大前研一「リニア撤退論」は正論だが手遅れ…JR東海がどんな難工事でも開業延期を選べない”3兆円の事情”
■一向に着工しないリニア静岡工区
「いつになったら、JR東海はリニア静岡工区工事に着手するのか?」
そんな疑問の声が、静岡県関係者などの間で出ている。
静岡県の鈴木康友知事がことし7月7日の県議会で、東京・品川-名古屋間で唯一未着工だったリニア中央新幹線南アルプストンネルの静岡工区着工の容認を発表した。

鈴木知事は7月18日、JR東海の丹羽俊介社長と工事における南アルプスの自然環境保全協定を結んだ。また、静岡市が盛土規制法に基づくJR東海の申請を許可することも決まり、静岡工区の着工に向けた行政手続きはすべてクリアした。
協定締結後の囲み取材で、丹羽社長は「今後、地元で工事説明会を開き、起工式・安全祈願祭を行っていく。いつ、リニア工事に着工するかは未定」などと話した。しかし、その2カ月後の9月17日の会見でも、「着工時期は未定」と変わっていないのである。
ことし3月、静岡県の専門部会がJR東海のすべての説明を承認して、約8年間に及ぶ「対話」を終了した。静岡工区の着工は事実上そこで容認されたのと同じだった。
鈴木知事の県議会での容認表明に続いて、丹羽社長を静岡県庁に招いての協定締結式は、川勝平太前知事時代の「反リニア」という世間の見方を全面的に払拭する全国に向けてのイベントに過ぎなかった。
実際にはJR東海は、ことし3月から早期着工に向けて水面下で準備を進めることが可能だった。
■動きの鈍さに地元からは疑問や不安の声
ところが、3月からは約半年間、7月の対外的イベントが終えてからも2カ月が過ぎた今もなお、JR東海は地元説明会、起工式・安全祈願祭の開催に関する日程調整などに手をつけていない。
あれほど1日でも早い「早期着工」を強く求めていたのに、その動きの鈍さはいったい何なのか。静岡県関係者などの間では疑問の声だけでなく、不信感さえ抱く人が出ている。
そんな不信感をさらに増大するように、雑誌『プレジデント』2026年10月2日の最新号で、国際的な経営コンサルタントの大前研一氏が静岡工区の工事の大幅な遅れを踏まえて、「この先に明るい未来は想像できない。JR東海には、取り返しのつかない事態になる前に引き返すことをすすめたい」などリニア建設の一時撤退を訴えたのだ。
果たして、大前氏の主張通り、リニア建設をそのまま続けることで取り返しのつかない事態となってしまうのか。
■大前研一「リニアは失敗する」
『プレジデント』に掲載された大前氏の「日本のカラクリ」と題する連載コラムでは、いくら未着工だった静岡工区の着工ができても、3つの理由でJR東海のリニアは失敗すると主張している。
1つ目の理由に、「南アルプスルート」の選択を挙げた。
大前氏は「南アルプスの下、岩盤の厚さが最大1400メートルに達するリニア工事では、想定以上の大破砕帯に当たる可能性がある。難工事になるほど事故のリスクは高まる。作業員の命に関わるリスクを背負ってまでやるべき工事なのか」などと疑問を呈している。
直線で総距離が短い南アルプスルートは、総工費が抑えられ、名古屋に早く到着できる経済性メリットを重視した選択だった。
ところが、南アルプスルートを選んだため、静岡で工事が止まり、資材や労務費が高騰したことなどで、「当初計画では総工費約5.5兆円だったが、2025年の見直しで約11兆円に膨らんだ」と分析している。
その上で大前氏は「民間事業だから自業自得、では済まない。建設資金のうち3兆円は国の財政投融資から借り入れだ。リニアで失敗すれば、返済が滞るリスクがあり、国民はすでに巻き込まれている」と指摘している。
■「各駅停車のリニアでは所要時間の短縮は10分だけ」
大前氏の挙げる2つ目の理由は、リニアの最大の売り物である「所要時間」だ。

