世界のスタンダードではない浦和の応援団<br>【photo by Kiminori SAWADA】

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「少なくとも、応援は世界に追いついた」との声に、僕はいささか抵抗を覚える。ACL(アジアチャンピオンズリーグ)を制し、クラブワールドカップに出場した浦和レッズのサポーターを、日本の各メディアはそう讃えたのだが、あのような応援スタイルが、世界のスタンダードではないことは、知っておいたほうがいい。

 赤をチームカラーにするチームは、世界にゴマンとあるが、あそこまで、真っ赤に染まったスタンドを、僕は過去に見たためしがない。身体を激しく上下に揺らしながら、応援歌を90分間、ほぼ途切れることなく、歌い続ける集団は無に等しい。世界の応援スタイルとは、一線を画した日本独自のスタイルだと言わざるを得ない。独自路線を爆走しているわけだ。だから、追いついたとか、越えたとか、そうした表現は、相応しくないのである。

 少数でアウェーに乗り込んだ応援団なら、まだわかる。アウェーのハンディを、選手から少しでも取り除いてやろうと、頑張って歌い続ける。これならまだ、世界にもギリギリあり得そうな光景だ。しかし彼らとて、基本的には観戦者だ。まず観戦ありき。応援を最大の目的に、わざわざスタジアムに足を運ぶわけではない。

 浦和のみならず、ゴール裏に陣取るJリーグの各クラブのサポーターは「見る」という行為が、いささか疎かになっている気がしてならない。常に声を張り上げ、身体を上下に揺らしていては、試合がよく見えるはずがない。

 それが端的に表れるのが、ブーイングのシーンだ。反応が決定的に遅いのだ。世界のサポーターに比べて、たとえば相手に有利に吹いた審判のジャッジに対し、異を唱える反応が確実に数秒遅れている。正面スタンドやバックスタンドで、静かに観戦している人の方が、むしろ反応は早いくらいだ。

 その応援風景は、殺気漂う圧倒的なものに見える。だが、少なくとも相手選手や審判は、最初はともかく、時間の経過とともに視線に鋭さが欠けていることに気づくことになる。彼らにとって本当に怖いものが、そこにはない。あるようでいてないのだ。一方、世界のスタンドにはそれがある。視線の鋭さこそが、スタジアムに殺気を漲らせているのだ。

 たとえば「カンプ・ノウ」に応援団はいない。試合中のスタンドは、滅茶苦茶静かだ。しかし、だからこそ、時にわき起こる歌声には迫力がある。ため息にさえ殺気を感じる。98,000人の観衆が瞬間、一斉にどっとつくため息だからである。ピッチに集中していない観衆が誰もいないことを意味するため息が、巨大なスタンドに響き渡った瞬間、そこには止めどもない戦慄が走る。

 それこそ小さなパス一つにも、拍手が出る。汚い反則をした相手選手にボールが渡れば、そのたびに、スタジアムにはブーイングが湧き起こる。アウェーサポーターの応援がこだますれば、すかさずそれを打ち消す口笛が、それを遥かに超える迫力で響き渡る。
 
 応援合戦で勝利を収めても、鋭い視線と集中力で劣れば、スタジアムに真の殺気は生まれないのだ。ホーム色も生まれない。応援のための応援に終わる可能性がある。サッカーというスポーツの、芯を食ったものとは言いにくいのだ。もっとも、僕の知り合いの中には、ゴール裏で見てたんじゃあ、よく見えないし……という声が多いことも確かだ。サッカー好きほど、観戦歴が長い人ほど、その集団から外れ、正面やバックで観戦する傾向が強い。

 その圧倒的な風景に、違和感を感じている人が、次第次第に増えつつあることも事実なのである。そして、そちらの方こそ、世界に近い気が僕はする。嘘だと思うのなら、是非「世界」へ。スタンドの風景に驚き、カルチャーショックを受ける人は少なくないはず。まずなにより、ピッチの上にしっかりと目を凝らす。ワンプレイワンプレイにキチンと反応する。これこそが基本。応援の大前提だと僕は確信している。(了)

杉山茂樹
1959年生まれ。静岡県出身。大学卒業後、サッカーを中心とするスポーツのフリーライターとして多数の雑誌に寄稿するほか、サッカー解説者としても活躍。1年の半分以上をヨーロッパなどの海外で過ごし、精力的に取材を続けている。著書には、『史上最大サッカーランキング』 (廣済堂刊)『ワールドカップが夢だった』(ダイヤモンド社)など多数。