営業利益の66%を海外事業が稼ぐ

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■慢性的な赤字事業を「ドル箱」に変えた40年前の挑戦

日本企業はいつから米国での現地生産を始めたのか――。最もよく知られている事例はソニーだろう。1972年、米南西部のカリフォルニア州サンディエゴでテレビの組み立て工場を稼働させている。

その翌年の73年、キッコーマンは中西部のウィスコンシン州ウォルワースにしょうゆの醸造工場を建設している。ホンダや日産、トヨタが現地生産を始める約10年前のことだ。このほかにはYKKが74年に南東部のジョージア州メーコンにファスナー工場を建設しているが、原材料の現地調達まで行うという食品工場の建設は、異例だった。

しょうゆの初の海外生産から今年で40年。同社の海外事業は売り上げで46%、営業利益で66%を占めるまでに成長した。現在、海外の生産拠点は北米に2カ所、中国に2カ所、さらに台湾、シンガポール、オランダと7カ所を数える。

キッコーマンは現地生産を始める16年前となる57年、米国に販売会社を設立し、しょうゆの販売を本格的に始めている。しょうゆは少しずつ北米市場に浸透していったが、日本からの輸出では輸送費がかさむこともあり、慢性的な赤字事業だった。この赤字事業を「ドル箱」に変えたのが、「海外通」の茂木友三郎名誉会長だ。

創業家出身の茂木は、61年にコロンビア大学ビジネススクールで日本人初のMBAを取得。当初は「家業」であるしょうゆにそれほどの思い入れはなかったようだが、現地でのしょうゆの試食販売(デモンストレーション)のアルバイトの経験などから、「しょうゆを海外で売る」という未知の仕事に魅了されていく。

しょうゆの本格的な普及には、現地の食文化に取り入れてもらう必要がある。そうした考えから、同社では、レシピの開発や店頭でのデモンストレーションなど、さまざまなマーケティング活動に力を入れた。そのうち、肉をしょうゆに浸して焼く「テリヤキ」という食べ方が人気を集めるようになった。消費は順調に伸び、現地生産の開始で事業は一気に拡大した。

市場のないところに、市場をつくる。アジアの見知らぬ調味料を、米国の食卓に溶け込ませる。なぜそうした挑戦が成功したのか。1つの答えが、同社の人事政策にある。

茂木は海外事業を担う「グローバル人材」の要件として、「異文化に順応するのではなく、適応することが必要だ」と著書で述べている。

「適応性は順応性と違う。順応性というのは、一応適応はするが、元に戻らなくなってしまうことを指す。たとえば、アメリカに住んだらアメリカ人になってしまうということだ。適応性とは相手が変われば、それに応じて自分も柔軟に適応できる能力のことである。アメリカに住めばアメリカの文化に、ヨーロッパに行けばヨーロッパの文化に適応できる人でなくてはならない」(『キッコーマンのグローバル経営』)

具体的にはどういうことか。同社の海外事業を担ってきた2人のキャリアから、その手法を探ってみたい。

■海外勤務は35年目「いつでもどこでも参ります」

「私が入社した1973年にアメリカに工場ができたんです。『これはチャンスがあるかもしれない』と思って、入社5年目のとき『アメリカでしょうゆを売りたい』と上司に申し出た。まさか、それから30年以上も海外勤務を続けるとは思いませんでしたが」

キッコーマンの取締役常務執行役員で米国販売会社の社長を務める島田政直は、35年前に米国へ出向して以来、一貫して海外で働いてきた。

島田は大学卒業後の73年にキッコーマンへ入社。ワイン課に配属され、都内の小売店の営業担当となった。

当時、自宅は東京・世田谷区にあった。小田急電鉄の祖師ヶ谷大蔵駅から帰る途中、商店街を抜けた先で焼き鳥屋の前を通る。そのたびに、しょうゆの焦げたにおいが、鼻腔をくすぐった。

「しょうゆと肉の相性は抜群。店頭で肉をしょうゆで焼く実演をすれば、アメリカでも絶対に売れる」

入社5年目。島田は上司に海外勤務を申し出た。熱意は通じ、辞令が下る。英語を学ぶため、2カ月間、語学学校に通った。「夜中の3時まで必死にやっても、宿題が終わらなかった」というほどの猛勉強をした。赴任直前、上司に卒業試験の結果を知らされた。

「『いままで海外に行った人間の中で、最低の成績だぞ』と言われました。でも、仕方がない。『最低の成績』のまま、ニューヨークへ行きました」

現地オフィスにいる日本人は日系一世の責任者と同年代の同僚だけ。最初に苦労したのは電話だった。

「アメリカ人は『否定形』をよく使います。『Don't you think so?』と言われたときに、イエスなのか、ノーなのか。咄嗟に出てこなかった。でも必死にやれば英語はどうにかなります」

