城持ち大名まで出世したのに、後世では「盗賊」扱い…秀吉の相棒・蜂須賀正勝が悪名を背負わされた理由

■最古参・蜂須賀正勝の“最大の見せ場”
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第36回(9月20日放送)では、秀吉(池松壮亮)と共に歩んできた蜂須賀正勝(高橋努)が歯に衣着せぬ言葉で、“もはやお前は変わってしまった”と言わんばかりに語りかけるシーンが話題となった。史実では、四国攻めでは既に隠居の身であった正勝は戦勝の暁には阿波一国を与えるといわれるも辞退。子の家政に与えることを熱望した(正勝は目付として参陣)。
長宗我部氏の降伏後、その願いは叶えられたが、これを見届けるかのように天正14(1586)年5月に正勝は61歳で死去している。
だから、第36回は、今回のドラマでは脇に廻っている感のあった正勝の最大の見せ場だったといえるだろう。
さて、この正勝は通称の小六としてのほうがよく知られる人物。かつての一般的な描かれ方は盗賊の類いとしてであった。
秀吉との出会いは、秀吉が矢作橋の欄干にもたれ掛かって寝ていたところを、手下を連れて通りがかった野武士の小六と出会うというものである。例えば、矢田挿雲が大正末から昭和初期にかけて新聞連載した長編小説『太閤記』には、こう書かれている。
■江戸時代には定着していた“盗賊イメージ”
蜂須賀小六正勝は、其の頃二十五歳の男盛りであった。戦国のどさくさにまぎれ、遠近の野武士を語らい、数百人の団結をつくり、軍(いくさ)のある時は軍を請負い、軍のない時は山野に出没して、旅人の財布を巻上げたり、富豪の家に押しかけて軍用金を徴発したり、名の正しきと正しからざるとに頓着なく、何事も力ずくてらちをあけることを業とした(河出書房編『日本国民文学全集』別巻第12 河出書房、1956年所収)。
単なる泥棒どころではない暴力集団である。
こうした正勝の出自を野武士、夜盗の類いとする説は既に江戸時代には定着していた。江戸時代には武内確斎が文を書き岡田玉山が挿絵を入れた『絵本太閤記』(1797~1802年刊)が人気となったが、ここではこう記されている。
(蜂須賀小六正勝は)近隣の野武士をかたらひ東国街道に徘徊し落武者の武具を剥取り人家に押入財宝を奪う其手下に属するもの一千余人勢近国に震ひける。(『絵本太閤記』1 国書刊行会、1917年)
■盗賊説は“名簿の一行”から始まった
こうした描かれ方はどこから出てきたのか。ここで注目したいのが、寛永年間に小瀬甫庵によって書かれたいわゆる『甫庵太閤記』である。ここでは矢作橋の逸話は触れられていない。正勝が登場するのは、後に墨俣一夜城として知られる場面である。
ここでは墨俣をどうするべきか相談してきた信長に、秀吉が答える中で正勝が登場している。
憚る所もなく存知寄し事を申上けるは、当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵共多く候、然間篠木柏井科野秦川小幡守山根上かは、并に北方の川筋に付て左様の兵を尋記し、其者共を番手にし、彼要害に入置給んやと申上しかは、尤也とて、名字を記し付見給ふに、千二百余人に及へり、其中にても武名も且々人に知られ番頭にも宜しからんは、稲田大炊助、青山新七同小助、蜂須賀小六〈後号彦右衛門〉同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助等也(近藤瓶城 編『史籍集覧』第6冊 近藤出版部、1919年)
筆者訳:
(秀吉は)遠慮する様子もなく自分の考えを申し上げました。
「当国には夜盗や強盗を生業にしている者たちの中に、腕の立つ頼もしい兵が多くおります。そこで、篠木・柏井・科野・秦川・小幡・守山・根上川、ならびに北方の川沿いに散らばるそのような者たちを捜し出してリストアップし、彼らを警備兵としてその要害に入れ置いてはいかがでしょうか」
と申し上げたので、(信長公は)「もっともな考えだ」として名簿を作成させてご覧になると、一千二百余人にも及びました。
その中でも武名がそれなりに知れ渡っており、守備隊長としてふさわしい者は、稲田大炊助、青山新七と同小助、蜂須賀小六(のちの彦右衛門)と同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助らでありました。
