東日本大震災から丸2年が経過 私たちに出来ることは

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東日本大震災から丸2年が経過した。2011年3月11日、14時46分。あの日、あのとき、自分は何をしていたのだろう。




筆者は、2011年3月11日の14時46分に、台東区竜泉の立ち食いそば屋でゲソ天そばを食べていた。突然、店の棚にある丼がカタカタと揺れ、床に落ちた。食べかけのそばを残し、店を出る。




まっすぐな細い道の両脇にならぶ電信柱が、クネクネとしなる。道路のアスファルトが波打っている。ゲストハウスから飛び出してきた白人男性が、頭を抱えながらこう叫んでいた。「End of the world」。




私たちは、忘れやすい。だから、大切なことは、ときどき思いだす必要がある。今日は、震災当日の自らの記憶をたどることによって、東日本大震災が「あった」ということを、少しの時間でもよいから思い出してみるのはどうだろうか。




また、いつでも、どこでも構わない。数秒でも、数分でもいい。手は、合わせても、合わせなくてもいい。今日は、震災で犠牲になった人々や被災者として生き残った人々のことを考えたい。




2013年3月8日付の警視庁の広報資料によると、死者数は15,881人、行方不明者数は2,668人、負傷者数は6142人にのぼる。建物被害は、全壊が128,801戸、半壊が269,659戸となっている。




一度の天災によって、これだけの人が亡くなり、行方不明となったことの重みは、覚えておいた方がよい。なぜか。天災は、いつ自分に襲いかかってくるか分からない災害だからだ。




そして、福島第1原発事故は、決して「収束」などしておらず、現在も進行中の問題であることを、今日はあらためて確認したい。




3月10日付の福島民友新聞によれば、福島県では事故の影響で、「15万人以上の県民がふるさとを追われたまま」なのだ。「帰還の鍵を握る除染は遅れ、放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施設の設置に関して地元住民の理解は進んでいない」。




加えて、「30〜40年と見込まれる福島第1原発の廃炉作業は、増え続ける汚染水処理などで序盤から難題に直面」しており、「今年11月中旬にも4号機の使用済み燃料プールから1533体の燃料取り出しが始まるが、1〜3号機の解け落ちた燃料の取り扱いのめどはまったく立っていない」。




震災直後、「絆」という言葉がブームとなった。だが、今はあまりその言葉を聞かない。勢いよく「絆」などと騒ぐのもよい。しかし、一時のブームに乗っかり、騒ぎたて、しばらくすると忘れてしまうくらいなら、粛々と震災当日のことを思い出し、犠牲者と被災者に思いを馳せ、震災のことを忘れないような、ささやかな努力をした方がましだと思うのは筆者だけであろうか。




(谷川 茂)