目黒区美術館「DOMA 秋岡芳夫展――モノへの思想と関係のデザイン」チラシ(2011年12月25日まで開催中)。同展の会場には、秋岡の書斎にあったスチール製の書架が蔵書とともに展示されていた。じつはこれ、秋岡の父親である秋岡梧郎が発明したものだという。父・梧郎は図書館事業に一生を捧げた人物で、日比谷図書館や深川図書館の館長などを務めた。図書館というと閉架式が主流であった時代から開架式図書館への移行を提唱していた梧郎は、その実践のため書棚、カード簿、自動統計機などを自ら発明し、その発明品のなかでも今回展示されている公開書架「オープンセルフ」(1967年に実用新案権を取得)はもっとも需要があった1点だという。「開かれた図書館」をめざした父にして、この子あり。秋岡は「開かれたデザイン」を生涯かけて追求し続けたといえるのではないか

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鉄道の車両デザインを個人のデザイナーが手がけるということは、いまではさほど珍しいことではない。JR九州では水戸岡鋭治という工業デザイナーが九州新幹線「つばめ」の800系電車をはじめ数々の車両をデザインしているし、JR東日本が2013年春より秋田新幹線での営業開始をめざして現在試運転を繰り返しているE6系電車は、フェラーリのカーデザインなどで知られる奥山清行がデザインを監修したものだ。

それでも民営化前の旧国鉄時代には、車両をつくるのに民間からデザイナーを起用するなんてことはなかったんだろうなあ……と思いきや、じつは50年以上前にすでに先例があった。それは1958年、東京〜博多間を結ぶ寝台特急「あさかぜ」に20系客車という新鋭車両が登場したときのこと(この客車は外部塗装を青一色にしたことから、寝台特急が「ブルートレイン」と呼ばれるきっかけをつくった)。このとき国鉄から発注を受けた日本車両と日立製作所はそれぞれ外部のデザイナーと組んで車両を製造している。このうち日立製作所は工業デザイナーの鈴木富久治と秋岡芳夫と組んだ。だが、この試みは国鉄内の“車両屋”と呼ばれた技術者たちが彼らを素人とみなしていたこともあり、あまりうまくはいかなかったようだ。報酬もいわば「お国の仕事」のため安く、秋岡は事務所の仕事として受注できず個人で引き受けざるをえなかったという。

秋岡芳夫はこの「あさかぜ」をはじめさまざまなモノを造形するとともに、独自のデザイン思想から多彩な活動を展開した。また童画家として絵本なども手がけている。そんな秋岡の多岐にわたる仕事を振り返る回顧展「DOMA 秋岡芳夫展――モノへの思想と関係のデザイン」が現在、東京の目黒区美術館で開催中だ(会期は12月25日まで)。熊本出身ながら少年時代に父の仕事の関係で上京した秋岡は、小学校入学を前に目黒に引っ越して以来、1997年に76歳で亡くなるまでこの地で活動を続けた。地元ゆかりの作家の展覧会とあってか、目黒駅から美術館へ向かう途中にある権之助坂商店街にも同展の垂れ幕が掲げられていた。

1953年、秋岡は目黒の自宅を拠点に金子至と河潤之介とともに工業デザイングループ「KAK(カック)」を設立した。秋岡は後年、この時期に請け負った仕事で、よい意味でも悪い意味でも印象に残っているものとして「鉛筆」と「電車」をあげていたという。このうち「電車」とは前出の「あさかぜ」のデザインであり(厳密にいえば、「あさかぜ」は機関車が牽引する列車なので電車ではないのだけれど……まったくもってテツな指摘で申し訳ない)、一方の「鉛筆」は三菱鉛筆「ユニ」のデザインを指す。「あさかぜ」は列車そのものが廃止されて久しいが、ユニはいまにいたるまで多くの人びとに愛用されているロングセラーだ。KAKによる、角や平面に丸みを持たせるといった基本デザインはいまも変わっていない。とはいえクライアント側に初期提案を否定されるなど、この仕事も秋岡にとってはけっして十分に満足がゆくものとはいえなかったようだ。

工業デザインは、大量生産するという前提もあり、デザイナーには常に制約がつきまとう。そのなかにあってKAKは、のちのちまで名作と語り継がれるモノをつくり出してきた。たとえば写真撮影に用いる露出計「セコニック カラーメーター タイプCT-2」(1955年)は、日本の工業デザイン史を語る際には必ずといっていいほどとりあげられる。今回の展覧会ではKAK時代の秋岡の仕事としてこのほか、カメラやオートバイなどが展示されているのだが、ひときわ目を惹くのは学研の学習雑誌「科学」と「学習」のふろくの数々だ。学研では1964年、雑誌のふろくといえば紙製という常識を打ち破り立体化が検討され、しかも「ふろく」という概念から学習のための「教材」と意識を変えて、そのデザインを秋岡に依頼した。わたしが「科学」を定期購読していた小学生時代(1980年代)には電子部品を使ったふろくも結構あったけど、1960年代ではまだ風やゴムで動かしたりとさすがに単純なしくみのものが多い。デザインもシンプルながら、しかしけっしてチープでなく、子供が十分に楽しめそうなものばかりである。たとえば、「太陽熱湯わかし器」という小学5年生向けの教材は、鏡に太陽光を集めることで水をかなりの高温にまで沸かすことができたようだ。

