ヒト型ロボット「NAO」。ソフトバンクロボティクスのウェブサイトより。

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ソフトバンクが報道各社に対し、元社員の林要氏を「Pepperの父」などと呼ばないように要請する文書を出しました。同社は「『Pepperの父』は孫正義会長兼社長ひとりだ」としています。なぜこのような異様な要請が行われたのか。投資家の山本一郎氏が背景を分析します――。

■報道各社に送られてきた不思議な通知文

「経営者も技術者も人間であって、感情が支配する動物にすぎない」。そんな哲学的な問いを投げかけたくなるほどの衝撃的な文書でした。1月23日、ヒト型ロボット「Pepper(ペッパー)」について、開発元のソフトバンクロボティクス・冨澤文秀社長の名義で、不思議な通知文が報道各社に送られてきました。

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報道関係各位

ソフトバンクロボティクス株式会社の人型ロボット「Pepper」に関する表現についてご認識いただきたいことがあり、以下の通りお願い申し上げます。

元弊社社員であり、GROOVE X株式会社の代表取締役である林 要氏についての報道において、林氏をPepperの「父」「生みの親」「(元)開発者」「(元)開発責任者」「(元)開発リーダー」などと呼称することで、あたかも林氏が弊社在籍当時Pepperの技術開発の責任者又は中心的存在であったかのような印象を与える表現が散見されます。

しかしながら、林氏が弊社又はソフトバンク株式会社に在籍中に、Pepperに関して、企画・コンセプト作りやハード又はソフトの技術開発等、いかなる点においても主導的役割を果たしたり、Pepperに関する特許を発明したという事実はございません。また、事実として、当社またはソフトバンク株式会社のロボット事業において「開発リーダー」という役職や役割が存在したことはありません。

従って、林氏にPepperの「父」「生みの親」「(元)開発者」「(元)開発責任者」「(元)開発リーダー」等の呼称を用いるのは明らかな誤りであり、お客様や投資家の皆様等に対しても間違った印象を与えかねず、Pepper事業のオーナーである弊社といたしましても看過することはできません。

これまでも弊社は数回にわたって事実と違った呼称を使わないよう林氏サイドに対し申し入れを行ってまいりましたが、改善がみられないため、今回改めて前述の認識についてメディアの皆様にお伝えさせていただくことにいたしました。

メディアの皆様におかれましては、今後林氏について報道される際は、「Pepperプロジェクトの(元)プロジェクトメンバー」など、Pepperの技術開発の責任者又は中心的存在であったかのような印象を与えない呼称を使用していただきますようお願い申し上げます。

ソフトバンクロボティクス株式会社
代表取締役社長 兼 CEO 冨澤 文秀

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なんだこれ。

林要氏はロボット業界、特に「ヒューマンマシンインターフェイス」の世界では第一人者として知られる人物です。ロボット業界だけでなく、ロボットに必要な人工知能や統計処理を専門とする会社にも一気に内容が広がり、困惑とともに様々な憶測を呼びました。企業が元社員に対して「いかなる点においても主導的役割を果たしたり、Pepperに関する特許を発明したという事実はございません」とするのは異様なことですし、何よりロボット業界における林氏の貢献は疑いのない事実です。

それでは「Pepperの父」はだれなのか。ソフトバンクグループは「『Pepperの父』は孫正義会長兼社長ひとりだ」としています。どういうことなのでしょうか。孫氏は日本や世界の100年後の未来を見据えて技術戦略を練り、ビジネスモデルの構築に邁進しているといいます。その中でも、人間の生活の質を劇的に引き上げる重要なテクノロジーとして、ロボット分野に前のめりの投資を続けていることは、広く知られています。

■原型はアルデバラン社の「NAO」

しかし「Pepperの父」が「ひとり」というのは違和感があります。ソフトバンクがロボット業界に本格参入したのは、フランスのアルデバランロボティクス社(設立は2005年。2016年にソフトバンクロボティクスヨーロッパに社名変更)を2012年に買収してからです。そして2014年に発表されたPepperは、2006年にアルデバラン社が開発したコミュニケーションロボット「NAO(ナオ)」をベースとしています。

Pepperの生みの親」という意味では、NAOのコンセプトデザインを手がけたアルデバラン社の創業者ブルーノ・メゾニエ氏やチームにいたThomas Knoll氏、Erik Arlen氏にもその資格があるといえるのではないでしょうか。

そもそもPepperは現時点で成功しているとはいえず、いわば「寝た子」ともいえる事業です。ソフトバンクはアルデバラン社の買収に100億円以上を投じたとみられており、現時点では「高い買い物だった」との評価が少なくありません。確かにコミュニケーションに特化したロボットは画期的でしたが、ロボット事業をビジネスとして立ち上げるのは、まだ早かったのかもしれません。

■なぜ「寝た子」を起こしてまで怒るのか?

