82歳筆者が考える、ある老人の自殺...悲劇は本当に防げなかった?
画像はイメージです(Jim Shineさん撮影、Flickrより)
中日新聞(ウェブ版)に掲載された、1人の老人の死をめぐる記事「第2部・老いて追われる (5)葛藤」が反響を呼んでいる。
豊田市の斉藤雅夫さん(仮名)は、家賃滞納を理由に市から訴訟を起こされ、住んでいた市営住宅を追われた。そして退去の16日後、生活保護の受給を固辞し続けたまま、野宿していた河川敷で自殺した。74歳だったという。
斉藤さんが救われる道はなかったのだろうか。行政、そして私たちには何が求められるのだろうか。昭和8年(1933年)生まれ、82歳の筆者が考える。
追い詰められる前に、手を差し伸べる努力を
「強制退去になる前に何をしていれば、違う結果になったのだろうか」
この問いは新聞記者から発せられた、と考えるのが順当だろうが、もしこれが行政機関に属し、この事件に関わっていた関係者からも発せられていたのだとすると、ますます暗い気持ちにならざるを得ない。
この件に限って述べても、いわゆる役所の縦割り弊害が明白である。裁判所も含めて、行政の各担当部署がもっと人々の現実生活を見据えて、弱者(手を差し延べるべき対象、あるいは助けを必要としている人々)を、連携して、血の通った人間として捉え、もう少し早めに動いてさえいれば、こんな悲劇に至らなかったのでは無いか?と思えてならない。
家賃の滞納が続く、という事実の裏には必ず何か理由があるはずである。このケースの場合は、死んだ斎藤さんが老齢で、きちょうめんで、また非常識な浪費家ではなかったことは、行政も把握していたわけであるから、滞納額が高額になるまで、単に機械的に督促する、というのが先ず、杓子定規すぎる。滞納が続くなら、その理由と原因を斎藤さんの立場に立って考えてみるのが第一であろう。
更に、裁判の陳述書でも斎藤さんは「一括納入して明け渡せということは私にしては死ねということと同じです。生活保護より少ない年金で今となっては一括納入は到底できません」と明白に述べているのだから、その間の事情を原告である市は当然知っていたことになる。この経過中の対処こそ重要なのであって、市が裁判に勝訴したから、といって一体何になるのか?と問いたい。結局、一人の市民を死に追いやるだけの意味しか無かったわけだし、筆者のみならず、多少想像力のある読者なら、そんなことは自明の理であろう。
斎藤さんにしても、こんな判決が出た後では、『二度と市役所を信用することができなかった』のは、当然と思われる。
もっと早い段階で、生活保護のセイフティネットを機能させるべきだった、ということは間違いない。
ただ、斎藤さんへの声掛けが、もっと早ければ良かった、と言っても、そのタイミングや、やり方にもポイントがある、と考えられる。
それは誰でも、経済的に、しかも、精神的にも極限まで追い詰められた、と感じたとき「聞く耳」を持たなくなるのは、むしろ当然と思われるからである。つまり、心に余裕が全く無くなれば、ひたすら殻を閉じ、自己防衛を図ることに専念する状態に陥るものだ。
特に高齢者は、(自分を引き合いに出すまでも無く)口や態度に出さなくても、どこかで何か自分を後ろめたく感じているものだ。それは、今まで何らかの形で世の中に貢献して来た筈の自分が今や老い、逆に社会に負担を掛け始め、その上どこからも必要な存在として求められなくなったことに気付き、気落ちする一方、それをどうしても認めたくない自分が居るからだ。多かれ少なかれ、大方の老人は寂しさと惨めさに取り拉がれ、一方でどうしようも無い自分に苛立っているものだ。
そのことが、見苦しい程「突っ張ってみたり」、「直ぐキレたり」、「ひたすら殻を閉じ、他人の言葉には一切耳を貸さない、意固地な」老人を輩出させて居るに違いない。しかし、そこには個人差もあるので、一概には言えぬが、ほとんどの高齢者は、何らかのトラブルで追い詰められたときには、たとえ一時的に攻撃的あるいは意固地になったにせよ、最後には、自分一人でその責めを負えば足りる、という覚悟を決める可能性も高い。これは、或る意味で(少なくとも従来の)日本人の特性であるのかも知れない。
だからこそ、そのような老人に接して問題を解決しようという関係者には、その辺の事情に気配りして、その高齢者が追い詰められ、頑なになる前の段階で根気よく説得するような努力が求められる。それと同時に、同じような問題を抱えた高齢者同士が気軽に接し合い、意見交換できるような場が欲しい。そんな場所があれば、高齢者の心も若い頃の柔軟性を留めながら、サポートしようとする仲間や、行政や、その他関係者の言葉に心を開き、耳を傾けようとする余裕も出ようというものだ。
今のような経済低成長時代、高齢化時代には、どうしても孤立しがちな人々が気楽に出入りできる、そんな場の提供が急務であり、それを行政だけに任せるのでは無く、行政と共に、NPOや一般市民(つまり、隣近所のオッサン、オバさんやじいちゃん、ばあちゃん、子どもたち、また一見無縁と考えられる若者たちまで巻き込んで)準備することが肝要である。
誰しもが老いるし、誰でもが思いがけぬアクシデントに遭遇する可能性を有し、またこれから益々老々介護や独り暮らしの人々が増え、それに伴う深刻な悩みを抱える人達も増えるであろうから、そんな交流の場を提供し、育てゝ行くということは、決して他人事では無い。高齢者のみならず、今を満喫して生きている若者たちにとっても必ず役立つ時が来るに違いない。