■6年間の不登校を乗り越え、チームに欠かせない存在に

 最後の夏、出場機会はなかった。それでも小鹿野高校(埼玉)の控え選手・木村太次郎(きむら・だいじろう)はこれまでにない充実感を抱いて、高校野球生活を終えた。

 木村は小学校4年の時から中学3年まで不登校だった。それでも「高校は絶対に行きたい」と両親に話すとともに、「自分のことを誰も知らないところに行きたい」と願った。


山村留学の選手たちと須崎旅館の大女将・安子さん。左から2人目が木村太次郎

 そこで母の智子さんが全国津々浦々の学校を探したなかで、偶然見つけたのが埼玉県秩父郡の山奥にある小鹿野高校だった。縁もゆかりもない人口1万2千人弱の小鹿野町。だが「廃校の危機にあった町の唯一の高校に、早稲田大とプリンスホテル(現在廃部)でそれぞれ日本一に輝いた名将・石山建一氏が外部コーチとしてやってきた」という記事を見つけ、そこには「山村留学制度を使って、野球部員の募集も行なっている」とも書いてあった。

 小さい頃から大の西武ファンだった太次郎に勧めると、進学を決断した。それでも6年間にわたり通学をしていなかったため、父の善紀さんは「初日や2日目に帰ってくるかもしれない」と心の準備をしていた。だが、その不安は杞憂に終わった。

 野球部の仲間とともに学校生活と練習の日々を送り、山村留学で入学した選手たちと老舗温泉旅館の須崎旅館で寝食をともにし、かけがえのない時間を過ごした。そのなかで身長が10センチも伸びると同時に、精神的にも大きく成長した。

 1年半前からはチームに貢献しようと、自ら率先して相手校の分析を担い、選手の特徴やタイムなどをベンチで細かく記録して選手たちに伝えた。石山氏も「チームに欠かせない存在」と目を細める。

 そして木村は、校内の学業成績も上位になり、指定校推薦での大学進学を視野に入れている。

 チームは3回戦で敗退し、木村はほかの選手とともに涙を流したが、最後はしっかりと背筋を伸ばし、率直な思いを語った。

「最初は知っている人が誰もいないからこその不安がありましたが、みんなのおかげです。町の人も『いってらっしゃい』『おかえり』と声をかけてくれて、町全体が家族のような存在でした。苦しいこともあったけど、乗り越えることができたのは、今後につながる大きな財産になりました」

■チームのために裏方に徹した、最強記録員の夏

 一昨年に夏初勝利を挙げ、昨年は東東京大会で16強入りした日本ウェルネスが、今年も16強入りを果たした。通信制の同校では、様々な背景を持つ選手を受け入れたなかで強化を進めている。

 他の私学と同じようにスポーツ推薦制度で入学した選手がいる一方で、勉強についていくことが困難だった選手や、不登校や転校を経て入学してきた選手もいる。


涙にくれる日本ウェルネスの美齊津監督(写真左)と記録員の磯田大樹

 就任4年目の美齊津忠也(みさいつ・ただなり)監督は常々「野球がうまいかヘタが最も大切ではない。それで人生が変わるわけではないので、強い子を育てていきたい」と口にしてきた。今年でいえば、その象徴的存在が記録員を務めた磯田大樹だ。

 磯田は中学3年時に部員不足で軟式野球部が休部状態になってしまったため、自主練習しかできなかった。また、日本ウェルネスに入学した動機も都立校の入試に落ちたからで、野球の能力も意欲も決して高いものではなかった。美齊津監督も「髪を短くすることにためらいがあるようでした。正直、すぐに辞めると思っていました」と当時を振り返る。

 だが、”野球の難しさ”が磯田を変えた。

「入学前は『毎日練習ができる』と楽しみだったんですが、だんだんとしんどくなって(笑)。でも夏の大会で負けて『なぜ勝てなかったのか』を美齊津先生が細かく教えてくれて、野球の楽しさがわかってきたんです」

