犠打通算533本の世界記録はいまだ破られていない。元プロ野球選手の川相昌弘氏は38歳まで巨人で活躍し、大記録を打ち立てた。その理由を「ドラフト4位だったから」と振り返る--。

※本稿は、田崎健太『ドラヨン』(カンゼン)の一部を再編集したものです。

川相昌弘(かわい・まさひろ)/1964年岡山県生まれ。1982年のドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け内野手として入団、2003年中日へ移籍。2007年に現役引退。通算犠打533は世界記録、ゴールデングラブ賞6回受賞。現在は野球解説者を務める。

■ぼく、バッティング捨てたんです

川相がその力を発揮するようになったのは背番号を60番から0番に変えた89年のことだった。川相にとってはジャイアンツに入って七年目のシーズンに当たる。この年から監督が再び藤田元司になっていた。

「この年からぼく、バッティング捨てたんですよ」

どういう意味ですか、と聞き返すとこう続けた。

「藤田さんはピッチャーを中心に守りの野球をやっていくと言っていたんです。自分の得意な分野は守備だったんで、とにかくしっかり守ること。そして(打撃では)バントをしっかり決める。エンドランのサインが出たら、どんなボールでも転がす。それを徹底してやったらレギュラーになれるんじゃないかなと思ったんです。バッティングはどうでもいいやって」

田崎健太『ドラヨン』(カンゼン)

どうせ(投手は自分のことを)舐(な)めてくるだろうから、甘い球だけ打てばいいって考えることにしたんですよ、と悪戯(いたずら)っぽい笑顔になった。

「藤田さんの野球って、初球から打つな、だったんです。(自分の場合は)2ボールノーストライクではだいたい待て。3ボール1ストライクでも待て。得点圏にランナーがいる以外では、ほぼ打たせてくれないです。基本2ストライク(取られて)から勝負。それで粘って相手投手に球数を投げさせる。それってベンチの指示だから仕方がない。ある意味気楽なんですよ」

■でも、一本ぐらいは打てちゃうんですよ

つまり、藤田は非力な川相の打撃には期待しない。川相の役割は走者を進めるバントやエンドラン、あるいは球筋を見極めるため、投手を疲れさせるために一球でも多く球を投げさせることだった。

「たまに打てっていうサインが出るときがあるんです。そういうときってピッチャーはぼくを歩かせたくないから、厳しいコースは突いてこない。ぼくは自分の好きなところだけ待って、そこに来たらミートすればいい。そう考えていると一本ぐらいは打てちゃうんですよ」

フフフと愉快そうに笑った。

「指揮官が考えている野球のリズムに合ってきたんです。そうすると監督もサインを出しやすい。指示に従って、ボールを見ながら粘ったりする。そうすると(配球が)読めてきたりするんです」

89年の開幕戦は勝呂博憲が二番遊撃手で先発している。シーズン途中から川相は勝呂に代わって先発に入るようになった。この年、ジャイアンツはリーグ優勝、そして日本シリーズでも近鉄バファローズを相手に3連敗から4連勝して日本一となった。川相はゴールデングラブ賞に選ばれている。

■趣味は選手名鑑を眺めること

そして90年、川相は自らの居場所を完全に見つけた。

94試合に出場し、打率2割8分8厘、犠打58。この犠打58は日本記録である。そして2年連続でゴールデングラブ賞を受賞、オールスターにファン投票で初出場している。ジャイアンツはセ・リーグを連覇した。

翌91年は犠打66、自らの日本記録を塗り替えた。犠打――バントは川相の代名詞となる。

彼の趣味の一つは、時間のあるときに選手名鑑を眺めることだった。

「出身地、出身校、血液型とか調べるのが好きなんですよ。やっぱりどういうところで育って、どんな野球をやってきたのかっていう、その選手の原点みたいなものを知りたいじゃないですか」

そんな川相は試合に出ることが楽しくて仕方がなかった。

「昔からテレビで観ていた人たちのプレーを、最高の場所で研究できるっていうのはすごいありがたいなと思っていました」

特に中日ドラゴンズ戦である。87年にロッテオリオンズから落合博満が移籍していたのだ。

「(パ・リーグの)三冠王っていうけど、リーグが違うのでなかなか見ることができない。目の前で三冠王を見られるなって楽しみにしていたんです」

落合博満の眼力

注目したのは彼の守備だった。

「87年に落合さんがロッテから中日に来たとき、ナゴヤ球場三塁側のベンチで落合さんの(三塁)守備練習をずっと見ていたんです。三冠王だから打つだけの人かなと思っていたら、守備も一生懸命やっている。うわっ、むっちゃ体勢低いわ、グラブをきちんと下から出しているわって。あまり落合さんの守備は話題になりませんけど、(グラブ)捌(さば)きが巧い。そしてスローイングもいい」

落合は一塁手として試合出場することが多かった。川相が走者として一塁に出たとき、落合から「お前か、タカさんの後輩は」と話しかけられた。

タカさんとはイチローなどを育てた高畠導宏のことだ。

落合もオリオンズ時代に高畠の教えを受けている。高畠は岡山南出身だった。数少ないプロ野球に進んだ先輩として、高校三年生時に川相は本間と共に高畠と会ったことがあった。高畠は自分の後輩が入ってくるので宜しく頼むと落合に言っていたのだ。

