日野 照子 / フリー

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【そもそも日本トイレ大賞とは】

2015年9月4日に「すべての女性が輝く社会づくり」政策の一環として、内閣官房が今年創設した「日本トイレ大賞」の表彰式が行われました。空間部門と活動部門の2部門が設けられ、378件の応募があり、28件が受賞しました。例えば有村女性活躍担当大臣賞には、渋谷ヒカリエや札幌コンサートホール、あるいは、新しい仮設トイレ「おりひめトイレ」などのトイレ、および、LXSILがケニアで行っている衛生教育などの活動等、実に幅広い内容になっています。

この「日本トイレ大賞」募集時のコピーは次のようなものでした。

「トイレは、誰もが毎日使い、少なくとも5回前後、一生で15〜20万回!も利用します。この現実を直視して世界に誇れるような快適なトイレについて真剣に考え、良くしていきませんか?

5年後の2020年には、東京オリンピック・パラリンピック。訪日外国人の増加に向けて、みんなにとって使いやすいトイレを前に進めていきたいと思います。」

トイレというものは、災害時には常に深刻な問題になるように最低限の生活必需施設であり、文明社会を築くにあたって非常に重要な施設でしょう。個人的には、新しい商業施設やホテルなどに行くと、まずトイレをチェックしてその評価をするくらいに、トイレは大切な付加価値ポイントでもあります。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、東京近辺の公共施設を整備することも大切な取り組みだと思います。国が政策として、トイレという空間や活動にスポットライトを当てて、大臣が列席して表彰するのは画期的だったとも言えるでしょう。

けれど、なぜこれが「すべての女性が輝く社会づくり」の一環なのか、それだけは、どうにも理解に苦しむのです。

【なぜトイレが「すべての女性が輝く社会づくり」政策の一環なのか】

政策パッケージでは女性の活躍=暮らしの向上=トイレである理由をこう説明しています。

「我が国の経済社会の活性化にとって、女性の力は不可欠である」「その力を一層引き出す」ために、「もっとも基盤となるのが暮らしの質の向上である」「女性が暮らしやすくなる空間へ転換する「象徴」としてトイレを取り上げる」

なんでしょうか、この飛躍する感じ。いかにも後付けした理屈にしか読めません。

これが募集要項になると、ますますわからなくなります。

「空間部門」:華美ではないが世界に誇りたくなるトイレ、子どもたちが入りたくなる学校のトイレ、資金を工夫して快適にしたトイレ、行列解消の工夫をした女性用トイレなど、多数の者が使用する施設等のトイレの所有者、管理者。

「活動部門」:我が国の技術を生かしたトイレに関する国際貢献、途上国支援、災害時の対応、環境配慮、快適で魅力的なトイレが増えるための町づくり・観光支援などの活動を行った(ている)個人、団体。

実に幅広く、興味をそそられる内容になっています。しかし「すべての女性が輝く社会づくり」との直接的な関係はなさそうに見えます。というより、もう何の関係もありません。

「すべての女性が輝く社会づくり」政策は、いつも、どこかピントがずれています。ブログに起用する“輝く女性”の選択や、このトイレ大賞や、そもそもこの政策の名称自体、違和感ばかりを感じてしまうのは、筆者だけではないでしょう。

「すべての」と銘打ったがために、八方美人的に、女性を取り巻くありとあらゆる社会問題を全部政策の対象としなければならなくなり、あまりにも問題が多様なために、八方ふさがりになっているのかもしれません。

様々な人を起用して、様々な企画を出してみるのですが、おそらく最終段階で口を出すどこかの「おじさま・おばさま政治家」あたりの意見を無視できなくて、おかしな着地点になっているのかもしれません。

いずれにせよ、この政策の底にいつも見え隠れするのは、従来通りの代わり映えのしない性差別、男女の役割分担意識なのです。

【呪いのようなジェンダーコンプレックスを政策で取り上げるという勘違い】

トイレをきれいにすると女性が輝くというのは、2012年に大ヒットした「トイレの神様」に出てくるおばあちゃんの発想と同じです。トイレ掃除をすれば美人になれるよという「おまじない」。そういえば、友人の母親は妊娠中にトイレ掃除をすると丈夫な子どもが生まれるという姑の言葉を信じて、大きなおなかを抱えて、毎日必死でトイレ掃除をしていたそうです。

冷静に考えれば、自分がやりたくないトイレ掃除を、若い娘や身重の嫁にさせるための「おばあちゃんの知恵」だとしか思えませんが、世の中には、これを「いい話」と絶賛する人々が多数存在しています。このような「表向きはいい顔をした呪い」を平気でかける女性たちのどろどろとした世界が、連綿と受け継がれていることこそが、根深い社会問題ではないでしょうか。

そして、そのまるで呪いのように植え付けられてきたジェンダーコンプレックスを、政策の一環で堂々と取り上げてしまうという勘違いぶり。

「すべての女性が輝く社会づくり」政策を、多くの女性が冷ややかな視線で見てしまう原因のひとつは、この旧来の価値観を捨てきれないまま「表向きはいい顔をした」おばあちゃん的な偽善を感じ取るからではないでしょうか。

「日本トイレ大賞」創設時の有村女性活躍担当大臣の答弁にこんな言葉がありました。

「政治、行政で力がある、意思決定ができる方々は圧倒的に男性が多いという現状において、その方々が、地方で、当然ながら女性のトイレに行ったことがないということで、こんなに地方格差があるんだ、こんなに施設間格差があるんだ、しかも男女差がこんなにあるんだということを私自身、痛烈に感じてきたこともありました。」

なぜ、その痛烈に感じたという「格差」の本当の意味をもっと深くとらえ、トイレとは違う方向に持っていけなかったのか。とても残念です。

「日本トイレ大賞」は、「すべての女性が輝く社会づくり」の一環でなく、女性のための予算が使われたのでなければ、全面的に応援したい企画でした。きれいで便利なトイレも、災害時の画期的なトイレも、国際支援も、どれもとても大切だし、表彰された方々にはこれからもぜひがんばってほしいと思います。

そういう意味で二重に残念だった「日本トイレ大賞」。できれば、来年以降は、「すべての女性が輝く社会づくり」とは別の政策の中で、続けてほしいと思います。