震災復興の旗印:エンブレムは若者たちで!/純丘曜彰 教授博士
よし、またわしらが選んでやろう、一般国民ども、広く応募して来いよ、って、どうなんだろうねぇ。二度もしくじったら、組織委員会そのものから「白紙撤回」だと思うけど。いや、ここまで「因縁」がついてしまうと、白紙になんか、もう戻らないよ。(こうなるから、早く撤回して丸く収めた方がいい、と言ったのに、逆に頑なになってしまって、もうぜんぶワヤ。おまけに、「一般国民」のせいで、なんて、最後に要らぬ捨て台詞まで吐いてしまうし。他方も、勝った、勝った、って、国内で争い合って、なにが勝ちなものか。この始末は、日本人として、私はなんだかとても恥ずかしいよ。この国そのものが壊れていっているとしか思えない。この事態を、海外の友人たちに、どう説明したらいいんだ?)
広く公募する、なんて言ったって、過去作品や人間関係を洗えば、「身体検査」にひっかかりそうなやつも少なくないだろうし、いくらきちんと素材の権利処理をしてあっても、似てる、パクリだ、と騒ぎになるだろう。かたや、縁故に頼らず、これまで実力一本でやってきた連中からすれば、あんなやつらに選ばれてもうれしくない、いまさら泥船に乗っていくほどバカじゃない、ということになるだろう。
そもそもオリンピックは、若者の祭典だ。そりゃおっさん、おばさんで、若いやつらと互角に頑張るすごい選手もいるが、主軸はあくまで世界の若者だ。国境を越え、同年代の若者たちが集ってこそのオリンピック。その裏で老人だの中高年だのがうろうろするから、怪しげになる。心機一転、ということなら、デザインだって、選手たちと同じ若手に作ってもらったらどうだろう?
若手なら、作品数も知れているから、身体検査がしやすい。そりゃ、たしかに、こなれていない面もあるだろうが、あくまで選手や観客がいてこその、その気分を盛り上げるための脇役。それより、おもてなし、のホストとして、素性が正しく、礼節に沿ったものであることこそが大切。展開のアートディレクションがどうこう言うのなら、それは年配の経験者たちがサポートしてやればいい。
選ぶのだって、私のような世代、感性が干からびかかっている中高年の出る幕じゃあるまい。選手たちと同年代の各県代表とかが、わいわいやって、自分たちで決めればいい。もちろん、ガキだけの祭り、じゃないんだから、候補が五個くらいになったら、商標だけ仮登録して公開し、日本の津々浦々の人々、周辺諸国の人々、そして、世界の人々の意見も、いろいろ聞いてみたらいい。
コミットメント、つまり、参画。オリンピックは、勝ち負けじゃない。参加することに意義がある。おもてなしもまた、みんなで参加して、どうしたら世界の選手や観客のみなさんに喜んでもらえるか、心を尽くして考えることこそに意義がある。それで選ばれたものが、いかにも「手作り」で、たとえ「専門家」から、なんだかなぁ、と思われても、いいじゃないか。デザインは、優劣じゃない。まさに、心のかたち、だ。
今度の発表は、東北で、あの松の木の下でやろうぜ。あんな悲劇さえなかったなら、本当だったら、このオリンピックを一緒に楽しむことができたはずの人々。その、いなくなってしまった人々に、ちゃんと報告しよう。そして、エンブレムに誓おう。私たちはあの日のことを、あなたたちのことを忘れてはいません、若い力で、かならずこの国の明るく平和な未来を築いていきますから、どうかこのオリンピックを、最後までずっといっしょに見守っていてください、と。
忘れるな、今回のオリンピックは「復興五輪」を掲げ、他に多くの候補地もあった中で、世界からようやくに選んでいただいたものだ。震災で亡くなった人々の目をしかと見据え、いまだ荒涼たる野原のままの被災地をつねに思い起こし、恥穢れの無い、日本の復興再生へ向けての旗印を、次の時代を担う若者たちにこそ、ぜひ作ってもらいたい。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。元ドイツ国立グーテンベルク大学メディア学部客員教授。専門は哲学、メディア文化論。)