欅坂46の衣裳騒動から考える。ナチスタブーと表現の自由は両立するか

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先月22日、横浜アリーナで行なったライブイベント「PERFECT HALLOWEEN 2016」にアイドルグループ・欅坂46が出演した。このときの衣裳がナチスドイツの軍服を想起させるとして、ユダヤ人団体などが批判、欅坂46の秋元康総合プロデューサーら運営側が謝罪するにいたった。

もはやネットでとりあげるには時機を逸した感があるし、欅坂46のファンの自分としてはニュース記事で、例の衣裳を着たメンバーの写真を見るのは正直つらかった。だが、ファンだからこそ、この問題には真正面から向き合うべきではないかとも思う。ここは自分なりに考えたことを書いておきたい。


あらためて確認しておくと、今回の欅坂のメンバーの衣裳は、ライブイベントのため特別に用意されたものだった。ただし、ステージでのパフォーマンス時の衣裳は、写真で見るかぎり、黒のミリタリールック風とはいえ、ナチスを連想させるとはいいがたい。実際、主に批判の的となったのは、べつの場面でメンバーがこの衣裳の上から着用していたマント、そして帽子だった(ライブではこの格好をしたメンバーが客席を練り歩きながら菓子を配ったという)。

問題視されたのはおそらく、帽子に鷲のマークがついていたからだろう。草森紳一『絶対の宣伝5 煽動の方法』によれば、鷲のマークはもともとプロシア(ドイツ帝国)のシンボルで、ヒトラーはこれを引き継ぎ、ハーケンクロイツ(鉤十字)と組み合わせて積極的に用いた。よって、たとえそのつもりがなくても、ナチスをモチーフにしたと思われてしまうのはしかたないだろう。これが鷲ではなく鳩か何かほかのマークに変えてあったのなら、また話は違っていたかもしれないが。

デヴィッド・ボウイも批判は免れず


ただ、仮にナチスに対するパロディや風刺という意図が込められていても、それがイベントのような場で正しく受け取られるかどうかとなると、難しいと思う。

これがたとえば、映画や演劇のように文脈が比較的読み取りやすい表現分野なら話はべつだ。しかし、ポピュラーミュージックでは、衣裳を含め、作品を構成する要素がつくり手の意図から切り離されやすい。それだけに、ときには誤解を招くこともある。ナチスのイメージを引用するとなればなおさらで、よほどのことがないかぎり批判を覚悟せねばならないことは、過去のいくつかのケースを見てもあきらかだ。

今年1月に亡くなったイギリスのミュージシャン、デヴィッド・ボウイも、1970年代に、ナチスに関する言動から激しい非難にさらされた。

ボウイは1975年、米誌「ローリング・ストーン」掲載のインタビューで、かつて自分がジギー・スターダストというキャラクターに扮していたころ、しだいにパフォーマンスがエスカレートしていったことを次のように振り返った。

《ライヴがだんだん手の施しようもないくらい悲惨になっていって、新聞までもが「これはロックじゃない。ひどいヒトラーだ! 何としても止めさせなければ!」って書き立てた。うん、彼らは正しかった。あれはひどいもんだった。/でもさ、実際、僕はひどくいいヒトラーだったんじゃないかな。すぐれた独裁者になれると思うんだ。/とてつもなくエキセントリックで底抜けに危ないね》
「デヴィッド・ボウイ過激な発言7選」、「Roling Stone日本版」2016年2月13日

きちんと読めば、ボウイは皮肉と自嘲交じりに語っていることはあきらかだ。しかし、この前後に別の雑誌や記者会見で、ファシズムの指導者になりたいとほのめかしたこともあり、彼は批判を浴びることになる。

さらに同時期に欧米各地をまわったコンサートツアー中、ロンドンのビクトリア駅に到着した際、集まったファンや記者たちの前で、ナチ式の敬礼を思わせるポーズをとったことが物議をかもした。ボウイは手を振っただけだと弁解したが、先の発言とあいまって、批判は尾を引くことになる。1977年に発表されたアルバム『ロウ』は、ボウイの代表作の一つとして評価も高いが、リリース当初は彼の政治観と結びつけて酷評されることも少なくなかったという(ピーター&レニ・ギルマン、野間けい子訳『デヴィッド・ボウイ 神話の裏側』。

「趣味の豊かな泥棒」を自称し、絵画や文学などさまざまなジャンルからイメージを引用しながら作品をつくってきたボウイだが、さしもの彼もナチスやファシズムについて批判を跳ね返すほどまでには咀嚼しきれなかったのではないか。

野坂昭如、大人の態度で沢田研二を批判する


ボウイの影響を受けた一人に沢田研二がいる。沢田は1970年代、多くのヒットを飛ばすとともに、各曲のイメージにあわせた現実離れした衣裳でも話題を呼んだ。

1978年の「サムライ」では、刺青を思わせる絵柄をほどこしたシースルーの肌着を身にまとい、曲の終わりがけには持っていた脇差から刀を抜いてみせた。しかし何といっても目を惹いたのは、ナチスの制服風のジャケットと帽子、そしてハーケンクロイツの腕章だった。これはおそらく、イタリア映画「愛の嵐」(リリアーナ・カヴァーニ監督、1973年)での女優シャーロット・ランプリングによる裸にナチ帽という出で立ちに着想を得たものと思われる。