リニアは品川-名古屋間を最速40分で結ぶとしているが、これは途中駅に停車しない場合の話であり、何本かに1本の列車は神奈川、山梨、長野、岐阜の4県に各駅停車しなくてはならない。その場合、1時間強はかかるという。
JR東海は品川駅での乗り換えを最短3分と想定しているが、大前氏によると、東京駅から品川駅まで約10分、品川駅からリニアホームまで約10分かかり、それらを合わせると東海道新幹線のぞみとの差は10分程度だという。
大前氏は「リニアの時間の優位性が大きく開くのは大阪まで延伸してからだが、名古屋以西は駅の位置すら固まっておらず、社長自ら新大阪駅につなぐ工事は難度が高いと言っている」などとして、「名古屋開業までのリニアに大きな時間短縮の期待をかけることは難しい」と説明する。
■「リニアと東海道新幹線は乗客を食い合う」
リニアが難しい3つ目の理由に、「乗客の抵抗感」を挙げている。
ルートの約86%がトンネルで車窓の景色は期待できないリニアについて、大前氏は「万一、岩盤の厚さ最大1400メートルのトンネル内で列車が止まったらと想像するだけで、生きた心地がしない乗客もいる」と指摘。最初は物珍しさで人気があってもリピーターは少なく、乗客がわざわざリニアを選ぶとは思えないという。
その上で、大前氏は「(名古屋までの)開通に漕ぎつけてもリニアで11兆円を回収するのは難しい。東海道新幹線と乗客を分け合うだけで、新たな需要はさほど生まれない。JR東海全体の経営も揺らぐのではないか」と指摘している。
これら3つの理由を基に、大前氏は「今すぐ計画は断念し、機が熟すのを待つことが最適な戦略である。傷を少しでも浅くするために、経営陣には英断を期待したい」などとリニアからの一時撤退を奨めている。
■リニアは「中断しても100点満点」だったが…
筆者は、1つ目の失敗する理由に挙げた「南アルプスルート」の選択について、これまで長い間、南アルプスに関するリニア問題を取材してきたこともあり、大前氏の炯眼(けいがん)ぶりに敬意を表したい。
大前氏の指摘する3つの理由はすべて納得できるから、もしJR東海がリニアからの一時撤退を検討していたとしても全く驚くことはない。となると、大前氏が訴えるように傷を少しでも浅くするために、JR東海はリニアからの一時撤退をすべきなのか?
しかし、一時撤退はいまやできない相談であり、ほぼ不可能とも言える。
その大きな理由は、大前氏が指摘した3兆円の財政投融資の貸付をJR東海が受けたことにある。
JR東海は2010年当時の計画段階では、工事費の増大など何かあれば、リニア工事の一時中断を考えていた。
リニア計画を主導したJR東海名誉会長だった葛西敬之氏(故人)は、自著『飛躍への挑戦』(ワック)で、「金利、物価、人件費、建設工事の難易度などすべてが未知数であり、完成時期もまた変数である」として、リニア工事は「予定どおり完成すれば、200点満点、中断することがあっても100点満点と考えて進めるべき」と書いている。
つまり、リニア建設のリスク要因である「建設資材の高騰等による工事費の増大」「難工事等による工事遅延・完成時期の遅れ」「金利上昇」「社会全体の物価上昇」などがあれば、リニア工事を一時中断して、「ドル箱」の東海道新幹線で収入増を図り、その後リニア工事を再開するとして、開業時期の2027年の延期を視野に入れていたのである。
それで、「中断があっても100点満点」(葛西氏)となるのだ。
■国がJR東海に貸し付けた3兆円の「メッセージ」
しかし、財政投融資による3兆円の貸付がそれを許してくれなくなった。
財政投融資は、政府が国債の一種である財投債の発行で調達した資金であり、それもJR東海への貸付は「無担保」「30年間元本の返済猶予」「平均金利0.8%の低利」と三拍子そろって破格に優遇されたものである。
もともとJR東海は2027年に品川-名古屋間が部分開業をすると、長期債務残高が健全経営の危険レベルとなる「5兆円」に達すると見込んでいた。
2027年に名古屋までの部分開業をしたあと、8年間はリニア工事を一時中断して、東海道新幹線で稼ぎ出す営業キャッシュフローを借金返済に充てる期間と考えていた。
その8年間は、健全経営の危険レベルに達した5兆円の借金を半分の2.5兆円くらいまでに削減する期間となる。2035年になってから名古屋以西の工事を再開して、10年間の工事を経て、大阪開業は2045年にすると計画していた。
しかし、そこにあらかじめ3兆円という政府融資が入ってくれば、8年間の営業キャッシュフローによる借金返済期間は不要となる。当然、リニア工事の一時中断もなくなるわけだ。
3兆円で、大阪開業を当初計画の2045年から2037年に前倒しさせることになったのだ。
政府側からすれば、3兆円もの特別優遇の資金援助をするのだから、JR東海に8年前倒しをさせ、必ず2037年に大阪開業させよと尻を叩いたことになる。8年前倒しは、政府とJR東海との約束となったのである。
■名古屋までの開業ですらアップアップの状態
2037年の大阪開業は政府との約束となったから、JR東海は2027年名古屋までの部分開業を簡単に延期できなくなった。
葛西氏が言っていた、「中断することがあっても100点満点」などという甘い考えは許されなくなった。
「2027年開業は単なる目標」という理屈は通らなくなり、「工事費の増大」や「難工事等による工事遅延」があれば、一時中断して延期すればいいという選択肢はなくなった。
政府は静岡県の反対などでリニア工事が遅れていることを承知していたから、名古屋までの開業前に、名古屋以西の工事計画づくりをJR東海に迫った。
丹羽社長は「名古屋開業以前に、大阪までの工事に着手することは財務面や工事の遂行能力などを踏まえると不可能」と退けている。
政府に対して、JR東海は民間企業の「経営の自由」の原則を盾にしているが、実のところ、いまや名古屋までの開業ですらアップアップの状態なのである。
■リニア早期開業に「赤信号」が灯りかけている
もう1つの一時撤退を許さない大きな理由は、リニア沿線の地元自治体の存在である。

自治体職員は、2027年開業を目標に1日でも早いリニア建設のために用地取得や移転交渉など厄介な問題をすべて引き受けさせられ、住民らとの交渉の前線に立っている。そんな状況下で、JR東海がリニア工事からの一時撤退などを言い出したら、怒り出すのは間違いない。
大前氏の勧めるリニア工事からの一時撤退ができないとすると、JR東海はいったいどうすべきなのか、それは難しい話である。
ひとつわかるのは、大前氏の指摘した事情などを踏まえると、JR東海は南アルプスルートの最難関と言われる静岡工区の工事完了時期、それに伴う名古屋までの新たな開業時期を発表することに慎重になっているということだ。
丹羽社長は7月24日に国交省を訪れた際に「年内には、品川-名古屋間のリニア開業時期を示す」と表明している。
1日も早く、静岡工区の工事をスタートしなければ、品川-名古屋間の早期開業に“赤信号”が灯ることは間違いない。
----------
小林 一哉(こばやし・かずや)
ジャーナリスト
ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。
----------
(ジャーナリスト 小林 一哉)