最初期こそ秋岡個人がデザインを手がけ(やがてKAK全体で取り組むようになる)、素材も木などの自然素材が使われていた学研のふろくも、雑誌の発行部数が増えると大量生産しやすいプラスチック製へと変わった。このなかで秋岡はしだいにフリーランスのデザイナーの限界を感じるようになる。KAKでは企業とともに熟考しながら、使う人の目線に立ってきめ細かなデザインを心がけてきたが、それは大企業が求める大量生産・大量消費の容易なデザインとは根本的に矛盾するものであった。こうしたことへの疑問から秋岡は1969年にKAKを離れると、自身の事務所にデザイナーや企業の企画者、技術者、販売者などを集めて、新しい商品のあるべき姿を話し合う場を設けた。

そこでの会議の方法は、黒板へスライドプロジェクターで投影したイメージにチョークで書きこみをしながら検討するとともに、それをインスタントカメラで撮影したりテープに録音したりして、その場にいなかった人にも会議内容を共有できるようにしておくという合理的なものだった。いまでこそ会議でプロジェクターを使うことなど珍しくないが、当時としては画期的だったろう。会議のやり方だけでなくそこでとりあげられたテーマにも時代を先取りしたところがあった。ひとつ例をあげるなら1970年代前半、ヤマハ発動機から当時ネガティブなものとなっていたオートバイのイメージを回復するべく、新たな考え方を導入できないかとの依頼が秋岡のもとに舞いこんだ。展覧会ではこのとき実際に会議で使われたスライドやスケッチも展示されているのだが、そのなかには、若い女性向けにかわいくて便利で軽い車として、いまのセグウェイを思わせるデザインをした車のイラストもあったりして興味深い。

秋岡はまた、事務所での会議とはべつに、さまざまな職種のプロや生活者が集まって、ものづくりと暮らしのありようを夜通し語り合える場をつくり、これを「モノ・モノサロン」と名づけた。このサロンでは、参加者の提言から、それに共感した人たちがチームを組み「グループモノ・モノ」と名乗って新たなプロジェクトを試みるということも少なくなかったという。「グループモノ・モノ」がユニークなのは、メンバーが固定しておらずプロジェクトごとに入れ替わっていたということだ。

この「グループモノ・モノ」での活動を通して秋岡は、日本の伝統的な工芸に新たなスポットを当て、地方のものづくりにかかわるプロジェクトにも力を入れるようになる。1980年代以降は東北や北海道、島根県などの過疎地における地域デザインに取り組んだ。そこでは、農閑期や週末、夜間、あるいは老後と、地域の人たちがおのおの自由の利く時間にものづくりに参加するという「コミュニティ生産方式(里もの生産方式)」が提案され、じっくりと時間をかけながら実践が展開されてゆくことになる。これら地域では、秋岡が亡くなってからも現在にいたるまで活動が続けられている。

こうして秋岡の経歴をたどっていくと、合理的な会議の方法といい「モノ・モノサロン」から自然派生的にプロジェクトが生まれたことといい、あるいは地域に根差したコミュニティづくりといい、情報技術の発達したいまだからこそさらなるバージョンアップが可能なものばかりのように思われる。そこではモノとモノ、人間とモノ、人間と人間など、あらゆる関係が重視される。秋岡芳夫が生涯を通して手がけたのはまさしく(その著書に出てくる語を借りるなら)「関係のデザイン」というべきものであった。そもそもKAK時代の仕事である三菱鉛筆ユニからして、鉛筆にとどまらずダース箱というプラスチックケースのデザインも手がけ、そこに芯削り用のやすりをつけることで筆箱としても使えるようにしていた。

この展覧会を観たあとで、秋岡芳夫という人をもっとよく知りたいと思い、古本屋で『デザインとは何か――伝統美と現代』という1974年に出た本を入手した。ちょうど刊行時期がオイルショックの直後と現在の世相と重なるところもあるせいか、同書はじつに多くの示唆を与えてくれる。たとえば、エジソンは単に電球の発明者というだけでなく、電力供給サービスと電気料金回収を一体化させたシステムをつくりあげた「システムデザイナー」であったと秋岡は高く評価する。そしてそれ以上に評価すべきは、エジソンが従来のガス灯のシステムから離れて、まったく異なる「あかり」のシステムを考えたことだというのだ。

《いまのように、石油資源の不足が叫ばれているときに、ガソリンの節約のために自家用車をやめたらと考えることはだれにでもできる。いとたやすい。しかし、ガスの供給システムが、なんの問題もなく「あかり」を灯していた時点において、ガスシステムを「やめる」と考えるのは勇気のある創作である。当時としてはたいへんな冒険でもあったにちがいない。しかし、エジソンはガス灯をやめて電灯をつくり出した。
「やめる」も「創る」なのである。
「やめたこと」で、なにかまた新たにことが始まる》

この一文からは、「関係のデザイン」を突きつめると、結局のところ社会全体のデザインに行き着くのだということがよくわかる。さて、わたしたちはいま、いったい何をやめることで新たなものを創り出すことができるのだろうか。(近藤正高)