クラブW杯決勝(バルサ対リーベル)が行われる横浜国際は、ピッチとスタンドが世界で一番と言いたくなるほど離れた、眺望最悪のスタジアムだ。一流の試合の“鑑賞”には特に適していない。新国立競技場はザハ・ハディド案を断念。いま新しい2つの案の選択に入っているが、横浜国際は誰から意見されることもなく建ってしまった。しかも、主に使われているのはサッカー。眺望がよくなければこの競技の魅力は伝わらない。展開の善し悪しは分からない。記者席がある1階席の眺めは特にひどく、外国から来た記者は劣悪な観戦環境に戸惑うばかりだと思う。
 
「プレイヤーファーストの視点で」とは、新国立競技場の建設に求められる要素として、関係者の多くが口にする台詞だが、僕がそれと同じぐらい、いやそれ以上に大切だと常々言っている「観客ファースト」は、横浜国際のような失敗作が完成しないことを祈ってのものだ。
 
 バルサのホーム“カンプノウ”は、これとは正反対のスタジアムだ。98000人収容の巨大スタジアムながら眺望抜群。とりわけ正面スタンド最上階に位置する記者席からは、文句なしの眺めが望める。俯瞰。まさに真上からのぞき込む感じだ。選手の姿は小さいが、展開はバッチリ。ピッチに描かれる人とボールの動きが克明に把握できる。バルサが最も宣伝したがっている眺め。バルサの普遍的な魅力、すなわちそのクラブとして目指すものが最も理解できる場所。僕にはそう見える。
 
「パスサッカー」なのだけれど、展開を意図的に行っているところに他との違いがある。準決勝の広州恒大戦。ピケ(最終ラインの右CB)から左ウイング(セルジ・ロベルト)に何本か送られた対角線キックは、ピケがその場の思いつきで蹴っていたわけではない(聞いたわけではないけれど)。
 
 ボールの動きと選手の動きに目を凝らせば、それが何秒も前から決まっていた行為に見えた。ピケが受けたパスに絡んだ選手数人は、ピケが対角線のサイドチェンジを蹴ることをあらかじめ知っていた。ピケにサイドチェンジを蹴らせるために、意図的にボールを繋ごうとしていた。相手に勘づかれないように。左ウイングのセルジ・ロベルトも、直前まで死んだふりをしていた。たった一本の対角線キックを蹴るために、周到な準備が仕組まれていた。

 という推理が正しければ、対角線のサイドチェンジは、そこまでしてでも確実に成功させたいパスだと言うことになる。

 バルサがこだわっているプレイなのだ、伝統的に。真っ先に想起するのは、ミカエル・ラウドルップに矢のようなインステップを送球したロナルト・クーマンの対角線キック。それをカンプノウで見たのは、いまからおよそ20年前だが、バルサにあって日本代表にはないものという位置づけは、いまだに変わりがない。

 歴代の日本代表は、まさに非バルサ的なサッカーをしてきた。布陣を人間の体型に例えれば、左右のウイングは「肩」に相当する。で、大抵どちらかの肩は存在しない。あるいは、極端ななで肩の状態にある。ジーコジャパン以前は布陣そのものに、両肩が存在しなかった。両肩を布陣で言い表せば、4−2−3−1の3の両サイド、4−3−「3」なら「3」の両サイドに相当するが、ビルドアップの段階で、そこに人がポジションを取っている時間が少ない。対角線パスを受けようと構えている選手がいない。したがって、意図的に狙うことができない。決まっても1試合に1本あるかないか。チーム戦略に対角線パスが存在していないのだ。

 したがって、日本は逆サイドがものすごく遠く感じられる。神経が行き届いていない箇所というか、同調している箇所には見えないのだ。バルサと比較すれば一目瞭然。バルサの逆サイドは近い。日本は死んだエリア、バルサは生きたエリアになっている。すなわち、バルサは常にピッチが広く保たれている。パスコースが多いのは当然の帰結だ。