ではなぜ、ソフトバンクは「寝た子」を起こすように、「林要氏は『Pepperの父』ではない」などと言い始めたのでしょうか。

林氏は2015年に「GROOVE X」を立ち上げ、ヒューマノイドロボット「LOVOT」の開発のために、総額80億円の資金調達を行っています。出資者は未来創生ファンド、産業革新機構(INCJ)、Shenzhen Capital Group(深セン市創新投資集団)など。このうち未来創生ファンドはスパークス・グループが運営し、トヨタ自動車と三井住友銀行(旧さくら銀行を含む)が出資するファンドです。なお林氏はもともとトヨタ自動車の空力技術者でした。

2019年に販売開始を目指している同社の「LOVOT」は、LOVEとROBOTにちなんで名付けられたものだそうですが、コンセプトペーパーなどを見ると、Pepperが実現しようとしているコンセプトと極めて似通っていることに気づきます。

ソフトバンクからすれば、まだビジネスとして成功していないPepperと似たような代物を、当時の責任者が中心になって大金を調達して始めようというのですから、「ケンカを売られた」と思うのもわかる気がします。

■複雑化したロボットより、接客型ロボットを優先

この問題のポイントは、ロボットに人間と等しい情念や愛情といったフィルターを置くことで、人とネットを媒介するというPepperのコンセプトそのものにあります。そのコンセプトを決めるうえで、中心的な役割を果たしたのは、たしかに孫氏だったようです。

ロボット事業は簡単ではありません。クーリエ・ジャポンの記事によると、「(2011年の)アルデバランの売上総額は、500万〜1000万ユーロ(当時約5億5000万〜11億円)だったとされるが、その数倍の資金が必要となった」ということです。

そしてこの記事では、アルデバラン社の創業者であるメゾニエ氏と孫氏との行き違いについて、「ソフトバンクは高度に複雑化したナオのようなロボットよりも、店や大企業の事務所で客の応対ができる接客型ロボットを優先的に開発したがっていた」と書いています。

■とにかく孫氏のビジョンを実現できるように

筆者がアルデバラン社(現ソフトバンクロボティクスヨーロッパ)の技術者に取材したところ、同様の証言が得られました。買収直後はメゾニエ氏も孫氏の寵愛を受けているように思えたが、その後はとにかく孫氏のビジョンを実現できるようなロボットを作り上げるために、多数のデザイン案を用意するように言われたそうです。

「多数のお供を従えた孫さんはまさにロード(君主や殿様の意)のようだった。へつらう部下の前で、短い時間でいくつものデザインを見ると、これがいいとひとつのデザイン案を指さしてから、急ぐように去っていった。そして、それがいま私たちが開発しているPepperが決定した瞬間だった」(アルデバラン社の技術者)

複数の関係者によると、確かにPepperのデザインを決めたのは孫氏自身のようです。またソフトバンクのロボット戦略の根幹にPepperを置く決定をしたのも孫氏です。それだけではありません。ソフトバンクの「ソフトバンク 新30年ビジョン」を見ると、ロボット事業の展開について孫氏がかなり明確な達成目標をもっており、同社がロボット事業でのイノベーションに懸けていることも理解できます。

■「Pepperの親権」という問題にとどまらない

つまりは「ソフトバンクグループは優しさを持った知的ロボットと共存する社会を実現したい」「人々を幸せにするために脳型コンピューター、情報革命を広めていきたい」という未来絵図に対して、Pepper以外のロボットが「優しさを持った知的ロボット」として登場することは許せないという考えがあったのではないでしょうか。単に「Pepperの親権がどう」という問題にとどまらないわけです。

とりわけPepperには孫氏の思い入れが深く詰まっているように思えます。これは「似たようなロボットで資金を集めた林氏を許せない」というよりも、「事業戦略の根幹において競合になりかねない」という考えがあったと理解すべきでしょう。ソフトバンクは2017年6月にグーグルからBoston Dynamics社やSCHAFT社を買収しています。それだけ孫氏のロボット事業に対する熱意というのは持続的で激しいのです。

さらに、ロボットに搭載される「ヒューマンマシンインターフェイス」は、人工知能や自動運転、スマートスピーカーなどと並び、IoT分野の根幹技術のひとつです。孫氏が「Pepperの父」という名を林氏に譲れないと思うのも、この分野での技術蓄積がなければ、30年後のソフトバンクは見通せないと考えているからでしょう。

■それでもなお、孫氏が譲らないのはなぜか

不幸なのは、Pepperのビジネスはまだ発展途上であり、新30年ビジョンの一角としての収益を生む前に、林氏が開発の現場から去ってしまったことです。もしも本当に伸びやかな市場のなかで他社ロボットと切磋琢磨している状況であれば、このような「親権論争」が起こることはなかったでしょう。

今回の騒動によって、孫氏が依然としてロボット事業に深い関心を払っていることがよくわかりました。この問題には、結論も、落としどころもなさそうです。Pepperの真の開発者だけが生みの親を名乗れるということであれば、それはアルデバラン社の若き技術者たちということになるでしょう。Twitterでは「孫正義氏はせいぜい『Pepperのパパ』」と揶揄する人もいました。孫氏が多額の資金を提供したことを考えれば、そうした揶揄が広がるのもわかります。

それでもなお、孫氏が譲らないのはなぜか。その点を考えることが重要ではないかと思います。

(投資家・作家 山本 一郎)