練習では決して手を抜かず、常に自分に厳しく、高い意識を持ってやる。そうした姿勢が、成長の土台となったのは間違いない。
 
 中学3年時の2003年。高円宮杯U-15第15回全日本ユースサッカー選手権で3位と躍進した。一気に注目を浴びるFC千葉なのはなジュニアユース。なかでも米倉と山崎の名は関係者の知るところとなった。
 
 高校進学の際、彼らの元には強豪校やJクラブユースから複数のオファーが届いた。千葉の名門・市立船橋高と流通経済大柏高も含まれたが、彼らが選んだのはそのどれでもなく、県立の八千代高だった。
 
 同校は97年の選手権で羽生らを擁してベスト8に進出するなど、全国レベルの力を有していた。しかし、県内には市立船橋高と流通経済大柏高の2大勢力が存在し、この壁を打ち破って全国へ駒を進めるのは至難の業だった。
 
「市船、流経大柏を倒して全国に行きたい。そして、プロになりたい」
 
 米倉は確固たる決意とともに、八千代高を選択。FC千葉なのはなジュニアユースから同校に進学したのは、米倉と山崎を含めて6人だった。
 
「加入当初から、ものすごく意識の高い選手ばかりだった。特に米倉はキャプテンタイプでしっかり者。身体能力も高かったので、山崎と一緒に1年時からレギュラーで使いました」
 
 こう語るのは、当時、八千代高サッカー部の監督だった砂金伸。現在は県内の強豪校である習志野高で指揮を執っているが、米倉とは不思議な縁で結ばれていた。
 
取材・文:安藤隆人(サッカージャーナリスト)
 
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