当然ながら沢田のこうした衣裳には批判の声があがった。作家の野坂昭如も週刊誌の連載エッセイでとりあげている。野坂がとくに問題視したのはやはりハーケンクロイツの腕章で、これをつけるのはどういう神経かと問いかけた。ナチス国防軍のなかでもこの腕章を好んで着用したのが、ユダヤ人虐殺を遂行したSS(親衛隊)だったからだ。

《このマークはナチス、特にSSと抜きがたく結びつき、ということは、罪もない市民を大量虐殺した記憶と、分かちようがないのだ。沢田さんが、あんな衣裳でヨーロッパ系ユダヤ人、また、オランダ、ポーランド、チェコスロバキヤ人の前で唄ってごらん、ただじゃすまない》(野坂昭如『風を蹴る』)

当時の日本社会では、いま以上にナチスへのタブー意識は薄かったはずだ。それだけに野坂の見識には特筆すべきものがある。それ以上に私がくだんのエッセイを読んで感服したのは、野坂の批判相手への態度だ。

野坂は脊髄反射的に批判したわけではない。テレビの歌番組で目にした衣裳について、ひょっとすると自分の見間違えだったかもしれないと、まず沢田の所属事務所に確認(クレームではなく)の電話をかけている。

確認がとれてもなお、頭ごなしに批判はしない。「沢田さん」とさん付けで呼び、相手をあくまで尊重しながら、ハーケンクロイツを衣裳に用いることがなぜいけないのか、ナチスによるユダヤ人大虐殺という史実を踏まえて丁寧に説明する。そのうえで野坂は、最後に《ファッションにとり入れるならそれもいい、ただしハーケンクロイツを身にまとうなら、SSの所業について、知っておくこと、ダビデの星を強制的につけさせられ、絶滅収容所へ送られたユダヤ人の運命、五百人以上の市民が殺されたポーランドについて、思いをめぐらせること》と再考をうながしたのである(野坂、前掲書)。注目したいのは、「ファッションにとり入れるならそれもいい」と、衣裳をどうするのかという最終的な判断は相手に委ねている点だ。

大人の態度とは、こういうのをいうのだろう。おそらく今回の欅坂46をめぐる騒動で、いちばん必要だったのは、野坂のような存在ではなかったか。

批判のなかでも終始、相手となる沢田を尊重したのは、野坂自身が歌手としても活動していたし、芸能界に敬意を払っていたからだろう(彼は吉永小百合や山口百恵の熱烈なファンでもあった)。だからこそ、言うべきことはきちんと言う。そんな思いが彼を先述のような態度に駆り立てたのではないか。なお、野坂による批判後、テレビ出演する沢田の腕章からハーケンクロイツは消え、×印に変更された。

こうした野坂の態度を見るにつけ、欅坂のファンでありながら、自分がそういう行動ができなかったことをつくづく恥じ入った。じつは例の衣裳については、イベントの開催直後よりファンのあいだではツイッターで疑問視する声があがっていた。ファンの誰かが運営側に意見して、そこからきちんと対処がなされていたのなら、ここまで大きな騒ぎにはならなかったかもしれない。

欧米ではなぜナチスはタブーなのか


それにしても、ナチスの扱いについて、どうしてドイツやユダヤ人国家であるイスラエルはもちろん、欧米の国々ではこんなにも厳しいのかと思う人もいるだろう。だが、それは現実問題としてそうせざるをえないのだと、私は理解する。

欧米社会は日本以上に複雑で、異なる文化・価値観をもった階級・宗教・人種・民族が共存している。また、国々が地続きになっている分、人の行き交いも活発だ。それだけに、ささいな誤解がすぐさま大きな対立へとつながりかねない。それは歴史が証明している。厳しいルールが存在するのは、対立を未然に防ぐためのひとつの知恵なのだと思う。

もっとも、日本だってもはや例外ではない。いまやインターネットで情報はすぐに国境を越えて伝達されるし、人や物の往き来も加速度的に増している。そうした状況のなかではどうしても、諸外国とルールを共有する必要性は高まるばかりだ。

そうしたルールと、表現の自由は両立できるのかという懸念もあるだろう。だが、それを乗り越えるのも、やはり知恵なのではないか。

「PERFECT HUMAN」vs.「サイレントマジョリティー」


先に書いたとおり、つくり手の意図から表現が切り離されやすい分野では、たとえ反ファシズムをテーマに掲げ、あえてナチス風の衣裳を採用したとしても、よっぽどうまくやらないかぎり誤解は避けがたい。それをクリアするためにたとえば、物事をストレートに表現するのではなく、「抽象化」という手段があるのではないか。

最近でいえば、お笑いコンビ・オリエンタルラジオを中心とするユニットRADIO FISHの