このように甫庵は、小六を「夜討ちや強盗を稼業にする連中の中でも、特に腕が立って守備隊長を任せられる者」として、秀吉が名を挙げた一人として扱っているにすぎない。いわば、ちょっと柄の悪い業界から引き抜いた現場責任者候補の名簿である。本人が街道で追い剥ぎをしていたとは、どこにも書いていない。

■“明治天皇に先祖は争えんと言われた”という逸話
ところが、この名簿の一行が、170年あまりの時を経た江戸時代後期には「手下千人を率いて落ち武者の身ぐるみを剥ぎ、民家に押し入って財宝を奪う強盗団の首領」にまで育っている。「その業界にいた人」が「その業界のドン」に出世しているのだ。秀吉の出世物語を盛るついでに、小六のほうも勝手に出世させられていたわけである。
こうして江戸時代に完成した「盗賊・蜂須賀小六」は、明治になっても消えなかった。それどころか、とんでもない場所にまで入り込んでいたとされる。
徳島藩最後の藩主で、明治になって侯爵となった蜂須賀茂韶が参内し、応接室で待たされていたときのこと。卓上にあった紙巻きタバコを、つい一本失敬してしまった。そこへ入ってきた明治天皇はタバコが一本減っているのに気づき、嬉しそうにこう言ったという。
「蜂須賀、先祖は争えんのう」
……この逸話、ネットでもまことしやかに史実として描かれている。
とはいえ、この話を史実として信用することはできない。
司馬遼太郎『街道をゆく43 濃尾参州記』(朝日新聞社、1996年)にも、この逸話は触れられているが「出典が思い出せない」とことわっている。

■「学者に依頼」後日談もつじつま合わず
さらに、この逸話には「気にした蜂須賀家が歴史学者に依頼して、小六が盗賊でないことを立証させた」という後日談がつく。
司馬も、蜂須賀家が渡辺世祐に依頼したことには触れているが、こちらも「らしい」である。
しかも、渡辺の『蜂須賀小六正勝』が出たのは1929年のことだ。明治天皇が亡くなってから17年、茂韶が亡くなってからでも11年が経っている。天皇の一言に慌てた家が学者に駆け込んだ、というには、ずいぶん気の長い話である。
そもそも、渡辺の本の序文には「昭和2年秋、偶然のことから尾張海部郡蜂須賀村に遊んで、正勝発祥の跡を見て、かねてから抱懐した考を纏めて、正勝の事歴明かにせんとするの志を起した」とあり、蜂須賀家に依頼されたとは一言も書いてないのである。
いずれにしても、こうした逸話をみるに、蜂須賀家は泥棒や強盗の類いから成り上がった小六を祖とし、その子孫が大名となり明治維新の後は侯爵となった、とんでもない成り上がりの家系である……という風に世間はみていたのだろう。
このことは、蜂須賀家はもちろん、同家が長く治めた阿波、淡路の人々にとっても許容しがたいことであった。
■徳島県人会は高名な歴史学者を頼った
1926年には、徳島県出身者によって『在阪徳島県人会雑誌臨時刊行 蜂須賀正勝公顕彰号』(在阪徳島県人会事務所、1926年)が刊行されている。この冊子、冒頭の刊行の辞からして小説と事実がごっちゃにされて汚名ばかりが伝わっていることに怒りを隠さず「この真相を明にすることは阿淡に生を享けたものの勉めねばならぬことと思う」とまで書いている。
そんな冊子に文を寄せているのは、徳島県出身で当時の高名な歴史学者であった喜田貞吉である。
小松島に生まれて第三高等学校から帝国大学で歴史を学んだ「文学博士」である喜田は体験を交えて、学者らしい筆致で文章を綴る。
我が阿波の国は、十郎兵衛(浄瑠璃『傾城阿波鳴門』の人物)と小六とによって有名になって居るのだ。そしてそれが、やれ海賊だ、強盗の張本だなどと言はれて居るのだから、阿波国人たるもの、豈に恐れ入れざるを得んやだ。
そして、このたび大阪に正勝の墓碑が建立されたことをきっかけに記念帳(この顕彰号)を発行することになったから、なにか書けと依頼されたので「蜂須賀小六強盗一件に就いては、歴史家として一言なき能はざる機会となった」とし、筆を進める。

■「冤罪」から一転「強盗もしたであらう」
もちろん、最初は矢作橋での邂逅の一件の全否定だ。もともとは江戸時代の俗書に過ぎなかったのに、それを火元に今では映画にまでなっていることを喜田は批判。ついには、こう結論づけるのだ。
蜂須賀小六は強盗の張本だなどといふ事は、小六其の人に取って冤罪の甚しいものであるのみならず、我々阿波国人に取っても大いに其の侮辱を感ずべきものであって、藩祖の為にも、亦我々自身の為にも、十分其の冤を雪がねばならぬのである。
