嶋清一は2008年、野球殿堂入りした。同時に野球殿堂入りが決まった山本浩二氏らは、嶋清一の写真を手に会見に臨んだ(写真:共同通信)

平成最後の夏、全国高等学校野球選手権大会は、100回目の記念大会を迎え開幕した。
この伝統ある大会で、かつて不滅の大記録を打ち立てた「伝説の左腕」がいた。長い甲子園の歴史の中で、ほかにだれも達成したことのない偉業を成し遂げ、現在も高校野球ファンの間で語り継がれる豪腕投手、嶋清一である。
だが、並外れた活躍で観衆の脳裏に鮮烈な印象を残した彼も、やがて「戦争」という時代の波にのみこまれ、「悲劇の人」となる。
『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「嶋清一」を解説する。

ベールを脱いだ甲子園最強のエース

1939(昭和14)年8月20日、第25回全国中等学校優勝野球大会の決勝を迎えた甲子園球場は、超満員の観衆による異様な熱気に沸いていました。

先攻は、初の全国制覇に王手をかけた海草中学校(現・和歌山県立向陽高校)。エースの嶋清一は、初戦から決勝までの4試合をすべて完封で勝利し、前日の準決勝ではノーヒットノーランを達成していました。

対する後攻は強豪、下関商業学校(現・下関市立下関商業高校)。ここまでの試合ですべて2ケタ安打という猛打線を擁し、快進撃を続けていました。

1回裏、今日も相手ピッチャーを火達磨にしてやろうと意気込む下関商ナインが見守るなか、マウンドに上ったのは、細身の体に丸縁メガネをかけた、見るからに温和な風貌の青年でした。

彼は周囲の様子をさして気にとめる様子もなく、いつもの動作で左腕を何度か軽く回すと、静かに息を整えます。そしてバッターを鋭く見据えるや、素早いモーションで振りかぶり、弾むように流れるフォームから時速155キロといわれる快速球を繰り出して、観衆をどよめかせました。

彼こそが、海草中が誇る左腕のエース嶋清一(1920〜1945)。この決勝戦は、猛打の下関商に連投の嶋がどこまで通じるのかが、注目された一戦でした。

はたしてこの後、甲子園の大観衆は、誰もが予想しなかった圧巻の結末をまのあたりにすることになるのです。

今回は「嶋清一」をテーマに、彼が歩んだ苦節の道のりと栄光、そして時代に翻弄された悲劇について解説します。

今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

Q1.嶋清一とは誰ですか?

現在の高校野球にあたる「中等学校野球」で活躍した伝説の投手です。

1920(大正9)年、和歌山県に生まれた彼は、運動神経に恵まれ、中学生で100mを11秒、走り高跳びで1m65cmを記録するなど、「並外れた」素質の持ち主でした。また、その温和な人柄は周囲から親しまれる存在でもありました。

海草中学校ではエースとして甲子園で活躍した後、明治大学に進学して六大学野球の道に進みます。大学時代には、南海軍(現・福岡ソフトバンクホークス)からスカウトが来るような、将来を期待された投手でした。

1年生でレギュラー獲得

Q2.嶋の野球との出会いは?

当時、すでに野球は国内で人気スポーツでした。嶋も尋常小学校の頃から野球にとりくみ、海草中学入学後はその才能を開花させます。野球部への入部早々、1年生でレギュラーとなり、その年(1935年)の夏の甲子園には一塁手として出場しました。

5年制だった当時の旧制中学校で、3年生で投手に抜擢された後も、春・夏合わせて5回の甲子園に出場しています。

Q3.嶋は甲子園に出場するたびに大活躍したのですか?

いいえ。なかなか活躍できませんでした。それは、3つの大きな壁に阻まれたからでした。

1つ目の壁は、「強力なライバル」の存在です。嶋とほぼ同時期、当時すでに甲子園の強豪校として知られていた中京商業(現・中京大学附属中京高校)には、のちに「鉄腕」の異名でプロ野球のスター選手となる野口二郎(1920〜2007)投手がおり、嶋は野口との直接対決に何度も苦杯を喫していました。

2つ目の壁は、彼の「温和な性格」です。本来、嶋は抜群の制球力を持っていました。しかし、彼とバッテリーを組んでいた捕手は、嶋のちょっとした失投にもその度に不快感を表しました。他人に気兼ねしがちな性格の嶋は萎縮してしまい、突如乱調を誘発するケースが多々ありました。

Q4.嶋にとってのもうひとつ壁とは?

3つ目の壁は「ケガ」です。連日の数百球に及ぶ投球練習から左腕の神経痛を発症。その痛みから本来の実力を発揮できず、初戦敗退した大会もありました。

非凡な才能がありながら、なかなか甲子園で結果が出せない嶋に対して、地元ファンなどから「もう嶋を登板させるな」などと、猛烈な「バッシング」が浴びせられます。これに心を痛めた嶋は、チームメイトから「自殺」を心配されるほどでした。

全5試合完封、2試合連続で無安打無得点

Q5.嶋はそこからどう立ち直り「飛躍」を遂げるのですか?

最上級生となり、捕手がおおらかな性格の下級生に代わったことで、のびのびと自分の投球ができるようになりました。

また、それまでスパルタ指導だった監督が軍に出征すると、新たに招かれた監督は「ミスを一切叱らない」対照的な指導で、選手たちのやる気を引き出しました。

嶋はこの新しい体制のもと、ケガの治療にも専念して、万全の状態で「最後の甲子園」を迎えることになったのです。

Q6.嶋はどのような「大記録」を打ち立てたのですか?

