NOCD(世界が違うわね):エセレブに御用心/純丘曜彰 教授博士
どこの馬の骨ともつかぬ「王子」が、やんごとなきお嬢さまと婚約するとかしないとかで騒ぎになったが、新生活の季節ともなると、こういう嘘松てんこ盛りのエセセレブたちがあちこちに湧いて来て、本物の回りに馴れ馴れしく近づいてくる。いっしょに写真でも撮られようものなら、どこで勝手に名前を使われるかわからない。ちょっと知っているというだけでも、小者は、年来の知己であるかのように、ないこと、ないこと、えらそうに人に知ったかぶりを言いふらす。こんな下賎な連中に関わって、いいことは、なにも無い。くれぐれも御用心を。
お坊ちゃま・お嬢ちゃま学校として知られるところほど、こういうのがカネの力で紛れ込んでくる。そう、エセレブは、妙にカネはあるのだ。むしろ本物の方が、昨今たいてい没落している。ただエセレブのカネは、そもそも自分のものでなかったり(会社など、ひとのカネの使い込み?)、裏にややこしい連中や条件がへばりついていたり。そうでなくても、しょせん今だけのニワカ成金。そんなカネがいつまで続くやら。
まあ、見ればわかる。カネの使い方がおかしい。豪邸を建てたり、車や時計、バッグに散財したり。やたら目立ちたがり、贅沢を自慢する。見るからに、コンプレックスの塊り。優越感と劣等感が同居していて、ほんとうに痛々しい。自分が無名だから、「ルイなんとか」とか「ミチコなんとか」とか、人の名前の書いてあるものを動く看板のように持ち歩く。子どものうちに、人の名前が書いてあるパンツをはいてはいけません、と教えられなかったのだろうか。
現金やカードも同じ。常連なら、無粋な小銭勘定の支払などせず、月末、年末に、まとめてでいい。ところが、自分のことを知らない海外の店で食事をしようとして断られ、それで世界で最初のカード、食事という名のダイナースができた。つまり、カードの名前は、自分の名前の信用の代わり。まして、現金というのは、払うやつがだれだかわからないし、今後、もう関わりたくないから、その場での清算として使われる。つまり、縁切り。たとえば、買春は、現金払い。やたらカードや現金を持ち歩くのは、自分に信用が無いことの表れ。
財布やバッグも、お嬢は、やたらでかいのは持ち歩かない。親が紹介した店なら、支払は後でお父様が、だし、荷物も、店が家まで届けてくれる。そもそも店になんか行かない。店の方が外商としてモノをもってやってきてくれる。女モノの財布なんか、ココ・シャネルみたいなのが、自立した働く女性向けに売り出したのだ。バッグも、バケツみたいに大きいのは、シャンパンボトル六本を担いで運ぶ下働きのためのもの。クラスのものじゃない。
服装。クラスは、悪目立ちを嫌う。そもそも本人がブランドなのだから、服装なんかで目立つ必要がない。派手でポップな柄物は論外。生地の質がよくわかる無地のトラッドをそつなく着こなす。アクセサリーなども、やたら新しいものを買うまでもなく、親の代から大切にいろいろ持っている。もちろん、近ごろは冗談でドレスダウンもするが、それはセレブだからできることであって、庶民が、ダメージドだの、アンクル丈だの、貧乏くさいかっこうをしたら、シャレにならない。
そして、話し方。庶民は、その他大勢だから、みんなタメ口。ところが、クラスは、その中に細かな上下関係がある。親兄弟でさえ、そう。だから、尊敬語、謙譲語、丁寧語を使い分けないといけない。複雑なのが、謙譲尊敬丁寧語。身内だからと謙譲語だけで済ますのではなく、お伺いなされます、というように、動作目的相手に謙譲するとともに、身内の目上の動作へ尊敬を払い、さらに話し相手に丁寧に語る。こういう言い方を使いこなせないと、クラスの中では生きていけない。
そもそも、生活、関心、教養が違う。クラシックな文化は、クラスに共有されているもの。子どものころから音楽会や展覧会、会食に引っ張り出され、かなり厳しくしつけられ、徹底的に教え込まれている。黙っている、静かに座っていられる、というのが基本。大人の話、人の話にクビを突っ込まない。知っていても、知らないフリ。大人になっても、こんにちは、さようなら、ありがとう、ごめんなさい、以外、やたらしゃべらない。どうせ自分たちの趣味嗜好は、クラス外に話してもわからない、と、開き直っているから。楽器や運動に親しみ、昔から読まれてきた本をきちんと読み、歴史を自分自身のものにして、その延長線上に静かに隠れ暮らしている。
だから、カネの力だけで、有名なお坊ちゃま・お嬢ちゃま私立に入って、出しゃばって自慢話をしても、相手にされない。じつは、東大や商社などでも、そうなのだ。学力だけの受験校上がりでは、話にならない。楽器や運動もできて当たり前。子どものころから読んできた本、見聞きしたもの、行ったことのある場所、そして、歴史の体感。これらが無いと、話には入れない。NOCD、Not our class, darling、世界が違うわね、なんて、隠語を小声でささやかれる。
鶏肋馬骨。出典は『魏志』と『戦国策』。鶏の肋骨、馬の髄骨など、肉が無い、喰えない典型。人間は、カネや学力、肩書だけでは、ミが無い。どんなにカネや学力、肩書があっても、それを使いこなせない。べつにむりにクラスに入ろうとする必要は無いが、エセレブとして、カネの力で刹那の物事を追い回し、それを自慢しても、かえってバカにされるだけ。豊かさは、赤の他人に見せびらかすものではなく、自分と家族、友人で享受し、人生と生活を楽しく優雅にしてくれるもの。それがわかっていないから、浮いている。
クラスは、一朝一夕、一代で入り込めるものではない。よく、三代前、が問われるが、本人の教育には親の教養、そして、それに意味があるとした祖父母がいないとムリ。カネの力だけではどうにもならない。しかし、さもしい他人にそのカネを騙し毟り取られ、かえってバカにされ、すべて失うくらいなら、自分はムリでも、せめて自分の子どもや孫に、ほんとうの「豊かさ」を残したらどうなのだろう。
そういう謙虚さのある家、人物なら、つきあいようもある。しかし、自分のコンプレックスで、すべてひっくり返して、自分たちの方に巻き込もうとするような連中は、関わっていいことは絶対に無い。言ってもムダ。それどころか、逆恨みされるだけ。せっかくの静かな豊かさを引っかき回されて、ひどい目にあう。中身に比して分不相応の生活で、やたら人に馴れ馴れしく寄ってくるエセレブには、くれぐれも御用心。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)