 気づけば誰よりも声を出し、試合に出ている選手たちにも言うべきことはしっかり言える存在になって信頼をつかんだ。

 昨年から記録員としてベンチに入り、3年になってからは「よりチームに貢献できるように」と、練習の補助に全力を注いだ。

 敗退が決まった直後の父兄へのあいさつで、美齊津監督はベンチを外れた3年生ひとりひとりを父兄たちに紹介し、彼らが果たしてきた役割と感謝の思いを述べた。そして最後に紹介されたのが、記録員を務めた磯田だった。

「この子には、あまり野球をさせてあげることができませんでした。でも……」

 言葉は続かなかった。美齊津監督も磯田も、涙で顔をくしゃくしゃにしながら固く握手を交わすと、父兄やほかの部員から大きな拍手が送られた。誰もが磯田の献身を知っていたからだ。

 勉強も中学時代より取り組めるようになり、「指導者として神宮に戻ってきたい」という夢もできた。そして最後に、磯田はこう胸を張った。

「誰もが試合に出られるわけじゃないけど、自分のようなヘタクソでも成長できる。続けていけばきっといいことがあると、後輩たちに伝えられたのかなと思います」

 まだ歴史の浅い新興校では、こうした積み重ねが夢の舞台へと一歩ずつ近づく大きな原動力になっていくに違いない。

■不祥事で揺れた夏。気丈に振る舞った主将の心意気

 開会式前日に不祥事が発覚し大きく揺れた拓大紅陵(千葉)を、最後まで牽引したのが主将の度会基輝(わたらい・もとき)だった。

 父は1990年代から2000年代にかけてのヤクルト黄金期をスーパーサブとして支えた度会博文氏(現・球団広報)。


高校通算30本塁打のスラッガーでもある拓大紅陵の主将・度会基輝

 ムードメーカーとしても愛された父譲りの明るい性格で、2004年の春から甲子園に遠ざかっているチームを復活させようと先頭に立って引っ張ってきた。大会前には「もっと練習していたいくらい」と笑顔で語り、指導者たちも「悩みもあるでしょうが、表に出さずやってくれている」と目を細めていた。

 だが、開会式前日に元部員3人がSNSなどを利用した売春斡旋容疑で逮捕されると、風向きは一気に変わった。飲酒や喫煙のように「他の部員が見て見ぬふりをしていた」という部員全体の連帯性はなく、近年の事例をみても出場は妥当とも思えたが、ネットなどで激しいバッシングが起こり、当然、選手の目や耳にも届いていただろう。

 大会中、主将を務める度会にも不祥事に関する質問が飛んだ。それでも誠実に対応し、ひたむきに甲子園出場を目指す息子の姿を見て、母の祥子さんは涙することもあったという。だが「親が気持ちで負けてはいけない」と、スタンドで声を枯らして応援し、度会も下を向くことなく初戦から活躍を続けた。

 3回戦まで全試合で2打点以上を挙げる活躍をみせた。4回戦で、のちに準優勝を果たす習志野に延長11回の末に敗れたが、整列後のあいさつまで気丈に振舞った。

 試合後に「もっとチームの役に立てる働きをしたかったです」と涙を流したが、「こんな状況のなかで応援してくださったみなさんに感謝したいです。協力してくれた仲間や周りの方々の支えもあってここまで来ることができました」と感謝の言葉を繰り返した。

 これからも度会の野球人生は続く。高校通算30本塁打の長打力を武器に大学へ進学し、父と同じ舞台を目指していく。今後、様々な困難が立ちはだかるだろうが、勇敢にその壁を超えていく力が、度会にはきっとあるはずだ。

 夢の舞台には届かなかったが、彼らが逆境のなかでつかんだものは、甲子園に出ることよりも大きなものだったのかもしれない。野球を続けて夢を追う者、野球から学んだことを生かして次なる夢に向かう者。それぞれが次のステージでもひたむきに汗を流す姿を、期待したい。

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