……ここまで読んで、蜂須賀家や県人会の人たちは喜んだろう。「いやあ、やっぱり高名な喜田先生にお願いしてよかった!」と。
ところが……次の段落になった途端に喜田の筆致は豹変する。次の段落の冒頭は、こうだ。
併しながら「果たして我が正勝公は決して強盗を働かなかったか」と反問されて見ると、之に対して自分は決して「然り」と答へることは出来ない。
ここからの喜田は、前半の反証よりはるかに筆が冴えている。自分はむしろ進んで「正勝公も恐らく強盗もしたであらう、人殺しもしたであらう」と答えるという。そもそも「切取強盗は武士の習ひ」とは事実を喝破した名言であり、戦国の武士で切取強盗すらできない者がいたら、それは甚だしい腰抜けだ。人殺しは平時なら大罪だが、今日でも戦時の敵に対しては公然と許され、胸に金鵄勲章を光らせる殊勲者がいるではないか。戦国時代は常に戦時だったのだ、というわけだ。
■“平和時代の思想で、過去の事象を批評してはならぬ”
さらに喜田は、軍用金集めの強盗なら近ごろもあったと、1885年の大阪事件を持ち出す。自由党左派の大井憲太郎らが朝鮮の改革派を支援するクーデターを企てた事件で、その資金集めに強盗を働いた者がいた。しかし、世間は彼らをただのこそ泥とは見なさなかった、と。
極めつけに、小六を強盗と言うなら、手引きして一緒に稼いだ日吉丸、すなわち太閤秀吉も同罪ではないかと切り返す。お隣の国には「馬賊上り」の大偉人が国家の重鎮として活躍しているではないか、とまで書く(満州の張作霖のことである)。
要するに、正勝も強盗や人殺しくらいやっていただろう。だが、それが悪いことか。当時はみんなやっていたのだ。だから「後の平和時代の思想を以て、過古(注:原文のとおり)の混乱時代の事象を批評してはならぬのである」というわけである。
思えば喜田は、1911年の南北朝正閏問題(南北朝時代の皇統のどちらを正当とするかの論争で、当時の政争の火種にもなっていた)で、国定教科書の記述は南朝が正当とすべしという、山県有朋らの圧力に対して「併立とすべし」と自説を曲げず、文部省編修官を休職に追い込まれた人物だ。国会で問題にされても学説を曲げなかった碩学に、地元の県人会から頼まれたくらいで「小六公は潔白でございます」と書かせるのは、そもそも無理な相談だったのかもしれない。
■400年目にようやく得た“最古参の相棒役”
もっとも、ご先祖様を讃えるための記念の冊子で「強盗も人殺しもしたでしょうね、やれなきゃ腰抜けですから」ということを書かれてしまったのに、そのまま掲載した県人会の面々の度量も目を見張るものがある。
過去を今の物差しで裁くか否か。銅像の撤去が議論される現代にもそのまま通じる問いを、喜田は100年前、よりによって顕彰号の中で投げつけていたのである。
結局のところ、小六を盗賊にしたのは、戦国の史料ではない。秀吉の出世物語を面白くしたかった江戸の作者たちと、それを平和な時代の物差しで面白がり続けた後世の読者だった。
では、実際の小六は何者だったのか。尾張国海東郡蜂須賀郷(現・愛知県あま市)を本拠とした国衆で、美濃の斎藤氏や尾張の織田一族のもとを渡り歩いたのち、秀吉を最も古くから支えた一人となった人物である。
中国攻めでは、槍働きよりも、毛利方との講和交渉のような調整役として重用され、播磨龍野の城主となった。四国攻めの後には阿波一国を辞退して息子に譲っている。どう見ても、手下千人を率いて民家に押し入る親分の履歴ではない。若い頃に切取強盗を働いたかどうかは、喜田の言うとおり、当時の武士ならやっていても不思議ではない、という以上のことはわからない。確かなのは、「その業界にいた人」の名簿の一行が、なぜか後代に「盗賊の親分」という役を割り振られてしまったことだけである。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の小六は、変わってしまった秀吉に面と向かって“お前は変わった”と言わんばかりに語りかけた。盗賊の親分としてではなく、最古参の相棒としての去り際である。400年目にしてようやく、小六は本来の役をもらえたのかもしれない。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)
