絡となりそうだった。自組織への対応は、他の出演バンドなどとの調整だろう。蒼は、これらの活動もスケジュールに取り入れた。

知子がMBAのある授業で、「実験と観察が大切」と聞いてきたことも役に立った。

この時期、蒼たちは、チケットを発売したものの販売不振に直面していた。結局チケットの料金は1人500円、セット割引だと1人400円ということに決着していた。学校内にポスターを貼らせてもらい、主演者たちが友達に声をかけるやり方で、販売活動を始めた。

「思っていたように売れていかない。なぜだろう」

蒼たちは、知子の話を思い出し、観察をしてみることにした。

メンバーが授業と授業の合間の休み時間に、夏フェスの勧誘を行うと、反応は悪くないのだ。「行く行く」と言ってもらえる。しかし「また後で」と言われてしまい、購入には至らない。こんな空振りが繰り返されていた。

昼休みは、メンバーの貴重な話し合いの時間だったので、この時間帯の販売活動は行っていなかった。

実験してみよう。方針を変え、昼休みにも販売活動を行ってみた。そうすると、売れなかったチケットが売れた。

ならばと、販売活動の重点を昼休みにシフトした。

蒼たちの高校では、一日ずっと同じ教室で授業を受けるわけではなく、一人ひとりが自分の時間割に沿って、選択した科目の教室に移動していく。

考えてみると、そんななかで同級生の仲良したちが集まり、ゆっくりと話せるのが、お昼休みのランチの時間だった。夏フェスのセット割引を利用して、友達と連れ立ってライブに行くには、このランチの時間でないと予定が決められない。それなら、販売活動はお昼休みに行えばよい。

これで販売が伸びた。

■2019年の暑い夏、事件は起きた

そんなある日、事件が起きた。京都アニメーションへの放火である。7月18日のことだった。

「けいおん!」が好きで始めたバンドである。蒼、愛、真由夏、未来、珠緒、メンバーに衝撃が走った。

このころには夏フェスのチケットの販売は軌道に乗っており、利益が出せそうだった。メンバーで考え、利益は京都アニメーションに寄付することを決めた。当日のライブ会場には募金箱を置くことにした。

ライブ当日は大盛況で、後で聞くと皆楽しんでくれていた。この様子は翌日に読売新聞の地域版(大阪府)で、写真入りで報じられた。

来場者は60名。チケット販売+募金から各種経費を差し引いて、1万4628円の寄付を京都アニメーションに行うことができた。

それ以上に蒼たちが喜んだのは、来場者たちがライブを本当に楽しんでくれていたことだった。ライブ当日は忙しく、蒼たちは無我夢中だった。来場者たちの様子をつかむ余裕はなく、これでよかったのか、と茫然(ぼうぜん)自失の状態だった。蒼たちは後日手分けして、来場者たちに直接、感想を聞いて回った。こうしてつかんだ反応から、うれしさが込み上げてきた、そんな喜びだった。

■環境を整えるという着想

2019年の夏は暑かったが、そこに生まれていた小さな物語を紹介した。

蒼さん当人から話を聞くなかで印象に残っているのが、「環境を整えるのが私の仕事」という彼女の発言である。

個人では実現の難しいプロジェクトを、チームの力を合わせて達成する。蒼さんはそのために、マネジリアル・マーケティングのフレームワークを使い、必要な活動を洗い出し、目標とスケジュールを書き出した。

この作業を蒼さんは「環境を整える」と表現したのである。

蒼さんはリーダー役をつとめたが、業務管理者として振る舞っていたわけではない。リーダーとしての蒼さんは、一般的な企業や官公庁の業務管理型のオペレーションとは少し異なるスタイルをとっていた。

業務管理型のオペレーションでは、リーダーが定めた方針のもとで、メンバーは決められた活動を実行し、リーダーから評価を受ける。これに対して蒼さんが実現しようとしていたのは、創発型のオペレーションだと言える(國部克彦・西谷公孝・北田皓嗣・安藤光展著『創発型責任経営』日本経済新聞社、2019年)。夏フェスのプロジェクトの全体は、バンドのメンバー全員によって管理されており、そこには指示する人と、指示される人という関係は存在しなかった。これは、ティール組織などにも通じる、創発型のオペレーションだといえる。

マネジリアル・マーケティングは、業務管理型のオペレーションのフレームワークだと考えられがちである。しかし蒼さんが試みたような創発型のオペレーションにおいても、このフレームワークを活用すれば、メンバー一人ひとりの仕事をやりやすくする環境が生まれる。マネジリアル・マーケティングの手順に従い、目標を設定し、スケジュールを作成し、共有することで、自主的なメンバーの活動に求心力が生まれ、創発が促進される。

蒼さんは、技術やツールの使い方や目的を変えることで、新たな価値を生み出すバリュー・イノベーションを、気負うことなく実践していた。

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栗木 契(くりき・けい)
神戸大学大学院経営学研究科教授
1966年、米・フィラデルフィア生まれ。97年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。博士(商学)。2012年より神戸大学大学院経営学研究科教授。専門はマーケティング戦略。著書に『明日は、ビジョンで拓かれる』『マーケティング・リフレーミング』(ともに共編著)、『マーケティング・コンセプトを問い直す』などがある。
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(神戸大学大学院経営学研究科教授 栗木 契)