「夢」の功罪 〜貧困・奨学金記事を炎上させるもの/増沢 隆太
1.かみ合わない情報〜悲惨な貧困家庭
「がんばって東京の私大に進学したものの、奨学金という名の借金を1千万背負った」
「バイトもしているが授業をさぼって働いても月収5〜7万にしかならない」
「サークルも合宿や道具・材料などにお金がかかり、バイトしても追いつかない」・・・・
貧困環境で育った20歳前後の若者が、何とか状況を改善するために無理して大学に進んだ結果、あまりのコスト負担に苦しんでいるという記事をよく見かけます。
経済的に恵まれない学生のためには奨学金があり、日本学生支援機構の奨学金が幅広く利用されており、自分も旧日本育英会時代に借りていたという大人は少なくないことでしょう。一方、「奨学金」と呼んでもそれは返還が必須で、種類によっては利子も払わなければならないことから「奨学金ではなく教育ローンだ」とか、返済が滞った際の取り立てがあることで「消費者金融並み」といった批判もあります。
いずれも貧困状況の家庭やその子供たちが社会システムにおいてスポイルされ、社会制度の不備や貧困対策への批判記事となっています。しかしネットニュースなどでこうした貧困キャリア記事はビューが稼げる一方、一般読者のコメントは圧倒的に記事とその記事に書かれている貧困家庭への批判が多くなります。
2.美大生へのキャリア教育
「貧乏なのに私大に行くな」
「無理して進学する先がFラン大学では意味がない」
「国公立に行け」
といった、ネット記事を読む読者の意見はそもそも悲惨な経済状況を踏まえない進路選択への批判や、自己責任論でほとんど埋まります。年長者の中には「昔は皆貧乏だったので耐えろ」というものもあったりします。
私は長年いろいろな大学でキャリア講座を行っていますが、特に大学学部1〜2年の学生に対する講義では、いつも「キャリアは人生」であることを説明します。4月も年間を通じてキャリア講座を持っている秋田公立美術大学でキャリアデザインの授業を行いました。大学教員兼人事コンサルタントでもある筆者には、就活テクニックを期待する学生が山ほどいるのは知っていますが、そんなテクニカルな話は直前で十分。この段階ではそんな枝葉末節より、キャリア教育の大原則だと考える「キャリアとは人生」について、かたくなに説明時間を割きます。
私は戦略的就活をテーマに指導しているため、単なる小手先のエントリーシートや面接対策などには何の意味もなく、本質的な課題設定/目標設定という思考のフレームワークができなければ、成果にならないと信じているからです。キャリア教育が就職対策でないことは当然、また「自己実現」とか「ジョハリの窓」などキャリア心理学を教えるものでもなく、純粋に目的達成への思考訓練だという趣旨で講義を行います。つまり思考ができなければキャリアは成り立たないと考えているのです。美大生のような一見特殊なキャリアを歩みそうに思える学生たちでも、ほぼ99%は会社員になるのです。思考のフレームワーク作りこそ、どんなキャリアを歩むにも有効です。
3.自己責任では済まない社会コスト
一方、奨学金問題ですが、誰が悪いのでしょうか?
特定個人の責任を追及しても意味があるとは思えません。しいて挙げれば社会制度の問題ですから政府に責任があるのは同意です。ただしその政府を選んでいるのは投票した人ですから、それこそ自己責任でもあります。
つまりキャリアの問題で責任追及することが無意味なのです。社会制度不備について声を上げることは賛成ですし、どんどん問題提起すべきと思います。しかしその改善は、投票行動を変えるか何年何十年という単位が必要なものであり、目の前の苦しむ人への即座の支えにはならないと思っています。
日本でも完全に定着した格差社会で、貧困状態に陥った人たちが苦しんでいるのはまぎれもない事実です。これは放置すれば社会問題としてその解決コストが全国民にのしかかるという点でも、他人事と傍観することはできません。当然財政的にも限度がある社会保障ですから、単に学費無償化という政策のため消費税がさらに増税されることに、個人的には非常に反発を感じています。
なぜ全就業人口の半数以上が就く営業職や販売・サービス職というキャリアを教えないのでしょう。貧困家庭が奨学金含む無理の上でFラン大学に進むのはきわめて高いリスクがあることや、優秀な学生には学費免除の道もあること。好きなこと・やりたいことと仕事は別であることを教える方がはるかに大切です。行うべきは、誰でもどんな大学への進学でも経済支援する制度ではなく、情報格差の縮小です。
4.情弱対策
悲惨な経済状況にある家庭の多くは情報弱者だと感じます。「今時大学も出ないで高卒ではろくな就職はない」といった家庭内での会話が、貧困記事ではよく見られますが、キャリア的に見ればただの暴論でしかありません。
誰もが名を知る大企業でホワイトカラーで活躍するのであれば、おそらく高偏差値大学を卒業しなければ可能性はほぼないでしょう。しかしそんな人は現実でも日本人の中でほんの一握りにすぎません。年収1千万以上の家計は就業人口の1割程度といわれますが、当然大企業でもこの年収水準に満たない人はいくらでもいます。
給食費にも苦労するという家庭から一気にトップ1割層を目指すのは、可能ではあってもきわめて難しく、またリスキーでもある覚悟があるかどうか、そうした判断もなく「今時・・・」といっているようであれば、あまりに情報を理解しなすぎという批判はやむなしです。平均収入である400万円程度を得ている人の方が圧倒的に多い訳ですし、「高卒ではろくな就職がない」のではなく、高卒だろうと大卒だろうと大学院卒だろうと、ろくな就職先でない会社に入社してしまう人は必ずいます。学歴だけで選択肢が確定するという考えそのものが雑で乱暴すぎるのです。こうした情報弱者対策こそ、苦しみを軽減する即効性ある対策なのではないかと思います。
5.三食ケーキを食べさせないのが真のキャリア教育
私のキャリア講座ではお金の話が満載です。別にFP的な資産運用などではなく、人生のいつごろ、どんなこと(ライフイベント)が起こり、どれだけお金がかかり、それを決めるためのキャリア決定では何を考えるべきかと学生に問題を投げつけます。
ほとんどの学生は何も考えることなく、卒業すれば就職する、就職すればいずれ結婚したり出産したり、昇進・昇給があると何となく思っていることが多いといえます。しかしそもそも就職しても会社が倒産したり、リストラされたり、病気になったり、生涯独身で天涯孤独になる可能性は考えなくて良いほどの例外なのでしょうか?
一流大を出て大企業に就職できたものの半年足らずで退職してしまい、その後30代まで次々転職を繰り返した結果、40歳を過ぎたら全く採用されなくなり、日々の暮らしにも困窮する人もいます。貧困家庭の子供が、貧困を再生産するリスクがきわめて高いキャリアに進むことを、「子供の夢の実現」などと称して放置したり後押しするのが教育でしょうか?子供の知識でキャリア選択すれば、リスクなど考えずに「夢」とか「好きなこと」のような非現実的で限られた知識だけで人生を決めてしまう恐れは放置されます。
大人の責任として、子供が好物だからといって三食ともケーキばかりを食べさせるようなものです。「夢」と「現実」の違いや、好きなことには必ず高いリスクが付きまとう覚悟をきちんと教えられるのか、真のキャリア教育こそ貧困キャリア問題に有効だと考えます。