それから一塁の上で二人は話をするようになった。

「お前、ちよっと反対方向狙いすぎだわ、とか。あれじゃ、全部ファールになるぞと言われたことを覚えてますね」

川相は落合の眼力に驚いた。そのとき川相は右翼方向に打球を飛ばさなくてはならないと、右足の置く位置を工夫していたのだ。

「ランナーがいたら反対(右翼)方向に打たなきゃいけないって、考えていたらファールになる。悪いバッティングになっていたんです」

落合の指摘を受け入れ、打撃コーチと相談して川相はフォームを修正した。

■“待て”より“打て”という長嶋茂雄の後押し

ジャイアンツ入団からしばらく打撃練習が憂鬱(ゆううつ)だったという川相は、93年に打率2割9分という数字を残している。これはセ・リーグで10番目、ジャイアンツの中では最上位だった。この時期、プロ野球はジャイアンツを中心に回っていた。テレビ中継があり注目の集まるジャイアンツに各チーム、主力投手を当ててくる中、この打率は数割増しで評価していいだろう。

打率が上向いたのは、このシーズンから監督が長嶋茂雄になったことも関係している。

「藤田さんと長嶋さんは野球の考え方が全く違うんです。藤田さんだと“待て”だったケースが、長嶋さんだとほとんど“打て”。相手(バッテリー)は今までの川相ならばこの場面で待つだろう、打ってこないだろうってイメージがあるわけです。そこで、打たねえぞって知らん顔して、カーンと打つ」

今までのイメージを利用したんですよ、とにこりと笑った。ただし、この93年、ジャイアンツは3位に低迷している。長嶋はチームのてこ入れのために、フリーエージェント制度で落合を獲得した。

「落合さんのバッティングって見ているだけで勉強になる。ネクストバッターズサークルでのスイング、あるいはティーバッティングのやり方」

翌94年、川相は3番の松井秀喜、そして4番の落合の前を打つことになった。そして打率3割2厘――ジャイアンツの遊撃手で3割を超えたのは広岡達朗以来だった。この年、ジャイアンツは4年ぶりにセ・リーグ、そして日本シリーズを制している。

■肩は強いが、動きでは負けていない

ジャイアンツという球団はとにかく才能ある選手を掻(か)き集める。仁志敏久、元木大介などの若手選手の台頭により、川相の出場機会は次第に減っていく。そして98年のドラフトでジャイアンツは近畿大学の遊撃手を逆指名で獲得した。二岡智宏である。翌99年から監督の長嶋は二岡を先発起用した。

川相は34歳になっていた。二岡の将来性を見込んでポジションを与えることは理解できると言った上で、こう付け加えた。

「バッティングでは(自分が伍するのは)厳しいと思いました。ただ、守備では彼は肩は強いけど、動きでは負けていないと思いました」

その後の行動が実に川相らしい。遊撃手はもちろん、二塁手、三塁手の守備練習をこなすようになったのだ。

「(二岡が来たからといって)はい、どうぞと引き下がるつもりはなかった。二岡がショートならば、自分はセカンドでもサードでもできます。レギュラーになる前にやっていたポジションですから。試合途中から出てもいい、守備固めでもいい。どんな使い方をされてもいいと思っていました」

■現役を続けるには、プライドが邪魔になる

すでに川相は犠打の日本記録も作っている。そんな選手が控えを受け入れるというのは屈辱ではありませんでしたか。そう訊ねると川相は首を振った。

「ぼくはそんな風には思わなかったですね」

そしてこう続けた。

「プライドってよく言うじゃないですか。でもぼくはそのプライドが邪魔になって現役を早く辞めた人も見てきた。ぼくからすればまだまだできる人でした。こんなポジションできるか、あるいはこんな役割で我慢できるかって思うのかもしれない。監督の側にも、チーム事情ってあるじゃないですか。それを受け入れないと引退に追い込まれる。でも、折角憧れのプロ野球選手になったんです。滅茶苦茶ラッキーな人生じゃないですか。入れると思っていなかったところに入ったんです。もう要らないって言われるまでやりたいなと思っていました」

2003年9月、川相は引退を発表している。2002年から監督となっていた原辰徳から現役引退して、コーチに就任しないかという話をもらっていたのだ。川相は現役に未練があったが、これも縁だろうと原の誘いを受けることにした。

ところが--。

9月末、原が監督を辞任。10月に入って球団代表から改めて二軍コーチの話を貰った。しかし、来季の準備をしていた原が辞任したことに、川相は釈然としない気持ちを抱えていた。川相はコーチの話を断り、自由契約となった。

そんな川相に声を掛けて来たのは落合博満が監督を務めていた中日ドラゴンズだった。

■野球って色んなタイプがヒーローになれる

川相は2006年まで現役を続けた。通算犠打533は今も世界記録である。荒木大輔などの同学年のプロ野球選手の中で、ドラヨンの川相は最後までプロ野球選手で居つづけたのだ。

「なんか最後までできちゃったという感じですよね。野球って色んなタイプがレギュラーになれる、ヒーローになれる可能性がある。だから面白いって思うんですよ」

その後、川相はドラゴンズの二軍、そして古巣ジャイアンツの二軍と三軍監督を務めた。

「ぼくみたいな大したことのないタイプ、最初大したことがないと思われていた選手を指導するのが二軍、三軍の役割なんです。そんな選手が自分が教えることによって良くなって一軍で活躍する。その姿を見ながら酒を飲むのが一番嬉(うれ)しかったんですよ」

そう言って、川相は顔をほころばせた。脇役の人生の滋味は主役以上であるのかもしれないとその笑顔を見て思った。

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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951−2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。
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(ノンフィクション作家 田崎 健太)