1939(昭和14)年の夏の甲子園で、155キロのストレートと垂直に落ちるドロップを武器に、決勝を含む全5試合を、相手に1点も与えず完封勝利(45イニング無失点)して、海草中を優勝に導きました。その内容も、全5試合で打たれたヒットはたったの8本、奪三振57(1試合平均11個)、外野に飛んだ打球は12本のみでした。

そして何よりの圧巻は、準決勝と決勝戦での「ノーヒットノーラン達成」です。その活躍は、当時「天魔鬼神の快投」と絶賛されました。2試合連続でノーヒットノーランを達成したのは、今年で100回を迎える甲子園の歴史のなかでも、嶋ひとりしかいません。

Q7.中学卒業後、嶋はどうしたのですか?

1940(昭和15)年、彼は明治大学に進学します。しかし、部内には後に巨人で200勝投手となる大エース、藤本英雄(1918〜1997)が上級生におり、登板の機会はほとんど与えられませんでした。

また、練習の際には上級生の捕手が嶋に対し、構えたミットから外れる投球を捕球せずわざと後逸し、それを嶋に何度も取りに行かせるなど、ここでも「上下関係」の折り合いの悪さから、実力を発揮できませんでした。

学徒出陣で海軍に入隊

Q8.その後、嶋は大学野球で活躍できたのですか?

戦争の激化により、深刻化する航空兵と下士官の不足を補うべく、1943(昭和18)年にそれまで守られてきた文科系学生への徴兵猶予が廃止されます。嶋ら多くの学生も、「学徒出陣」で軍に入隊しました。

Q9.嶋のような功績ある人への兵役免除はなかったのですか?

ありませんでした。当時は「総力戦」という、国民全員が戦争に協力する体制で、功績のある選手も例外ではありません。たとえば、東京巨人(現・読売ジャイアンツ)のエースとして活躍中だった沢村栄治(1917〜1944)も出征し、のちにフィリピンで戦死しています。

野球に限らず、多くの優秀なアスリートたちが戦場に送られました。

Q10.軍隊ではどんな任務についたのですか?

1943(昭和18)年12月、海軍に入隊した嶋は、広島で新兵教育を受けたのち、横須賀の通信隊でレーダーに関する知識と技術を学びました。

そして、紀伊防備隊(和歌山県由良町)でレーダー監視の任務を行った後、1944年12月に、長崎で竣工したばかりの「第八十四号海防艦」に配属されました。

Q11.「海防艦」とはどんな艦艇ですか?

第二次世界大戦中に建造された、対潜水艦能力に特化した「小型」の戦闘用艦艇の一種で、沿岸警備や船団護衛などに使用されました。

嶋が乗った第八十四号海防艦は、高性能水中レーダー(三式水中探信儀)を搭載しており、嶋はこのレーダー要員に抜擢されたのでしょう。この艦には、対空用の高角砲や機銃のほか、潜水艦を攻撃する大量の「爆雷」も装備していました。

Q12.嶋の乗った海防艦はどうなったのですか?

1945(昭和20)年3月、第八十四号海防艦は、訓練もままならないまま南方に派遣されます。シンガポールから日本に向けて、国家の「生命線」でもあった石油等を運ぶ輸送船団「ヒ88J」の護衛任務のためです。

この頃には、日本軍の主力艦艇はほとんど壊滅し、南方からの物資輸送は非常に困難を極めていました。ヒ88J船団も例外ではなく、シンガポール出港直後から、米軍の空襲や潜水艦の雷撃等により、輸送船を相次いで失っていました。

そして3月29日早朝、輸送船が小型タンカー1隻となった船団がベトナム沖を航行中に米潜水艦に発見され、魚雷攻撃を加えられます。6時14分、船団の最後尾を航行する第八十四号海防艦に魚雷が命中。艦は瞬時に大爆発を起こして轟沈しました。

原因は弾薬庫の誘爆とみられ、海防艦の強みである大量の爆雷搭載がアダとなったのです。

乗員191人は「全員戦死」。かくして、かつて甲子園を沸かせた豪腕エース、嶋清一海軍一等兵曹は、南洋の海原に24年の短い生涯を閉じたのでした。

嶋の功績は未来永劫に

戦争が終わり、嶋清一の名は人々の記憶から長く忘れられていました。


しかし1998(平成10)年、第80回の夏の甲子園で、当時「平成の怪物」と呼ばれた横浜高校のエース松坂大輔(現・中日ドラゴンズ)投手が、嶋以来59年ぶりとなる決勝戦でのノーヒットノーランを記録すると、嶋の偉業が再び知られるようになります。

現在、東京ドーム(東京都文京区)にある野球殿堂博物館には、戦争で亡くなった中等学校・大学・社会人野球の選手167名の功績を称える記念碑「戦没野球人モニュメント」が設置され、嶋清一の名前も刻まれています。

今夏、100回目を迎える高校野球の歴史のなかには、嶋のように時代の波に翻弄された名選手たちがいたことも忘れてはなりません。こうした「日本史の悲劇」を学び、誰もが野球をはじめとするスポーツを心おきなく楽しめる「平和」について、あらためてかみしめる機会にしたいものです。