言葉より価値観の違いが壁になった。現在、同社は米国で6割近いシェアをもつが、当時は16%足らず。市場をどうひっくり返すか。ライバルはアミノ酸を合成して作る「化学しょうゆ」で、味には自信があった。米国人は天然醸造の良さを知らないだけだ。島田は販売店に「This is better than other one(ほかよりもいい)」と繰り返し訴えた。ところが販売店にこう言われた。「ライバルはあんたの4倍も売れている。いいか悪いかは関係ない。お客はこっちが好きなんだから、そんなこと言われても困る。帰ってくれ」。

「相手の立場を考えられていなかった。それからは『Quality is different(品質が違う)』と、色や味、製法の具体的な違いを説明するようにしました」

その後、島田は23年間を米国で過ごし、しょうゆ事業だけでなく卸事業にも携わった。キッコーマンの北米の売上高はいまや1000億円規模になっている。さらに2001年から12年までは欧州の販売会社の社長としてドイツを拠点に欧州市場を担当。その間、欧州市場は毎年10%以上の成長を続け、北米に次ぐ「ドル箱」となっている。去年、米国に戻り、海外勤務は35年目に。島田は「『いつ帰るか』を考えたことはなかった」と言う。

「1度も、『ずっと海外をやらせてください』と言ったことはないんです。上司には『いつでもどこでも参ります』とだけ伝えてきました。欧州に行ったとき、6年目ぐらいには『そろそろ転勤かな』とは思いました。ただ、欧州市場を伸ばせるところまで伸ばしたいとも思っていた。欧州駐在が11年になったのも、その結果ですね」

■最も重要なことは現地の文化への「リスペクト」

もう1人、代表取締役専務執行役員で、国際事業本部長の齋藤賢一も、入社以来のべ18年を海外で過ごした経験をもつ。これまでの海外赴任はすべて米国で計3回。昨年まで島田の前任として米国販社の社長を務めていた。

入社は69年。6年目のとき、かねてからの希望がかない、ロサンゼルス行きの辞令が下った。留学経験はなく、はじめての海外。76年から79年までの3年間を過ごした。

「当時はアメリカに行けること自体がインセンティブでしたね」

英語はアメリカで働きながら学んだが、しっかりした表現を身につけようと学校にも通った。週1回、午後6時半から9時半まで、英語が母国語ではない移住者向けのクラスに入った。

齋藤は「最初の1年が勝負」と言う。

「意識して、あまり日本人のいないエリアに住みました。周りに日本人がいると、日本語ばかり使ってしまう。やっぱりそのほうが楽ですからね。そのうち日本人の集まるバーに行って、日本食のレストランに行くようになる。英語は、最初の1年で集中的に覚えるようにしないと難しいと思います」

齋藤が「アメリカのことがわかった」と振り返るのは2度目の渡米。シカゴの支店長として87年から95年まで駐在したときのことだ。

シカゴを州都にもつイリノイ州は、白人が全人口の約65%を占め、その人口動態は「アメリカの縮図」と言われる。また、この地域は「ハートランド」と呼ばれ、大小の湖とトウモロコシ畑、牧草地の広がる風景は、米国人の精神的な故郷でもある。齋藤は妻と子どもを連れて、シカゴの中でも白人の多い郊外の地域に住んだ。

「『シカゴの人は気難しい』などと言われますが、コミュニティの中に入ればとても親切。たとえば郊外の住宅地にはフェンスがなく、行き来が自由です。子どもたちは、隣の家の冷蔵庫の中身まで知っている。それぐらい密度の濃い付き合いができました」

齋藤は「溶け込むには、現地の文化へのリスペクトが重要だ」と話す。

「たとえばアメリカ人はアメフトと野球が大好き。だからミネソタで仕事をするなら、NFLの『バイキングス』とMLBの『ツインズ』の歴史は知っておいたほうがいい。逆にそうした興味がないと、人付き合いは続かない」

島田や齋藤は、現地社会に深く入り、事業の深耕を担った。2人の駐在期間は同社の中でも異例に長い。全社平均では5年8カ月で、現在86人が駐在員として海外にいる。国際事業本部長の齋藤は「駐在は5〜7年をひとつの単位と考えている」と話す。

駐在には多大なコストがかかる。送り出す人材には、将来への成長期待もあるだろう。ただし齋藤は「キャリアのために海外駐在を希望するような人は大成しない」と釘を刺す。

「言葉を学び、文化を知るとは、赴任先を好きになるということ。そうでなければ、仕事になりません。社内でのキャリアを考えて、海外赴任を希望するような人はお断りです。私は海外赴任していたとき、日本に戻ってきても、社内の人には会わず、最低限の用事を済ませたらすぐに帰っていました。帰国したときのポストを考えながら仕事をしているような人は、結局どっちもうまくいかないでしょうね」

300年の歴史をもつ伝統企業の活路は、群れないサムライたちが拓いた。社内政治に「順応」した人材は、海外市場への「適応」もできないだろう。

(プレジデント編集部 星野貴彦=文 遠藤素子=撮影)