「夢なら覚めないで」昔は追い払った戦友の夢を願う…戦没者「177名」を追悼し続けた「元零戦パイロット」
私が2026年7月、上梓した『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館新書)は、これまで30余年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残った人たちの「戦争」と「戦後」を綴った一冊である。ここでは本書の登場人物の物語から、収載しきれなかったエピソードをまじえて紹介する。
【前編を読む】敵機に「撃たれたときは嬉しかった」…単機で敵群に突入し船団を守った「零戦の英雄」の回顧
慰霊行脚
戦後、茨城県で開拓農家となった角田は、自らの生活を犠牲にしてまで戦死した戦友たちの慰霊の旅を続け、遺族にも尽くし、かつての部下たちからは慕われた。ギリギリの極限状態でこそ、人間性の真価が露わになるのだろう。
平成2(1990)年、積年の無理がたたったのか脳梗塞をわずらった角田は、それでも杖をつきながら、慰霊行脚を続けた。
角田の1日は、机の上に戦死した戦友の遺影を1ページに1枚ずつ貼った蛇腹折りのアルバムを広げ、般若心経を唱えることから始まる。写真のなかの顔は、みな痛々しいほどに年若い。彼らの顔をじっと見つめ、無心に般若心経を唱えていると、1人1人の最期の状況が、まざまざと角田の脳裏に甦ってくる。
夜は夜で、ベッドに入ると、自分の関係した部隊の戦没者177名の氏名を「南無阿弥陀仏」とともに唱える。心をこめて名前を唱えていると、彼らのまだ幼さを残した顔や、戦後、訪ねた遺族のことなどが脳裏に浮かんでくる。その1人1人が愛しくてならない。
角田の体はだんだん不自由となり、1本の杖がやがて2本になったが、それでも慰霊祭へ出ることを諦めなかった。
そんな角田が、あるとき私にしみじみと言った言葉がずっと心に焼きついている。
「いまもよく夢に見ます。戦争で死んだ連中が出てきて、眠っていてもこれは夢だとわかるから、はじめのうちは、『お前たち、また出てきやがったか!早く成仏しろ』と追い払うように無理やり目を覚ましたものですが、歳月が経てば経つほど、夢なら覚めないで欲しい、もっとゆっくり会っていたいと思うようになりました。でも、そう思えば思うほど、夢ははかなくすぐに目が覚めてしまうんです」
しかし‥‥‥と角田は言う。
「特攻隊員が敵艦に向かって突入し、目を見開いて、これで命中する、とわかったとき、幸せに胸をふくらませたであろう気持ちは、自分の体験に照らして信じています。ただ、これを戦後世代の人に理解してもらうことはむずかしいでしょうね。ほんとうに胸をふくらませるような、幸せな気持ちになったことがある人が果たしているのかどうか……」
角田和男という男
平成25(2013)年2月14日、死去。享年94。通夜は2月17日、告別式は18日、いずれも茨城県かすみがうら市の「トモエホール」で執り行われた。
ふつう、この年齢になると同世代の友人がほとんどいなくなっていて、葬送の式は寂しいものになりがちである。だが、親族はもとより全国からかつての戦友や元部下、戦没者遺族たち、著書や慰霊祭を通じて角田と接し、その人柄を敬愛する若い人たち、角田を取材したことのあるテレビやラジオのスタッフなど、交通不便な場所にもかかわらず斎場いっぱいの人が参列し、故人の人徳が偲ばれた。
告別式では、不肖私が弔辞を読む大役を仰せつかり、角田の「戦い」と「慰霊」に明け暮れた生涯を振り返った。軍艦旗に覆われた棺は、特攻隊の元部下たちにも見送られ、永遠の旅路についた。
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